第十四章ここから始めよう。
飯田が帰った後の会議室は、なんだかいつもより広く感じた。あいつの事だ、ちゃんと誤って仲直りするだろう。「自分が悪かった」と謝って、「それでも君を愛している」と彼女を強く抱きしめるんだろう。僕は、愛しい人に「愛しい」と言える飯田が羨ましい。僕は、愛しい人に気持ちを素直に伝える事も、抱きしめることもできない。それなのに、離れることもできずに、どうにか彼女の近くにいようともがいては、彼女を傷つける。やっぱり僕らは、一緒に居るべきじゃないのかもしれない。
いつもこうだ。東京にいた時も、今も、どれだけ忙しく仕事を詰め込んだって、仕事の後は必ず彼女を想ってしまう。そして、こんな風にネガティブになる。もし、僕が「僕」と友達なら、きっと面倒くさくて何発か殴ってる。もちろん実際そうであっても殴ったりしないけど…つまり、そのくらい面倒くさい事を言っている自覚はあるってこと。現に今も、彼女の「ごめん」が頭から離れないくせに、ロックを解除までしたスマートフォンに指を滑らせることはできない。分かってる。きっと、彼女からの連絡はこない。自分が傷つけてしまったと思う相手への一歩が踏み出せない臆病な所は、僕とよく似ていると思う。そして今、僕らはお互いがお互いを傷つけたと思っているんだと思う。
「お前には一生わかんないよ。」
ふと、三日前の飯田の言葉が頭に浮かんだ。あの時僕は、「明日は変わらないから」と飯田に「また明日」と言った。でも、飯田は「帰る時くらい明日はない気持ちで帰りたいんだ」と言った。正直、「現実逃避して何が変わるんだ」と思った。でも、今の僕は彼女を傷つけてしまった事実から逃げたい気持ちでいっぱいだ。僕だって現実逃避してる。いつだって、僕はそうなのかもしれない。
きっと初めからそうだったんだ。彼女と初めて会った時も、「お話会」に言った時も、裕の病気が分かった時も、就職した時、彼女に再開した時、そして今。僕はいつだって、彼女への想いから逃げている。「明日の自分」と向き合うのが怖くて、「変えられない明日」をみるのが怖くて、立ち止まってしまう。そろそろ向き合ってみよう。彼女と。そして、僕自身と。
地獄の週が終わった。みんな疲労困憊だ。何人かは死相が見えそうな顔でオフィスを出ていく。明日は土曜日。一週間ぶりにゆっくり休める。ただ、僕にはやらなければいけない事がある。帰路に立ち、秋と冬が混じり合った風に眉をひそめた。いつものファミレスを通り過ぎ、誰もいない家に帰る。でも、不思議と温かさの残る家だと、今日はやけにはっきりと思った。この温かさは、もう両親のものだけじゃない気がしていた。裕と柚の温かさもここにはあるみたいに感じる。
彼の父に手渡されてから、ずっと引き出しにしまわれていた「想い」は、七年近く経っても、黄ばみひとつなく、きれいなままだった。ここから始めよう。僕は封のされていない封筒を開き、裕の「想い」を取り出した。中身は意外にも一枚だけだった。そして、その中には力強く優しい字で、一言だけ書かれていた。
「柚稀を頼んだ。」
僕は走っていた。仕事での疲れも、臆病な自分も置いて、ただ走っていた。秋と冬が混じり合った風が、今度は僕の背中を押していた。寒さが心地いい。電車を待つ時間が歯痒くて、柄にもなくずっと走っていた。運動部でもなかったのに、意外と走れるもんだ。彼女の会社の最寄り駅、時間は午後八時半。駅に着いてから、会える保証なんてない事とスマートフォンを置いてきてしまった事に気が付いた。
「必死だな…」
上がった息に乗せて思わず声が出た。偶然そのタイミングで前を通った女子高生に不審な目で見られた。仕方ない。いい年した大人が全力疾走の後、独り言を言っていたらそんな目にもなる。僕は、いったい何に必死なんだろう。会えるかも分からない。まず、まだ会社にいるのかさえ分からない。会って何を言えばいいのかも分からない。こんな効率の悪いやり方、学生でもあるまいし。今時、学生でもしないか。それに、僕には運がない。きっと会えない。
僕の人生には奇跡が二回起きた。最初の奇跡は、小学生の頃に裕と出会った事。裕は僕にとって、親友であり、ライバルであり、家族だった。そして、二回目の奇跡が君と再会した時。出会った事は、僕が裕と出会った時点で必然だったんだと思うから、裕がこの世からいなくなってから君にもう一度会えた事の方が奇跡だ。そして、これが僕の人生で三度目にして最後の奇跡なんじゃないかと、今僕は思う。
「久しぶり。」
僕は季節外れにかいた額の汗を拭いながら、二週間ぶりに会う彼女を真っ直ぐ見つめた。
「どうしたの。こんなところで。」
僕の瞳を真っ直ぐ見つめ返す柚の瞳は、驚きを隠さないでいた。
「近くまで来たから…」
「近くまでって、会社も家も反対方向じゃない。」
「そうなんだけど…。」
ここで君に会いに来たと素直に言えないのが僕…だった。
「君に会いに来たんだ。」
「え?」
「柚稀に会いに来たんだ。」
もう一度力強く言う僕に、彼女は「そう…。」と噛み締めるように二度呟いた。
「誕生日、おめでとう。」
彼女の大きな瞳がかすかに揺れた。そして、出会った頃と変わらない表情で、いたずらっ子のようなあの表情で、僕に、
「遅いんですけど。」
と言った。
「うん。」
僕はただ頷いた。
「二週間も前なんだけど。」
「うん。」
今度は少し力強く頷いた。
「四年ぶりだったのに。」
僕が大学を卒業してから、彼女の誕生日に僕が一緒に居たのは四年ぶりだった。
「そうだね。」
「わざわざ言いに来てくれたの?」
「違う。」
「違うの?」
「いや、違わないけど、違うんだ。」
「今、出会って初めてあなたの言いたい事が分からない。」
キョトンとした君に僕も自分が何を言いたいのか分からなくて、戸惑いながらうなずいた。
「うん。」
僕は筋や理由を大切にしてきた。筋の通らない事や理由のない行動は嫌いだし、そういう人にも嫌気がさす。でも、彼女の事になると、傍にいたいけど居たくない、なんていう筋の通らないことを思うし、ここまで彼女を想う理由も分からない。理屈や理由なんて、そんな簡単な言葉では片付けられない深い気持ちになるんだ。
言いたい事はたくさんある。まず、この前のことを謝りたい。それから、裕からもらった手紙の事を話したい。君の話が聴きたい。僕らの話がしたい。頭の中に言いたい事が数えきれないほどたくさん浮かんでいるのに、それを言葉にする技術を僕は持っていない。ただ話せばいいわけじゃない。色んな事が話したいんだと、君の話が聴きたいんだと、僕の話を聴いて欲しいんだと伝えたい。それを今、全て伝えられる言葉は何だ。君に優しく届くように伝えられる言葉は何だ…。
「ファミレス行かない?少し遠いけど…。」
ようやく言ったその声には少しの緊張と覚悟があった。君にもきっと届いているだろう。彼女は僕の緊張と覚悟に優しく微笑んだ。
自動ドアが開くと、軽快な音楽が短く鳴った。それを合図に黄色と茶色の制服を着た店員が僕らのもとへやって来る。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「あ、二名です。」
「お好きなお席へどうぞ。」
高校生くらいの店員にそう言われた僕らは、七年前と同じ窓際の席を選んだ。
七年経っても変わらない内装。制服。入店時の音楽。さっきの店員が、「お冷です。」と言いながら僕らの前にグラスを置いた。
「ご注文はお決まりですか?」
僕が彼女と目を合わすと、彼女も僕に目線を揃えて、僕にしか分からないくらいに小さく口角を上げた。
「カフェオレとホットコーヒーを、ブラックで。」
七年前と、いや、十年前と同じ注文。このファミレスと同じ。変わらない僕ら。しかし、僕の注文を聞いた途端、店員の顔に困惑が浮かんだ。
「申し訳ござません。当店、お飲み物はドリンクバーなんですけど…。」
あどけない敬語と丁寧語の混じった変な話し方でそう言われ、僕は慌ててメニューを開いた。
「あ、本当だ。」
目の前でそういう彼女の目線の先には、ドリンクバーの機械があった。
「すいません。ドリンクバーを二つで。」
「かしこまりました。」
僕らは、「変な客だ」という認識を隠そうともしない店員に気付かないふりをして少し俯いた。
「そりゃあ、メニューくらい変わるわよね…。」
「七年前でも、ファミレスなのにドリンクバーじゃないの珍しかったしね。」
「そこが少し気に入ってたんだけどな。」
「分かる気がするよ。」
外観、内装、制服。変わっていない事の方が多いのに、そのひとつの内側の変化が、何故か凄く大きなことに思えた。変わったのはたかがメニューだ。でも、確かに変わっている。僕が、僕らが変われない間にも、時間は確実に過ぎている。そんな当たり前のことが頭に浮かんだ。
「柚稀。」
「何?」
「話をしよう。」
いつも「柚」と呼ぶ僕が君の名前を呼ぶと、それだけで君は全てが分かるみたいに微笑んだ。
「そうね。まず、何の話をする?」
「まずは…この間はごめん。『恋人ごっこ』なんて言って。思った事ないんだそんな事。」
「分かってる。私こそ、あんなこと言わせてごめんなさい。」
「謝らないでほしい。柚は悪くない。僕が自分の事しか見えてないかったんだ。まだ、あいつの、裕のいない世界に馴染めてないのは自分だけだって思ってた。君はちゃんと前を向いて、この世界に馴染んでいるように見えたから。そんな柚が、憎らしくて、少し…羨ましかったんだ…。」
「羨ましい?」
「うん。」
「どうして?」
「なんだろう。うまく言えないんだけど…置いてきぼりにされたような気持になったんだ。」
「何それ。」
空調の温度が少し下がった。気がした…。
「置いてきぼりにされたのはあたしの方よ!何それ。大学卒業して直ぐ、あなたは東京に行っちゃって、連絡も取れなくなって。」
僕は、早く忘れてしまいたかった。裕の事も、君の事も。
「うん。ごめん。弱くて、ごめん。」
逃げてばっかりでごめん。
「何度も進まなきゃって思った。」
「うん。」
本当は君だって弱いのに。辛くなればなるほど泣けなくなってしまう程弱いのに。
「僕らは七年前のまま動けないんだね。」
「腹が立つ。」
「え?」
「あなたにも、裕にも、本当に腹が立つの。」
「……。」
「二人は、初めて私に強くないと言ってくれた。それが凄くうれしくて、私、年上なのに甘えてばっかりだった。」
「そんなことないよ…。」
「聞いて。」
「はい。」
今、僕が何を言おうと下手な慰めにしか聞こえない。そうとは分かっていても、何か言いたくなる。
「甘えてばかりだったの。分かる?」
「……うん。」
僕は頷く事しかできなかった。
「だから私は、とっくに一人で立ってなんていられないの。ずっと一人で立ってたのに、あなたと裕に甘やかされて、人に頼る事を知っちゃって、その安心を知っちゃって…。」
「……。」
「でも、二人ともいなくなった。」
強いのは言葉だけだった。今、僕らに腹が立っていると言う君の瞳は、ちっとも怒ってなんかいない。それが僕にはどうしても理解できなかった。
「なんで、怒らないの。」
「怒ってるけど?」
「嘘だよ。君は怒ってない。」
「本当よ。怒ってる。でも、ほんの少しだけ。」
「なんで。」
「過去を変えたくないから。」
「変えたくない?」
「そう、裕と出会って、あなたと出会って、沢山の思い出ができた。でも裕が死んじゃって、あなたもいなくなって、急に一人になった。寂しかったし、苦しいと思った日もあったよ。正直、何度か呪いかけたし。でも、今こうして話せていることに意味があるのよ。あなたが今、私と向き合ってくれているこの『今』は、どの過去が欠けてもダメだから。」
「そう…か…。」
彼女はどうしてこんなに大人なんだろう。そして、僕はなんでこんなに子供なんだろう。過去に囚われているのでも、乗り越えて先に進んでいるわけでもない。楽しかった過去も辛い過去も、どれか一つ欠けてもダメだったんだと彼女は言う。そのすべてが今になっているんだと言う。分かっていても、本当に思える人を僕は彼女の他に知らない。
「本当に呪われなくてよかったよ…。」
「あと何日か来るのが遅かったら本当に呪ってたわ。」
言葉とは裏腹に、彼女の瞳は暖かった。