2 婚約破棄
ディナシェリアが応接室に入室すると、すでにビルマルカスとキャリソーナがソファに座っていた。キャリソーナは下位貴族にも関わらず、ディナシェリアが入室したことに気が付き扉の方へ振り向いても、挨拶ひとつしなかった。
『チッ、非常識女がっ!』
屋敷中から舌打ちが聞こえてきそうだった。そこかしこに目があるようだ。さすがに公爵家の使用人だと言える。
二人はそんな視線には気がつかないし、自分たちの非礼にも気がつかない。
『ビルマルカス様はご本人も公爵家の者ですのに、ここまで鈍感であるとは驚きですわね。それに相手への配慮という美学はどこへいったのかしら?』
ディナシェリアはノッスタン公爵家の未来を憂いざるを得なかった。しかし、もうすぐ関係なくなるのだからいいだろう。
ディナシェリアはあえて満面の笑みを二人に送る。
「おまたせいたしましたわ」
そして二人の反対側に座った。昨日もそうであったが、この二人は本来の婚約者を目の前にして隣同士で座り、あまつさえ手を握り合えるなど、正気の沙汰とは思えない。せめて婚約が無効になるまでは我慢するべきであろう。
そんなことを改善させる義理もないので、ディナシェリアは話を始めた。
「もう一度確認いたします。ビルマルカス様はわたくしとの婚約の無効を望んでいらっしゃいますのね?」
ビルマルカスはディナシェリアの敢えて上からの言い方に、無表情を作れず眉をピクピクとさせた。ディナシェリアが婚約無効に何の感情も表さないことも、ビルマルカスの感情を高めている要因だろう。
「ああ、そうだともっ!」
「あっ! もしかしてっ! ディナシェリア様は今更婚約破棄したくなくなったのですかっ!」
キャリソーナが口を挟んできた。挨拶もできない女が偉そうだ。ディナシェリアはもちろんキャリソーナが口を開くことを許可していない。下位貴族は高位貴族の許しがなければ、話はできないという常識も教えてやる義理はない。
義理はないが付き合うのは疲れる。ディナシェリアはキャリソーナを無視することにした。
「ビルマルカス様。この婚約無効において、様々な問題が発生することはご理解の上でございますね?」
「わかっているっ!」
「そうやって脅すのは止めてくださいっ! 早く婚約破棄を進めてくださいっ!」
ディナシェリアの落ち着いた声と二人の興奮した声は対称的で、まるで大人と子供の話し合いのようであった。キャリソーナの無視をされても気にしない強さにはディナシェリアは少しだけ感心した。
『そのお強さが市井では必要なのかもしれませんわね。それにしても、婚約破棄ですか……』
『婚約破棄』とキャリソーナに二度言われて、ディナシェリアは心を決めた。ジャンドに視線を送る。
「では、こちらにサインをお願いいたしますわ。わたくしのサインは済ませてあります」
ジャンドがビルマルカスの前に書類とペンを置いた。ビルマルカスは一応公爵令息らしく、内容を確認せずにサインするような愚か者ではなかった。
「なんだこれはっ! 俺の責任での婚約破棄となっているじゃないかっ!」
キャリソーナはろくに読めもしないのに書類を覗き込む。
「そんなのヒドいっ!」
そのタイミングで、アリナはディナシェリアにだけ紅茶を出した。ディナシェリアはアリナに礼を言って、紅茶に口をつけた。二人は口を開けて待っていた。だが、のんびりしているように見えるディナシェリアに癇癪を起こす。
「なんだその態度はっ! 我々にもてなしもなしとは、公爵家としての恥を知れっ!」
ビルマルカスは立ち上がってディナシェリアを指差しながら怒鳴った。
『ガタン!』『ゴトン!』
廊下と隣室から怪しげな音がした。ビルマルカスはやっとディナシェリアだけでないことに思い当たり少し震えながら座った。
「ビルマルカス様。今回の婚約無効はビルマルカス様のご希望です。そして、そのご希望たる理由はビルマルカス様の不貞です。
ビルマルカス様の責任にて婚約破棄になることに何の問題がございますの?」
ディナシェリアは最後に笑顔でコテンと小首を傾げた。
本当は『婚約白紙』の書類も用意してある。しかし、キャリソーナの態度で『婚約破棄』の書類にすることにしたのだ。ジャンドとは視線だけでどちらを出すかがわかるようになっていた。
「チッ! わかったっ! こんなもの―婚約破棄の責任―は俺の力があれば醜聞になどならないっ!」
ビルマルカスはサインをした。キャリソーナがサインを終えたビルマルカスの手を握り、肩に頭を寄り添わせた。ビルマルカスも嬉しそうにその頭を抱いた。
「それから、これはわたくしのお兄様からの餞ですわ。こちらにもサインをお願いいたしますわ」
ジャンドは婚約破棄書類を下げ、新たな書類を二人の前に出した。ビルマルカスが奪うようにそれを取り内容を読む。
「こ、これは、普通の婚姻届け?」
「そうですわ。ただし、普通のものではございませんの。婚約破棄による醜聞は少ない方がよろしかろうと、お兄様がご用意してくださったのです。
お二人がそこにサインしてくだされば、その場で婚姻が成立するようにしてある特別なものですのよ。
お兄様は王城の総務でお仕事をしておりますので、ご用意していただけましたの」
ディナシェリアは笑顔で答えた。
「ビル……」
ビルマルカスがサインを拒んでいるように感じたキャリソーナが、縋るように腕を絡ませ上目遣いでビルマルカスを見た。
「キャリ。これからはずっと一緒だ」
ビルマルカスはキャリソーナを見て1つ頷き、書類にサインして、ペンをキャリソーナに渡した。キャリソーナもサインをする。
ジャンドがとっとと回収して隣室へと一旦下がった。そのタイミングで別の執事が二人入ってきた。万が一、ビルマルカスが暴れるようなことがあったら、さすがに女のアリナだけでは押さえられないだろうからだ。
「ご婚姻、おめでとうございます。
アリナ。お二人にもお茶をお出しして」
廊下側の扉が開き、メイドが二人入ってきた。二人にはなぜか冷たい紅茶が出された。
「少々興奮なさっていらっしゃったようですので、こちらをご用意いたしました」
ナーダがさり気なく嫌味を混ぜた。万が一、ディナシェリアに紅茶を掛けられることがあってもディナシェリアが火傷をしないための配慮なのだ。
話を聞く時に頭を使わない二人には通用しなかったようで、気にもせずに一気に飲んだ。
そう、貴族令嬢であるキャリソーナも一気に飲んだのだ。ナーダの隣にいた年若いメイドと壁にいた年若い執事は目を見開いた。アリナとナーダともう一人の執事は眉一つ動かさなかった。
『あらあら、二人とも―若いメイドと若い執事―、あとで上からお小言いただくことになりそうね。可哀想に……』
ディナシェリアは使用人二人を優しく見た。アリナは敢えてディナシェリアに軽く片眉を上げて見せて、あまり厳しくはしないことを約束してくれた。ディナシェリアはそれも優しく頷いた。
ナーダと若いメイドは冷たい紅茶のおかわりを出して、廊下へと下がっていった。そのタイミングで執務室に続くと思われる方の扉からノック音が響いた。
誰も返事をしないが、扉は開いた。
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