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第二章⑶春の告白、そして夏。

今回、キリがいいところがなくて少し長めです。

 なんで、こいつはこんなに笑ってられるんだ。僕の斜め前で、柚はわけもわからず溢れてくる涙を必死に堪えていた。肩が震えていたから、きっと泣かないように手を力いっぱい握りしめていたんだと思う。

「本当は、こんな日に言いたくなかったんだけどさ。大学生になったわけだし?心機一転ってことでさ。」

わざと明るく言っている姿が、痛々しく、腹立たしくもあった。

「心機一転って…笑えないよ。」

絞り出すように呟いた柚の肩は、さっきよりも細かく震えていた。

「だって、私は入学生じゃないのよ?どうしてくれるのよ。」

「細かい事はいいだろ?」

眉を上げておどける裕を見て、僕らの頭に、さっき写真を撮る前の会話が浮かんだ。

「…仕返しされちゃった。」

涙を堪えながら必死に作られた笑顔は、あまりに眩しくて、僕は思わず目を逸らした。

「柚…」

裕が彼女を呼ぶのと、彼女が席を立ったのは、ほとんど同時だった。

「ごめんなさい。連絡する。」

一口も口を付けられなかったブラックコーヒーが、彼女が立ちあがった衝撃で少しだけソーサーにこぼれた。


 ソーサーにこぼれたブラックコーヒーを見て、僕はカフェオレに砂糖を入れてもない事に気が付いた。冷めきったカフェオレにスティックシュガーを二本入れ、かき混ぜると、ほんの少し溶け切らなかった砂糖がカップの底でざらざらと音を立てた。それは、僕の心みたいに思えた。柚が席を立ってから、僕らは二人して黙り込んだままだ。何も話さない方がいい気さえしていた。ただ、僕には聞かなくちゃならない事があった。

「遅いって…」

「え?」

僕が話しかけると、裕は背もたれに背中を付けたまま、目線だけを僕に向けた。

「遅いって、どういう事なんだ。あと、…時間がないからか。」

「八ヶ月で死ぬからか」と続きかけた言葉を飲み込んだせいで、変な日本語になった。裕はきっと気づいてるだろう。

「四ヶ月あったらさ、お前らと何できたかなって思ってさ…俺さ、やりたい事いっぱいあるんだよ。でもさ、やっぱりその時隣にいてほしいなって思うのはお前らだからさ。四ヶ月前に話せてたら、その時から今まで俺のやりたいって言った事絶対なんでも一緒にやってくれたじゃん?大してやりたくないことでもさ、お前ら優しいからさ。」

「遅いってそういう意味か…」

「時間もったいねーじゃん。」

そうか…。

「裕…」

そうか、四ヶ月。たった四ヶ月でお前は自分の死を受け入れたのか。たった一人で、悩んで、多分たくさん泣いたんだろう。それでもやりたい事をやろうと、前を向こうと思ったのか。なんだよ。なんなんだよ。いつもそうだ。くそっ…。

「なんで、そんなにカッコいいんだよ。」

僕は涙を堪えるのに必死だった。でも、裕は笑っていた。それを見て、僕は余計に泣きそうになった。

「なんで笑ってんだよ。」

「だって、俺が泣いたらお前も泣くだろ。」

泣かないよ。と言いたかったのに、本当に涙が出てきそうで、言えなかった。


 裕は、オレンジジュースに刺さっていたストローをゆっくり抜いて、直接グラスに口を付けた。それから、ゆっくり噛み締めるように誰かを想っていた。「誰か」なんて聞かなくてもわかる。裕は、愛しい人を想っていた。

「柚は、…知ってたのか。」

「知らなかったよ。」

「そうか。」

裕なりに考えて、僕ら二人に同時に伝えたんだろう。そして、柚もその事は分かっているはずだ。ただ、心の整理がつかないだけだ。連絡すると言い残したのは、今の彼女が言えた精一杯の言葉だったんだろう。「一人で考えたい。そういう事だと思う。」と言う裕の瞳は、彼女の全てを分かっているような気がした。

「おばさん達には?」

僕たちに今まで黙っていた裕だ。両親にも言っていないかもしれない。


「気づいてる…かもしれない。」

「やっぱり話してないのか。気づいてるって?」

「俺さ、家で過ごす時間って今まで大切とか思ってなかったんだよ。いつも飯食ってもすぐ部屋いっちまってたし。でも、あと一年って言われてから、大事にしなきゃなって思ったんだよ。だから、いつもよりちょっと家族との時間も大切にしてみたんだ。」

「そしたら?」

「『何かあったんだろうけど気長に待つわ』だってさ。」

「すごいな。」

「あぁ、本当すごいよ。一生勝てねぇなって思ったもんな。」

「おばさん、仕事忙しいのか。」

裕の両親は共働きで、小さい頃から留守が多かった。それでも、必ず裕を優先する両親を、こいつは誇りに思っていたし、感謝もしていた。そして、だからこそ、中学に上がってから裕は、両親の仕事の邪魔だけはしたくないと言っていた。

「それだけじゃないんだ。ただ、勇気がなかったってだけかも。」

「勇気か…」

「お前らに言うのもめちゃくちゃ勇気いったんだぞ。俺が親に相談とかそういうのあんまりしないの知ってるだろ。」

そんな自分が珍しく言い出すことが、「余命宣告を受けた」になる。「そんな親不孝なこと言えるかよ。」そう言って裕は窓越しに空を仰いだ。

「でも、言わないわけにはいかないだろ。」

「その通り。…早めに言おうとは思ってるよ。」

「本当に早めにな。」

「わかってる。やっぱり心の準備っているしな。」

「息子が死ぬ前に…」とつぶやいた彼の言葉は聞こえないふりをした。


「聞いてもいいか。」

「いやだ。」

迷わず言った裕は、僕が何を聞くか分かってたんだと思う。

「なんの病気なんだ。」

「いやだって言ったろ。まぁいいや、でもそれだけは教えないって言ったらどうする?」

「え?」

「お前絶対調べるだろ。治療法とか、期間とか色々。」

「調べるよ、それぐらいさせてよ。それに柚だって…」

気になるに決まってる。立場は違っても、裕は僕らのかけがえのない人だ。どんな病気で、どんな治療をするのか。なぜ、あと八ヶ月しか生きられないのか。

「嫌だよ。これだけは嫌だ。調べて、俺より詳しくなっちゃって、お前が医者と喋りたいって言うのが目に見えてる。」

「それはそうかもしれないけど…」

「頼むよ…」

今まで笑ってたこいつが、初めて泣きそうになるから、僕はそれ以上、何も聞けなかった。


「それにさ、」

裕は、僕と話し始めてから初めて俯きながら話した。そして、心の中でずっと抱えていた「一番」の不安を話し出してくれた。

「あいつの事なんだけど。」

「うん。」

「どう思う。」

「どうって。」

「このまま俺が付き合っててもいいのかな。」

僕は、しっかり踏ん張っていたのに、後ろから突き飛ばされたような気持ちになった。裕がどうしてそんなことを言ったのかはわかってる。自分が、死ぬからだ。

「もうすぐ死んでしまう自分が柚の時間を奪ってもいいのかな。」

僕はこれまで十九年間、こんな弱気な裕を見た事がなかった。

あぁ、こいつは本当に覚悟を決めたんだ。なら…お前が弱気になるなら、僕が背中を支えてやる。押してやる。


「ダメなんて言うと思うか。」

「だよな。でもさ、これは俺の親友としてじゃなくて、あいつの友達として答えてほしいんだ。」

「どういうことだ。」

「俺の親友としての答えなら、聞かなくてもわかるよ。ありがとう。でも、あいつの友達としては?もうすぐ死んじゃうよ俺。そんな奴と付き合っててほしいかよ。」

「僕は今お前が馬鹿なのか、あほなのか、頭が悪いのかどれなのか迷ってるよ。」

「へ?…ってかそれ、全部意味同じだよ。」

裕は一瞬、顔を上げて「訳が分からない」という顔になって、でもすぐに突っ込んできた。弱気になんてなるな。なってくれるな。頼むから。

「答えは変わらないよ。いや、変えられないよ。僕はこの三年間、お前たちを一番近くで見てきた。お互いの事をどれだけ大切に思っているのかも知ってるつもりだよ。」

裕はまた俯いてしまった。

「お前が柚を想って身を引こうとするように、柚もお前のことを想ってるよ。」

「うん。分かってる。それでも…」

「『男のちんけなプライドに付き合ってられません。』」

「へ?」

裕はまた顔を上げた。

「柚が好きなドラマの台詞。大事な人が弱ってる時には傍にいたいもんだよ。たとえ相手が望まなくてもな。」

「柚もそうかな…」

また俯く裕。

「馬鹿であほで頭が悪い…全部だなお前は…」

「へ?」

顔を上げてまた間の抜けた声を出す裕。なんだかイライラしてきた。

「そのまま顔上げて聞いてろ。この馬鹿!当たり前だろ?なんでお前が分からないんだよ。それに、お前だって本当はあいつに傍にいてほしいくせに、変な意地はるなよ!好きな人の傍にいれないなんて、地獄だよ…きっと…」


 多分、この日僕は人生で一番大きな声を出した。一番怒った。ポカンとした裕が、何回か瞬きして僕を見つめ直した。僕は、冷めきったカフェオレを飲み干して、のどを潤した。

「お前、そんなでかい声出るのな。」

「正直、僕も驚いてるよ。」

客が少なくて助かった。僕は、少ない客に軽く頭を下げて裕に向き直った。長い沈黙があった。そして、一つ大きな息を吐いて、裕は口を開いた。


「怖いんだ。」

「怖い?」

「あいつを置いて死ぬのが。傍にいてほしい。でも、きっと沢山無理させちまう。あいつは俺の前で泣けないと思う。そんで、我慢して、我慢して、俺が死んだ時、何かがプツンと切れちまうんじゃないかって。それが怖いんだ。」


 言葉が出なかった。裕は、僕が思っているよりずっと、柚を愛してる。僕は急に恥ずかしくなった。そして、心の端の端で芽生えそうになった黒いものを、体の中から押し出すように、ワイシャツのボタンを二つはずした。

「僕は、二人は結婚するだろうなって思ってたんだ。勝手に。」

「そうしたかったよ。」

「卒業して、就職して、お互い『もういいか』とかなんとか言って、何のムードもないプロポーズしてさ。子供ができて、誰よりも幸せになっていくと思ってたよ。」

「何のムードもないは余計だよ…でも、俺も思ってた。」

「今も思ってる。」

「え?」

「生きろ。」

「無理なんだ。」

裕は一瞬驚いた顔をして、それから優しく、痛く、微笑んだ。それでも僕は、強く、強く、言った。

「無茶なこと言ってるよ。でも、生きろ。例え未来が変わらなくても、心だけは殺しちゃだめだ。生きたいと思ってるその気持ちを…、あいつを、柚を大事にしてるその気持ちを、殺してやるな。生きろよ。」

芽生えかけた黒い気持ちは、もう姿を消していた。

「お前…。…っ。いや…。かっこいいよ。お前はいつも俺にかっこいいって言ってくれるけど、俺に言わせりゃ、お前の方がよっぽどかっこいいよ。」

裕は、何かを言いかけた。でもそれを飲み込んで、僕をかっこいいなんて言ったんだ。


 かっこいいもんか。僕は、一瞬だけ思ってしまったんだ。これを機に二人がうまく行かなくなるんじゃないかって。でも、僕も覚悟は決めた。支えよう。この二人を。僕が愛した、「人達を」…。

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