盲目の星
昔に書いた純文学が、今ではライト文芸というカテゴリーに分類されるんですね、とても嬉しいです
少しでも人と人の繋がりや暖かい思い出などを感じていただければと思います
1.
大学三年の冬休み。
教授が死んだ。
尊敬してた人だった。「文芸学科」に所属していた私は、教授に会う為に教授の「近代文学」のゼミを取った様なものだった。
物腰が柔らかく、白髪で、丸眼鏡越しに、やんわりと微笑む人だった。
ゼミのみんなと教授の部屋の片付けをしに行った時、私は悲しみのあまり、泣き崩れたのを今でも覚えている。
六十を越えても尚、未だ独身だった教授に、私は恋をしていたのだ。
一生で、一番の、最高の、片想いだった。
教授はもういない。
もういなくなって、二週間、経つ──
それを忘れた訳では決してないのだけれど……気が付けば、教授の部屋の前に立っている自分がいた。
今朝だって、いつもの様に……水筒に容れたあったかい緑茶をゼミ前に持参して、教授の部屋の前に立っていた。
そんな自分に我に返り、呆然とする。
──いないのに。
分かってるのに。まだ頭が混乱してるんだろうか?
空っぽの部屋には、もう誰も──
「おや?」
誰、も……?
「やあ、ここに越してから初めての客人だ」
ビックリした。
目の前には……四十前後ぐらいの、ひょろっとした男性がひょっこりドアから現れていた。
「え? え? あの……っ──」
「週末にね、越してきたんだ。死んで間もない人間の部屋だからやめとけって言われたんだけどさ」
──僕は鳥羽春樹。宜しく。
差し出された手を、私は思いっきり良く叩いていた。
「なんなんですか、アナタ!!!」
「菊池、春樹さんだよね? 名前が一緒だったからすぐに覚えた。足げく堂本教授の部屋に通ってた事も、聞いてる」
「な、んで……そんなに、私の、事……」
「今日から僕が、君たちのゼミを担当する事になったからね」
頭の中が真っ白になった。
「は? え?」
「いや、ほら、……まだ君たちのゼミが終わった訳ではないだろう? 進級論文提出も残ってる事だし。僕はその為に来たんだ」
理屈では分かる。
堂本教授が亡くなられたから、代役を立てなければいけないのも分かる。
でも、だからと言って……こんなへらへらした男が、教授の、代役?!
──嘘でしょー!!! と、叫びたい気持ちに駆られた。
2.
「私は断然ありだわ!!!」
ゼミが終わってから、テラスでの清美のテンションは半端なかった。
かくいう私は……とにかくぐったりだ。
名前を覚えているという理由だけで、とにかくゼミ中に呼ばれる、呼ばれる。
事ある毎に、「じゃあ菊池さん」で、ある。
あの薄っぺらい笑顔をなんとか剥ぎ取ってやりたい。
「春樹はいいなぁ。鳥羽教授と同じ名前だからって覚えてもらえててさぁ」
ちっともよかない。それに……──
「鳥羽、『助教授』だから! まだ教授じゃないし!」
「何ムキになってんのよ……。そりゃぁ、あんたがあのおじいちゃん先生に夢中だったのは、よぉく分かってた事だけどさ……」
紙パックのジュースをペコッとへこますと、清美はゴミ箱へとほん投げた。
ストライク。
「もうヤダよ。何あの人……。へらへらへらへら笑っててさ……」
「何言ってんのよ! あの笑顔がいいんじゃない! スラッとした容姿に、どこか漂う男のフェロモン……。たまんないじゃない……!」
どこが?
堂本教授のが断然良かったよ。丸眼鏡から覗く瞳はいっつも優しくて、柔らかくて、とても穏やかに私の名前を呼んでくれていたんだ。
──菊池さん、では、貴方の意見を聞かせて下さい。
今でも覚えてる。思い出せる。
あの声。姿。思い出せる。
胸にじんわりと堂本教授の存在が広がっていく。
「ちょっ! 春樹っ……、泣いて、る?」
「……泣いてないよ」
「はる、き?」
「ほらっ、泣いてないっ!」
私は無理矢理に笑顔を作ると、席を立った。
「泣いてなんかいられないもんっ! あんの助教授負かす為に、あっ! と言わす様な論文書いてやるんだから!!」
「あー……やだ。そうか……もうそういう時期か──」
「進級の論文、めちゃくちゃスゴイの書いてやるっ!」
ガッツポーズを作った私とは反対に、清美は呑気にあくびをしている。
「こらっ!」
「いや、さあ……だって、言うなれば論文評価の為に来た様なもんじゃない? 鳥羽教授って。おじいちゃん先生、急に死んじゃったからさぁ──だから、ちょっとは大目に見てくんないかなぁ……とか──」
──急に死んじゃった。
「あ……うん……」
急に、死んじゃった。
「春樹?」
「……と、いう訳で! 私これから図書館行ってくる! 小川未明の作品集や文献揃ってるのうちの図書館だけだしっ」
「図書館かぁ……。私は今日は家でのんびりするわ。論文のテーマもゆっくり考える」
「早くしないと、すぐ提出期限の二月になるんだからねっ」
へいへい、と返事する清美に言い聞かせながら、私はトートバックを持った。
「清美もしっかり論文書くんだよ?!」
本当は、私だって図書館なんかに行く気なんて起きなくて……。
いつの間にか、銀杏並木に向かって歩き出していた。
堂本教授の部屋から、よく見える……銀杏並木に──
──銀杏はキレイですね。夏には緑で涼やかに、秋には実をつけて黄金に染まる。
あったかい緑茶を飲みながら、冬休み前に……堂本教授がぽつりと言っていた事を思い出す。
あまりに詩的な表現に、私はうっとりとしていた。
銀杏の実は手がかぶれたり、ニオイがきつかったりするけど……茶わん蒸しに入ってたらすごく美味しい。
とか、
私はそんな情緒ない返事をした様に思う。
でも……教授はそんな私の方を振り返って──「あぁ、茶わん蒸しはいいですね。あれは美味い」と微笑んだのだ。
だから……私は冬休み中に、頑張って茶わん蒸し作りを練習していた。教授に食べてもらいたかった。
堂本教授は、突然亡くなった。
脳梗塞だった。
倒れた場所が、あの部屋──堂本教授の研究室だったそうだ。
だから、それを知ってか知らずか、突然ずかずかと越して来たあの男が許せなかったのだ。
悲しみと怒りが混濁する。
もう今は、自分がどんな表情をしているのかすら分からない。
たどり着いた銀杏並木。
教授の部屋の前で、すとんと腰を下ろす。
見渡す冬の銀杏の木は、心もとなく……ただひょろりと立っているだけだ。
緑の葉も、黄金の葉も、ない。
まるで、教授を失った私みたい……。
急に、悲しみが怒りを凌駕した。
「寒くないのかい?」
前言撤回。
振り返ると、鳥羽助教授……いや、今はそんな称号ですら呼びたくない──! 鳥羽が、窓からこちらを覗いていた。
「寒くないです。何か?」
私は無意識に水筒を取り出すと、湯気が立ち上る緑茶をカップに注いでいた。
「美味しそうだね」
「あげません」
「部屋においで。あったかいよ」
「セクハラで訴えますよ?」
「でも、この部屋は……僕より君の方が馴染みあるだろう?」
グサリ、と……何かが胸に刺さった気持ちになった。
堂本教授の部屋であったそこは……もう、主人を変えてしまった。
前の主人の最後を、見取って──
「アナタが……」
やっぱり私は……──
「アナタがそこにいても、部屋だって嬉しくないに決まってる」
やっぱり私は、泣きたかったらしい。
ぽたぽたと、涙が頬を伝う。
「おいで。そんな所にいると風邪を引くよ」
鳥羽の優しい声音が、一瞬だけ……堂本教授の声と被った。
あぁ……私は憔悴している。
とても、弱って、弱って──いる……。
「堂本教授を好きになったきっかけは?」
鳥羽の不意打ちの質問に、私は戸惑った。
鳥羽の持つコーヒーの匂いがきつくて、すっごい嫌だったけど……年明けの銀杏並木はやっぱり寒かったので……結局「元」堂本教授の部屋にやって来てしまっていた。
鳥羽は特に何も手をつけようとしておらず、部屋の中は堂本教授の頃と差ほど変わりはなかった──テーブルも、ソファも、デスクや本棚の位置すら変わっていない。
変わったと言えば、本棚の内容が少し変わったぐらいだろうか。
私はなんだか変な気分になった。
「なんで、好きになったの?」
再び同じ事を聞かれてムカっときたけれど……なんとなく口は開いていた。
「一目惚れです」
「へぇ~」
鳥羽は目を伏せながらも、興味深気に頷いている。
「一回生の秋に初めて教授を見て……銀杏の葉を拾い上げて、優しく笑ったんです。もう、それだけで……」
それだけで、世界が輝いて見えた。
「中々に詩人だね」
「教授の影響です」
「あぁ、あの人は本当に詩人だった」
鳥羽はなんでもない風に云ったけれど、私にとっては驚く程重大な事で──
「教授の事知ってるんですかっ?!」
思わず大声で叫んでいた。
「知ってるよ? 僕も彼の元から卒業した身なんでね」
例えば鳥羽が今四十歳だったとして……堂本教授はもう六十五歳ぐらいだったから──あり得ない話じゃない。
話じゃないけど、納得できない。
あの繊細で物腰し柔らかい堂本教授の元で教わっていながら、何故こんな無神経な男が出来上がるのだろう。
「嘘っ」
「嘘なんかつかないよ。……あぁ、涙はもう止まったな」
鳥羽は差し出そうとしたハンカチをポケットに仕舞った。
「……それ」
「ん? 卒業祝いに教授に貰った」
チェックのハンカチ。
堂本教授も持っていた。持っていたし……そのブランドが好きだった。
え? ていうか──
「卒業祝いに貰ったの?!」
「うん」
ケロッと答える鳥羽が憎い。
銀杏並木に立った時は悲しみが怒りを凌駕していたのに……今は、完全に怒りが悲しみを凌駕していた。
「ずるい!!!」
自分でも間抜けな一言だとは思ったけれど……。
「ずるい?」
笑われると更に悔しくなってくる。
「ホントに、恋してたんだね、教授に」
「そんなにおかしい?! そんなに年の離れた人に恋心抱くのっておかしい?! 笑わないでよ!」
「ごめんごめん。違うよ。恋愛に年の差がないのは分かってる。ただ……なんというか──君の発想が、あまりにもその……中学生みたいで。ほら、第二ボタン、みたいな感覚?」
つまり、私を子供だと言いたいんだ、この人。
思わず手が出そうになったのを止められる。
さっきまでへらへら笑っていた鳥羽の表情は、いつのまにか真顔へと変わっていた。
「君は……本当に、真面目にゼミに参加していたかい? 教授に会いたいだけだったんじゃないか? 進級論文のテーマはもう決まってる? 好きだった人が死んで悲しみのあまり書けませんでした──とか、言わないよね?」
急に矢継ぎ早に言われて、急に現実を突き付けられて……私は、固まってしまった。
「僕は甘い採点はしない。君の心がどんなに荒れていようと、そこまで考慮した採点はしないつもりでいる」
急に、自分が惨めに思えてきた。
堂本教授に固執するあまり……何も見えていなかった。
この人は……教授の、「できなかった事」を、やりにきたのだ。
私たちを、見届ける為に来たのだ。
教授の代わりに──
「認めない! 絶対認めない!」
認めなきゃいけない。これが現実だ。
分かってる。分かってる……。
「僕を唸らす様な論文を書いてきてくれよ」
私は鳥羽の手を振払うと、部屋を真っすぐ後にした。
──運命を決めるのは盲目の星。
とは、かの小川未明氏が書いた、ある童話の中の話だ。
沢山の星たちが下界を見守り、その事について囁き合ってる中──運命を決める星だけは、その下界の様子が全く分からない。
それは、彼が盲目故。
運命を決める星が盲目でなければ、下界は彼の想う様な世界になっていただろう。
この話に感銘し、私は進級論文の研究テーマを小川未明に決めた。
でも……教授が死んでしまった事も、私のこのやりきれない思いも……例えば、盲目の星が「運命」として決めているのだとしたら──なんだか、少し腹が立つのは矛盾だろうか?
とりあえず言える事は、鳥羽にこんな話をしたら笑われるという事。
「絶対見返してやる!」
涙はすっかりどこかに行ってしまっていた。
図書館にひとしきりこもり、閉館時間には、窓から雪がちらつくのが見えた。
皮肉な事に、鳥羽を見返してやりたい気持ちで、論文がはかどってしょうがない。
「……喜んでいいのやら」
呟くと、「蛍の光」が流れ出す館内。仕方なく立ち上がり、ようやく玄関へと向かう。
雪は雨ほどは困らないにしても……しょせん溶ければ水。
──どうやって帰ろう。
生憎、今日は傘を持って来ていない。
「雪、止むかなぁ……」
大体こんな日は、教授の研究室でやり過ごしていたのだけれど……今は鳥羽という、ものスゴく無神経な人間がいるので行きたくない。
「蛍の光」は私を追い立てる。
仕方なく、玄関を出た。
鳥羽が、立っていた。
「雪、降ってきたから」
「ちょっ!!! なんでいるんですか?! ストーカーですか?!」
「酷い言い様だな。せっかく傘持ってきたのに……」
いかにも購買部で買った様なビニール傘。
「いりません!」
「まあまあそう言わず……。せっかく論文にやる気を出した生徒に風邪引かれたんでは困るからね」
鳥羽は無理矢理に私に傘を渡した。
「返すのはいつでもいいよ。いつでも研究室にいるから」
つまり、再び会いに行かなければいけないと言う事ですか……。
「いりませんっ!!!」
叫んでいたら、鳥羽の姿は既に遠ざかっていた。
鳥羽に借りを作った事が悔しい上に、再び傘を返しに個人的に会わなければいけないと思うと気が滅入る。
「明日……ゼミ終わったら返そう」
とにかく今は、二人きりで会いたくなかった。
鳥羽といると、自分が子供だと思い知らされる気持ちになる。
堂本教授に恋してた自分を、バカにされている様な気持ちになる。
けれど……悔しいかな、憎らしい気持ちさえあれど、彼の事を心底嫌いになれない自分にも気付いてはいた。
彼は彼なりに……もしかしたら、私の事を心配しているのかもしれない。論文の事だって、鳥羽がたきつけてくれないと、私はやる気が出ないままだっただろう。
──ま、実の所バカにしたいだけかもしれないけど。
「……悔しい」
呟いて、ビニール傘を開いた。
透明なビニール傘越しに見える雪。
──菊池さん、今日は冷えると思ったら、雪が降ってきましたよ……。
優しい堂本教授の声が、耳の奥で、響いた気がした。
3.
清美が、突然鳥羽の歓迎会を開くと言い出したので……私はものスゴく残念な気持ちになった。
そこまで心酔していたとは……知らなかった。
「あ。じゃ、私抜きで」
「なんだ、菊池さん来ないの?」
ゼミ終わりにニヤニヤしながらやって来た鳥羽が小憎らしい。
とりあえず、昨日の傘を突っ返す。
「昨日はどうも」
「あぁ、別に研究室に渡しに来てくれたら良かったのに」
誰が行くかっ。
「いいなぁ。春樹、相当鳥羽教授に気に入られてるじゃん」
全然嬉しくない。
「菊池さんはあの研究室の住人みたいなものだったからね。僕も堂本教授みたいに仲良くなりたいんだよ」
「えーっ! それって『恋』って事ですかぁ?!」
わざとらしい清美の声にげんなりする。
「あ……。いや、そういう意味じゃ、ないんだけどさ」
私は、初めて鳥羽が困惑して、苦笑いする姿を見た。
ちょっと、ビックリした。
そんな話を私たちがしている間にも、呑むのが好きな男子どもは既に居酒屋の予約の話をしている。
みんな、進級論文の事は覚えているのだろうか? と思う。
「とにかく、歓迎会には行きません。進級論文書いて唸らしてやるんで」
「でも一日ぐらい、いいじゃないか」
なんで誘われているのかが分からない。
なのに、
「いいなー、春樹! 鳥羽教授直々に誘ってもらえて!」
唯一の友はこれときたもんだ。できる事なら立場を変わって欲しい……。
「あのね、『鳥羽助教授様』! 自分を唸らすぐらいの論文を書いて来いって言ったのはアナタです!」
「あ。僕、教授だった」
開いた口が塞がらなくなった。
「はい?」
「いや、こちらに派遣された時点で教授になっていた事すっかり忘れてて……紹介の時、思わず『助教授』って言ってしまったんだよね」
「ほら、おじいちゃん先生が突然亡くなられてから、急きょ寄附講座から派遣されたから──」
「あ。あぁ……」
「だから昇級祝いも兼ねてる訳よ!」
あまりに間抜けな昇級祝いである。尚更行きたくない。
「行こうよ、菊池さん」
「行こうよ、春樹!」
二人に迫られても、私の決意は揺るがない──というか、なんでわざわざ憎たらしく思っている奴を祝ってやらなきゃいけないのだろう。
「おいでよ。堂本教授の話、君とゆっくりしたいんだ。渡したいものもあるし」
渡したい、もの?
私が不審がってる間にも、清美は、これぞ渡りに船! と言わんばかりに私に「行こう行こう!」と連呼してきた。
仕方なく、私は渋々承諾する事になってしまった。
飲み会は明後日らしい。なんと気の早い事で……。
4.
飲み会当日──わざと遅刻して行ってやったら、ほとんどのゼミメンバーができあがっていた。
帰ろうと思った。
「待って待って、菊池さん」
呼び止められたら、顔を真っ赤にした鳥羽が目の前に立っていた。
これから酔っ払いに絡まれるのかと思うと、帰りたい気持ちもより一層強くなる。
「外行こう、外。店の中うるさいし」
「私、帰ります。飲み代は渡しといて下さい」
財布を取り出そうとした私を、鳥羽は制した。
「そんなの僕が払っておくから。ほら、ちょっと涼もう」
涼むには……真冬の夜は寒すぎるんですけど──
それから……、あれよあれよと、いつのまにやら鳥羽にラーメン屋に連行されていた。
「いや、寒いね、外」
「当たり前じゃないですかっ! 今一月ですよ?!」
「いや~、飲み屋の暖房があまりにも効き過ぎててさぁ……」
赤みを帯びた頬で、メニューも見ずに、鳥羽の横顔はへらへらと笑っている。
「ゼミのメンバー、なかなかに面白い面子だね。これはさぞ教授も楽しかっただろうに」
「ちょいちょいサボる人もいますけどね」
「君は当然ながら……皆勤賞だったんだろうな」
「まあ……」
「進級論文のテーマ、小川未明だって?」
「はぁ……」
「ここからじゃ星は見えないね。彼らは今、一体どんな話をしているのだろう?」
それは、盲目の星が出てくるあの童話の事だ──と、理解するのに少々時間を要した。
「僕も彼をテーマに論文を書いたよ」
「え?」
「卒論だったけどね」
出されたおしぼりをいじりながら、鳥羽は窓の外の夜空ばかりを見上げている。
「日本のアンデルセンと呼ばれていた……って堂本教授から聞いてさ、すっごい気になったの──今でも覚えてるよ」
「教授の影響ですか……」
「おそらく君と一緒だよ」
鳥羽はやっとメニューを手に取った。店主がこちらをジロジロ見ていたからだ。
適当に店オススメのラーメンを二つ注文すると、鳥羽はぐるりと私の方を向いた。
「菊池さんも教授の影響とは思うけど……改めて、どうして小川未明なの?」
「え……えっと、なんか、お話全部が凛としているというか……、ほとんど短編だからすごい読みやすいし。盲目の星が運命決めてる、とか、発想すごいし」
「そうなんだよ! すごいよね!!! 昔の人の発想はすごいよ! 今やっと蟹工船とか見直されてきてるけどさ、やっぱり近代文学って深いと僕は思う!」
突然の大声。
やっぱり酔ってる……。
私はため息をつきながら、鳥羽の、空になったコップに水をついでやった。
「僕はね、幸せだったんだ」
コップを握りしめながら……鳥羽は視線を落とした。
「あの人の元で学べた事、誇りに思ってる」
酔っ払いは、やけに饒舌だ。
「だからさ、あの研究室に入った途端、実は号泣したんだ。何もかも変わってなかったから……」
泣いた?
「泣いたんですか?!」
「うん。泣いた。そしたらさ、同じ様にあの部屋で号泣した生徒がいたって聞いて……。だから──君に会ってみたかったんだ。堂本教授に恋した女の子は、一体どんな子だったんだろうって。……ごめんね。うっとおしく絡んだりして。僕は……もしかしたら、この喪失感を君と共有したかったのかもしれない」
申し訳なさそうな顔で、鳥羽はおもむろに、胸ポケットから何かを取り出した。
「……眼鏡ケース?」
「教授のデスクの引き出しの奥の奥に入ってた」
「やだっ。ちゃんと整理したつもりだったのに……」
「実は……こっそり貰ってしまおうかと思ってたんだけどね、君にあげるよ」
「え?!」
「僕には『卒業祝い』があるからね」
いたずらっぽく笑った鳥羽を見て、「ずるい!」と叫んだ自分を思い出した。急に、恥ずかしくなった。
恥ずかしくなったら、ラーメンがいつのまにか目の前に置かれていた。
「さ、食べようか。美味そうだ」
箸を割った鳥羽を横目に、貰った眼鏡ケースを開いた。
そこには、堂本教授がいた……──
正しくは、教授の眼鏡が……入っていた。
あの……丸い、いつもの、老眼鏡。
「ぃやだ……」
いつのまにか……私はぼろぼろと泣いていた。
鳥羽は黙って、ラーメンをもくもくと食べている。
堂本教授はもういない。
私の愛していた人は、もういない。
だけど……心の中には、ずっと……──
「……茶わん蒸し」
「え?」
「茶わん蒸し、今度……持っていきます」
「茶わん蒸し?」
「これのお礼、ですっ」
私は涙を無理矢理袖で拭うと、やっと割り箸を割った。
ラーメンは少し、伸びていた。
ずっとすがっていたかった。
喪失感に浸っていたかった。
だけど……それじゃぁ、前に進めない。
進めませんよね? 堂本教授……──
5.
「わ。ホントに持ってきたんだ」
翌日、私は仏頂面で鳥羽に茶わん蒸しを持って来ていた。
「どうぞ」
「で、なんで茶わん蒸し?」
「堂本教授が『あれは美味い』って言ったからです」
鳥羽はすぐに吹き出した。
「君は本当に、なんでもかんでも教授基準なんだな」
「悪かったですねっ!」
やっぱり鳥羽という男にはイライラさせられるけど……でも、昨日のラーメン屋の一件で、私は少し、彼の見方が変わっていた。
少なくとも、あの時、教授を失った者同士……同じ悲しみを共有したのだから。
「……銀杏しか入ってない」
「堂本教授が銀杏並木好きだったから」
「だからってこんな嫌がらせみたいに入れるこたぁないだろう!」
堂本教授にも、おんなじ様な茶わん蒸しを作ろうとしてた自分が恐ろしい。
まあ、教授なら……絶対文句一つ言わずに食べてくれただろうけど。
「美味しくないですか?」
「銀杏がごろごろしてて、茶わん蒸しの機能を果たしていない」
そうやって文句を言いつつも、鳥羽は全て平らげた様だった。
「二日酔いにはなかなかに厳しいものだったな」
「次、頑張ります」
「次はちゃんとレシピ見て作ってくれ」
コトリ、と、水筒からあったかい緑茶を差し出す。
「え?」
「これの後コーヒー飲んだら、それこそ二日酔いが悪化するかと思って」
鳥羽はにんまりと笑った。
「あんなに僕の事、拒絶してたのに……」
そう言われて、なんだか気まずくなって視線を反らした。
確かに。私は分かりやすい程、鳥羽の事を嫌っていた。
でも……昨日の酔っぱらった鳥羽の本音には、混じり気のない──ただただ純粋な、教授への「想い」があった。
私と同類なんじゃないかと、思った。
「……だって、それは──教授の、眼鏡……くれたから……」
しどろもどろで応えていると、鳥羽は私の目の前で手を伸ばしていた。
「眼鏡」
「はいっ?!」
「昨日渡した眼鏡、持ってる?」
当然の様に言われて……ちょっと悔しかったけれど、私は自分のバックから堂本教授の眼鏡ケースを取り出した。
鳥羽はしばらくそれを眺めていたけれど……おもむろに、ケースを開けて、老眼鏡を取り出した。
そして、こともあろうか──……それを、かけた。
「似合う?」
バッカじゃないの?! と言って奪い返そうとしたけれど……ふ、と堂本教授の残像の様なものが被って、何も、言えなくなってしまった。
「僕も、そろそろ老眼鏡をかける年に近付いてきたなぁ。教授も僕ぐらいの年で、これをかけていたからね」
そう言いながら新聞を読む姿。
あり得ないけど……鳥羽と堂本教授が被る。被ると言うか、教授そのものが、そこにいる様だった。
彼の、教授と過ごして来た日々が、私の眼前に広がった錯覚すら覚えた。
「かっ、返して下さい!!」
私は無理矢理眼鏡をひったくった。
酷く、動揺していた。
だけど、あの部屋には確実に……私の知らない堂本教授がいた。
鳥羽の知っている堂本教授。
私の知っている堂本教授。
まるで何かで時間が繋がった様な、そんな、錯覚。
教授に会いたくなった。
本物の、本当の、私が心から愛していた堂本教授に、会いたかった。
会いたくて、泣きそうだった。
6.
「ダメだ! 決まらん!!」
清美の大きいぼやき声が図書館に響いて、思わず私は眉を潜めた。
さっきまでの動揺をなんとかしたくて、清美を図書館に連れ込んだは良かったけど……どうにも彼女は一向にやる気が起きないらしい。
思わずたしなめる。
「でかい声出さないっ」
「だってさー、近代文学選んだのはいいけど……こう、進級論文とかってなると、何に絞っていいか分からんよー」
「無難に夏目漱石とかにしたら?」
はい、と「我輩は猫である」を渡してやる。
「いやいや。無難過ぎて突き詰め様がない」
「もーっ、結局やる気ないだけじゃない」
小川未明の参考文献をいくつか手に取っていた私は、ひとまずそれを借りようと受付けの所まで行こうとした──が、引っ張って引き止められる。
「ところで春樹ちゃん」
「は? 何?!」
「昨日の夜、鳥羽教授とばっくれたよね?」
「へ? あ、あぁ、うん……」
「まさかとは思うけど──」
まさかとは……あの、「まさか」?
「そんな訳ないじゃない!!」
今度は私が大声を上げていた。
「あーやーしーいーっ!!!」
清美が掴み掛かってきたので、思わず身構えると、本がどさどさと足下に落ちた。痛い。
でも、清美はそっと、私を抱きしめていた。
「……あー、それでも良かったよ」
「え? 何が?」
「私も鳥羽教授はいいなぁ、って思ってたけどさ……それより、春樹が新しい恋して元気になってくれる方が、ずっといいもん」
「清美……」
清美の言葉は嬉しかったけれど、大きな誤解をされている。
「いや、昨日はラーメン屋に行っただけだし、それに……私、鳥羽教授の事は別に……」
そう……私はまだ、堂本教授が好きだ。それに変わりはない。
さっきの研究室の出来事で、それは確信になった。
私はまだまだ、堂本教授の残像を、どこかで必死に探している。
だから──
「うんうん。大丈夫、大丈夫。私、応援するからさ!」
清美がわざと涙を拭う仕草をして、私の肩をぽん、と叩いた。
「あーと……だからね、清美──」
「今度はちゃんと告白するんだぞっ。おじいちゃん先生の時だって、結局影できゃあきゃあ騒いでただけじゃん? 人生いつ何が起こるか分からないんだからっ! ねっ、春樹っ!」
何が起こるか分からない。確かにそうだ。
私は……恋に恋していると勘違いしたまま、大切な人を失ってしまったのだ。
「……ありがと、清美。だけどね、私……やっぱりまだ堂本教授の事が好きなの……。忘れられないの」
「春樹……」
「でも、だからと言って、もう……泣かないから」
教授の姿も、声も、優しい瞳も……今は全て、私の心の中で、息づいている。
恋とは、時に自分自身すら追い込んでしまうものだけど。
それも、例えば盲目の星の運命の元……宿められている事だとしたら──
受け入れるしか、ないのかもしれない。
愛していた人の「死」、すらも。
7.
図書館が閉館になり、私の足は、いつの間にか研究室へと向かっていた。
ドアをそっと開けると、鳥羽は椅子の上でうとうとしていた。
そういえば……堂本教授もこんな風に、読みかけの本を片手にうとうとしていたっけな、と思い出す。
あの頃は、そんな姿すら愛しくてたまらないものだった。
本当に幸せだったし、最高の恋だったと今なら胸を張って言える。
堂本教授の面影が、またこの部屋に現れても、もう、戸惑わない。
私は鳥羽の元にそ、と近寄って……眼鏡ケースから老眼鏡を取り出すと、それを彼にかけてみた。
やっぱり、なかなかに似合っている。堂本教授にも似ているかもしれない。
思わずくすくす笑っていると、鳥羽が目を覚ました。
少し、寝ぼけている。
「……あ? あぁ、君か──って、うん?」
「その眼鏡、やっぱりアナタが持っていた方がいいと思います」
鳥羽は一瞬、キョトンとした顔になったけど……ゆっくりと、微笑んだ。
「参ったな」
そんな年に近付いてきてるんだな、やっぱり──なんて呟くと、眼鏡を外し、じっくりとそれを見つめる。
「これだよ。……うん、これだった。この老眼鏡が、あの人の象徴みたいなものだった」
「よく、似合ってましたよね」
静かな時間が、部屋に満ちる。
二人、穏やかに、微笑む。
「僕は、穴を埋めたかったんだ、君で」
「はい」
「君とやり合う事で、教授の消えた……この空っぽの部屋を、埋めたかったんだよ」
──お互いの持つ、思い出と、教授への想いで……。
私は、ゆっくりと、頷いた。
「これから、またどんどん埋めていけばいいじゃないですか」
また、鳥羽はキョトンとした顔で私を見つめた。
「この部屋は、沢山の、キラキラとした思い出で埋まってます」
だから、私たちから、教授の存在は消えたりなんかしない。絶対に。
「私たちは、教授の事が大好きだった。そんな二人が巡り会えただけで、慰めになるとは思うんです」
「急にどうしたんだ? あんなに僕の事嫌っていただろう?」
鳥羽は苦笑いを浮かべて、こちらを見つめる。
困った様な、嬉しい様な、そんな、笑みで。
「私、また毎日この研究室に通います」
「それで?」
「アナタと、もっと堂本教授との思い出を、埋め尽くしたいんです」
鳥羽は小さく、クスリと笑った。
「これから、もっと……ね」
「きっとこの部屋に溢れ返りますよ。二人分の、思い出は」
「ははっ。そうだな。……うん、そうだ」
私は一歩、歩み寄る。
「これから、よろしくお願いします」
手を、差し伸ばす。
「……あぁ、よろしく」
私たちはやっと、手を繋いだ。
その繋いだ手の温もりを、私は一生忘れない。
全てが盲目の星が仕組んだ事だとしたら、なんとなく皮肉に感じてしまうけれど……。
でも、今ならそれもありなんじゃないかと思う。
別れがあり、出会いがある。
それが人生だ。
そして……私たちは、前に進まなきゃ、いけない。
失った人の面影を時に、振り返りながら。
今度は二人、手を、繋いで……──
終
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