3.さよならなんてしたくない
「わたし、明日から学園の寮に入ります」
え?
という俺の声は、ほとんど声になっていなかった。
夕食の席でのことだった。
食堂の奥の方に、ベティアと並んで立った孤児院長が彼女の言葉を引き継いだ。
「ベティアは学業に集中したいということなんだ。みんな、寂しいけど笑ってさよならを言おうね」
そんな、とか、えー、とか。
驚いた声ももちろんあったが、ベティアが真っ直ぐな目で言うもんだからみんな黙った。
「わたしもみんなと離れるのはすごくすごく寂しいです。でももっと頑張って勉強して、もっとみんなのために何かできる人になりたいから。それにみんなとは強い力でつながってるから。どうか、気持ちよく送り出してください」
それって、なんかもう会えないみたいじゃん。
変なこと言ってるなと思って俺は笑いそうになった。
大袈裟だなあ、ベティア。
笑えなかったのは年下のチビたちが本気で泣き出しそうな顔になったことに気づいたからだ。
一回学園の寮入ったらそう簡単には外出許可出ないんだって、という声も聞こえた。
ベティアがずっとそばにいられるわけじゃないと言っていたことも思い出した。
深く頭を下げたベティアの金髪がさらりと揺れて、俺はようやくはっとする。
え、マジで?
◆◇◆
ベティアは次の日から本当にいなくなった。
朝にみんなに惜しまれながら孤児院の門を出て行った。
その背中が見えなくなるまでずっとずっと見送って。
俺はとうとう一人になった。
いつもいる人のいない時間を過ごすのはキツかった。
だってそこにいて当然なのにいないのって変じゃん。
昨日はいたのに今日はいないっておかしいって。
そんなの絶対違和感だよ。
そのあたりで俺はようやく認めざるを得なくなった。
俺、ベティアのことすっげえ好きだったんだな。
それでも二日は我慢した。
三日目で俺は爆発した。
◆◇◆
「俺、レトゥナ魔法学院を受験します!」
近々レトゥナ魔法学園の入学試験が行われると聞いた俺は、その夜にくっきりはっきり宣言した。
俺の上げた大声は、夜の孤児院の食堂を少しの間だけ静かにした。
こっちを見た奴もいたかもしれない。
が、たいして長引きもしないでみんな夕食に戻っていった。
おかしいな、と思って俺はもう一度言った。
「ホントっす! マジで受けるっす!」
「どいて」
食事を終えた奴が、積み上げた食器を手に俺を押しのけた。
よろめいた俺はテーブルの上のコップを倒して、こぼれた水が引っかかった女子ににらまれた。
えっと、あれ? なんで?
みんな俺の言うこと聞いてる?
「いや、だから、マジで俺はレトゥナ魔法学院を……」
「学園な」
「座って食えよ」
「ゼン君。食事のときはもうちょっと静かにしようか」
院長先生までが俺をなんだか可哀想なものを見る目で見ていた。
そこでようやく俺は気づいた。
お前ら一人も俺の言葉を本気にしてねえな!
◆◇◆
ちっくしょー……俺だってやるときゃやるんだぜ。
次の日になって街中を歩きながら俺はぼやいた。
あいつら絶対ぎゃふんと言わせちゃる。
書物売りの店や行商人を見つけては本を手に取ってめくってみる。
数ページ読んで俺は力強くうなずく。
よし、全然分からねえ。
「おっちゃん、この本ってどれくらい難しいこと書いてあんの?」
「ガキでも分かる算術の本だ」
「こっちは?」
「それはただの絵本だ」
ふうむ、聞いてもどれくらいムズい本なのかが分からねえ。
自分の実力すら分からないのは不便だな。
「で、お前、それ買うのか?」
「いや? 金ねえもん」
ソッコー追い出されて道に転がった。
馬車の車輪が顔のすぐ脇を音を立てて通過する。
あっぶねー!
死んだらどうする!
「はあ……」
それにしても上手くいかねえな。
路地裏の箱に座ってため息をつく。
本が手に入らなきゃどうしようもねえじゃんね。
金があればいいんだけど、小遣いなんて溜めてねえし。
いやあなんとも世知がらい。
「はあ……」
それは俺がつこうと思ったため息だったが、俺の口から出たものじゃなかった。
隣を見るとすぐ近くに、俺と同じように座り込んだ爺さんがいた。
黒いフード付きのローブを着込んだ爺さんだ。
とても疲れた様子でうつむいている。
脇には大きな重そうな鞄が置いてあるけど、まあそりゃそんなもの運んでりゃ疲れるわな。
なんか事情があるんだろう。
大きな重い鞄運びなさいの刑を科されている最中とか。
もちろんそれには同情するけど、でも人がつくはずだったため息を取っていい理由にはならない。
俺は爺さんをにらみながら声を上げた。
「気をつけな爺さん!」
「え……? ……ああ。なんかわからんがごめんよ悪かった」
物分かりのいい爺さんだ。
そういうことなら許してやろう。
俺は大きくうなずくと、立ち上がって爺さんに近寄った。
「いや、こっちこそ急に怒鳴って悪かったっす。それよりどうしたっすか。疲れてるっすか?」
「ああいや……うん、そうだな。とても疲れてるよ」
「なにがあったっすか?」
隣に腰を下ろしながら言うと、爺さんは小さく笑った。
「まあね。いろいろと。いつも疲れることばかりだ」
「荷物いっぱいっすもんね」
「いや、これは大したことないよ。でも、人の肩にかかるのは物理的な重みだけじゃないからね。身動きが取れなくてとても苦しいんだ」
「俺、手伝うっすよ」
なにげなく言うと、爺さんは目を丸くした。
「手伝う……? はは。面白いことを言うね」
「手伝い欲しくないんすか?」
何だこの爺さん。
人がせっかく親切なこと言ったのに。
「いや悪い悪い、申し訳ない。ただね、これはわたしの仕事であって、誰か他の人に任せるわけにはいかないんだ」
「ふーん……なら仕方ないっすね」
「でも気持ちはありがたいよ。なんだかすごく孤独な気がしてたからね。君みたいな人がいるのは本当にありがたい……」
ふう、と爺さんは天を仰いだ。
俺もその視線を追うと、建物の屋根の間に切り取られた空が見えた。
数日前にベティアと一緒に見上げたのと似ている空。でも全然違う空。
しばらく流れる雲を目で追って、俺はぽつりとつぶやいた。
「じゃあ、俺と同じっすね」
「ん?」
「俺も孤独っす。最近一人になっちゃったっす」
ベティアがいなくなって、孤児院に俺の居場所は本格的になくなった。
みんな俺を馬鹿にしている。
まあ実際馬鹿だからそれは仕方ないんだけど。
でもベティアがいないのは死ぬほどつらい。
「つーワケなんす」
「なるほどねえ……」
俺の話を聞いて爺さんはしみじみとうなずいた。
「わたしも大事な人と別れる経験をしたから分かるよ。人生にはそんなことがいくつもある」
「失礼っすけど老人の訳知り顔はいらんす。俺は諦めないっす。レトゥナ魔法学園を受験して絶対受かります。そしたらまたベティアに会えるっす」
「レトゥナ……あの名門の? それはまたかなり大変なことだろう」
「そっすよ。でもやり遂げるっす。こんな時に役立たない愛の力なら愛なんてこの世にないっすよ」
「ふうむ……そうかもしれないが」
爺さんは顎に手をあててしばらく考え込んだ。
「君、やっぱりわたしを手伝ってくれないか?」
「?」
「さっき言ってくれたじゃないか。荷物を分担してくれるって」
「いっすけど」
男に二言はない。
「もちろんタダでとは言わないよ。君にもメリットがある」
「メリットっすか?」
「ああ。レトゥナ魔法学園に合格できる」
は? え、マジ?
「大マジだよもちろん。君に資格と運があればだけどね」
そう言って爺さんは脇に置いていた例の鞄を持ち上げて、俺に差し出した。
受け取る。
うっわ、おっも!
「これがわたしの重責の一端だ。それを君に託す。気を付けて使ってくれ。これはいわば大きなズルだ。しかもリスクは重い。後悔はしないかね?」
「しません」
「ほう……?」
即答した。
爺さんは意外だったみたいだ。
「好きな女のためだったらズルだろうと高リスクだろうと何でもするっす。できないのならそれは結局好きじゃないってことっす」
爺さんはぽかんとして俺の顔を見つめた。
それからにっこりと笑ってこう言った。
「よかった。わたしも後悔せずに済みそうだ」
そしてこちらに背を向ける。
「じゃあな少年。縁があったらまた会おう」
「うっす! ありがとうっす!」
手を振り去っていく爺さんを見送る。
手の中で鞄がずっしりと重みを主張していた。