第二章⑵春の告白、そして夏。
裕は昔からオレンジジュースが嫌いだった。でも、何か話したいときだけは決まってオレンジジュースを飲むんだ。そしてその話は、決まって悪い話だった。
小学四年の頃、裕が飼っていた犬が死んだ。事故だった。夏休み中に起きてしまったその不幸を、僕の家まで話に来た裕は、大きなリュックからぬるくなったオレンジジュースを出して飲んだ。中学三年の時、利き腕を骨折して、少年野球の最後の大会に出られなくなった裕は、レギュラーを外された。そして、その日僕の家に来た時も、裕はスポーツバッグからやっぱりオレンジジュースを出して飲んだ。
「何があった。」
深刻な僕の低い声に、柚の方がびくっと小さく震えた。そして、不安そうな声で、僕と裕の顔を交互に見た。
「え、何?何かあったの?」
僕は、裕から視線を外す事ができなかった。裕は、僕をじっと見た後、彼女を見つめて困ったように眉を下げた。その顔は、裕がこれまでオレンジジュースを飲んだ時のそれと同じだった。
息の詰まりそうな沈黙が続いた時、ウェイトレスがやってきて、注文したものを順番に机の上に置いた。オレンジジュースは最後におかれた。僕と柚は、裕の前におかれた見慣れないオレンジジュースを時限爆弾を見るように見ていた。いつも明るい裕が、この異様な沈黙に何も言わない事が、これから話されるであろう事の大きさを余計と感じさせた。
「俺、病気みたいなんだ。」
人は、何も考えられなくなった時に「頭が真っ白になる」という言葉をよく使う。だけど僕は、そんな風には思えなかったし、これから先、今の状況を思い出してもそんな風には言わないだろう。そうだな、心臓を掴まれて、背中よりもっと後ろの暗い所へ引っ張られたような、そんな感じだった。言葉が出てこない。聞きたい事は山ほどあるはずなのに、僕は言葉を忘れてしまったように何も言えなかった。
まだ、どんな病気なのか聞いてすらない。耳だけで聞けば、まるで他人の話でもしているかのような裕の声。でも、きちんと裕の顔を見て、心で聴いていた僕らには、それが裕のせめてもの気遣いだという事が痛いくらいに分かった。そして、その気遣いが、病気が重いという事の表れだという事が分からない程、僕ら三人の仲は浅くはなかった。
「突然でごめん。去年の十二月にはわかってたんだけどさ、なかなか、言い出せなくて。せっかく新しい生活が始まるっていうのにこんな事、本当は言いたくなかったんだけどさ。」
謝る裕の顔は、すごく穏やかだった。
「ごめんな。」
もう一度謝る裕を見て、僕は思いっきり殴られたような気分になった。
「謝るな。お前が悪いわけじゃないだろ。ちょっと混乱して、言葉が出なかっただけだ。悪い。」
「そうよ!謝らないで。私達がしんみりしちゃったせいね!別に謝るようなことじゃないもの…」
柚の瞳には、うっすらと涙が光っていた。
「でも、言うのが遅くなっちゃったからさ。」
この四ヶ月、裕は一人で病気の事を抱えて、考えていた。そして、隠さず、僕らに話す事を選んでくれた。逆に言えば、それだけ伝えるべきか悩む病気だという事だ。多少なりともサインはあったはずだ。いくら受験に忙しかったからって、親友のそれに気づかないなんて、僕は自分が情けなくて仕方なかった。
「遅くなんてない。話してくれてありがとう。四ヶ月も気づけなくてごめん。」
強い瞳で裕を見る柚の目に涙はない。きっと僕と同じ事を考えているんだろうなと、なんとなくわかった。
「そこで『気づいてあげられなくて』って言わないところが好きだよ。でもやっぱり、謝るのは俺の方だ。」
「おい。怒るぞ。どんな病気かは分からないけど、お前は四ヶ月間、悩んで、考えて、それで僕らに話してくれた。むしろ四ヶ月で話してくれたことが嬉しいよ。」
どれだけ勇気のいる事だったか、想像もできない。
「いや、遅いんだ。」
「お前な…」
「死んじゃうんだってさ。俺。」
時限爆弾のように見えていたオレンジジュースの中の氷が、「カラン」と音を立てて崩れた。僕らには聞かなくちゃいけない事が山ほどあった。どんな病気なのか、どんな治療をしているのか、普段の生活に支障はないのか。でも、突然親友の口から出た言葉は全てを忘れるには十分過ぎる一言だった。
「死ぬ?お前が?冗談だろ?」
話の順序のなってないこいつの事だ。何かの間違いかもしれない。
「まぁ、そう思うよな。残念なことにホントなの。あぁ、直ぐってわけじゃねーよ?あと八か月はあるし。」
「何が。」
「ドラマとかで言う余命ってやつだな、十二月の時点で一年だって言われた。」
小学校から一緒で、お互いよりもお互いのことを知っているような奴が、初めて意味のわからない事を言っている。なんの冗談だ。あと八ヶ月で死ぬ?嘘に決まってる。
「なんの冗談だ。」
嘘に決まってるんだ。また話す順番を間違えてるだけだろう?頼むから冗談だって言ってくれ。僕は、少ない望みを何とか現実にしたくて、目で必死に訴えた。声には出せなかった。堪えているものが落ちてしまいそうだったから。
「ごめんな。」
何かが崩れる音がした。分かっていた。オレンジジュースを飲む時、裕は嘘をつかない。
ここから、本題突入という感じです。