【終末ワイン】 プロローグ (19,000字)
寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事が分かっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。
10月31日 厚生労働省終末管理局
月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』を作成するプログラムが起動する。今月は、1万2401通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。
◇
早朝、とあるアパートの郵便ポストに赤い文字で『終末通知』と記された葉書が投函された。それから数時間後の午前8時、そのアパートの1室の玄関扉が開くと濃紺のスーツを着た男性が部屋を後に、外階段を2階から1階へと足早に降りていった。
階段を降り切った男性はふと階段入口付近の壁際に設置してある郵便ポストに目を留めた。朝の忙しい時間の中で確認する必要も無いなとは思ったが、一度気になってしまえは開けずにはいられず、ポストの前に立ち止まりダイヤル錠を回した。
ポストの中には2通の葉書が入っていた。何だこれだけかと、葉書の内容は見ていないにも関わらずに落胆し右手で2枚のそれを鷲掴みに一瞥した。とりあえず宛先には『木早修様』と男性の宛名が記載されていた事だけを確認すると、左手に持っていたA4サイズが優に入る黒いリュックの中へと無造作に放り込み、直ぐさまアパートを後にした。
足早に歩き続ける事約10分で駅へと到着し、電子マネー機能付きの携帯電話を以って改札口を通り抜け、プラットホームへと続く階段を足早に上って行くと人だかりが見えた。その人だかりは一見雑然とみえながらも整然と電車を待ち、木早もその列の最後尾へと並び、定刻通りにプラットホームへと滑り込んで来た満員電車に押し込み押し込まれながら乗り込んだ。
木早にとっていつもと変わらぬ日常の中、満員電車の中で左手にリュックを持ち、右手で吊皮を掴みながら何を考えるでもなくただただ車窓に目を向けていた。
ふとリュックに放り込んだ葉書の事を思いだした。1通は車のセールスの葉書だった気がするがもう1通のあれは何の葉書だっただろうかと。赤い文字で何か書いてあった気がしたがあれは何だっただろうかと。過去に水道料金等の公共料金不払いで以って『督促』と記載された葉書を受け取った事があるがそれと同等の何かだろうかと。高くも無い月給で働きながらの一人暮らしという生活の中、それなりの金額の支払いを迫られる事を想像すると、木早は満員電車の中で俯き目を瞑り、周囲に気付かれない程度に嘆息した。
電車に揺られる事約30分。満員電車のドアが開くと堰を切ったように沢山の人が同時に降りると、木早もその波に押されるようして電車を降りていった。プラットホーム上には上流から下流へと勢いよく流れるかのようして人の流れが出来、木早もその流れに乗って改札口へと向って歩いて行った。
改札口を出ると激流から緩流とも言えるまばらな人の波に乗って歩き始めた。いつもの日常、見慣れた光景。刺激を求めている訳でもなく常に新しい事を望んでいた訳ではない。木早にとって今の平凡と思える日常が当たり前であると、これがずっと続いて行くのだと漫然と思いこんでいた。
10分程歩き続けて15階建てのビルへと到着し、玄関口の自動ドアをくぐると今度はエレベータを目指して歩いて行く。目指すエレベータの前には20人位が雑然と並んでいるのが見て取れ、木早もその集団に加わった。
2本のエレベータを見送りようやく乗れるも、各階でいちいち止まるエレベータに多少のストレスを感じながらも、ようやく目的の9階フロアへと到着した。
エレベータを降りると直ぐ目の前には曇りガラスの大きい扉があった。そのすぐ横の壁に埋め込まれたカードリーダーに社員証をかざすとガチャリと重めの音がした。少し重めのドアを開けてフロアの中へと入り、そこから直ぐ近くの自席へと向かった。
木早の席は横長のフロアを縦にずらりと並べた机の端にあり、フロア入口から最も近い位置にあった。机の上にリュックを無造作に置き、その机の上に鎮座するパソコンの電源を入れた。そして立ったままリュックを開くと、今朝放り込んだ2通の葉書を手に取った。
1通は車のセールスに関する葉書だった。木早には車を買える金銭的余裕などは一切無く「こんな葉書は必要ない」と、半ば諦め顔でそのまま机の横に置いてあるゴミ箱へと放り込んだ。そしてもう一通の葉書は宛先に『木早修様』と記載され、その左横には赤い文字で『終末通知』と記載されていた。木早はそれが何の葉書が良く分からないなと眉をひそめながらに葉書を裏返した。
差出人らしき箇所には『厚生労働省終末管理局』と記載されていた。これは医療保険か何かの不払いといった事だろうかと一瞬頭を過ったが、木早には近年医者に通った記憶は無く更に眉をひそめた。その葉書は圧着タイプの葉書で中は糊づけされて見えなかった。
『あなたの終末は 20XX年12月12日 です』
葉書を開いて目に飛び込んで来たのは大きな文字で記載されたそんな文言。今日が11月5日だからと直ぐに頭の中で日付を計算すると、自分の命は1か月と数日であると記載されていた。
「はあ終末? 世界の終りか? 後1ヶ月で死にますって何だよこれ。くだらね」
随分と凝った悪戯だなと決めつけたら少し笑ってしまった。そんな1人で笑った姿をフロアにいる他の社員に見られたかなと、急に恥ずかしさを覚えると共に俯き、すぐに椅子を引いて腰掛けた。
それから数分後、「おはようっす!」と、左隣に席を置く同期入社の同僚が出勤してきた。
「おお、おはよう。つうかほら、これ見ろよ。終末通知だってよ。こんな悪戯流行ってんのかね? お前来た事ある?」
木早が『終末通知』を見せつつ笑いながら言った瞬間、近くにいた他の同僚を含め、その場の空気が変わったのを感じた。そして横にいる同僚が目を見開いて呆然としているのが見て取れた。木早は「何かまずい事を言ったのだろうか?」と瞬間的に気まずさを感じた。
すると同僚が「ちょっとあっちいい?」と、フロアの端にある自販機の区画を指さし言った。
「ん? ああ、別にいいけど……」
木早はそう言いながら椅子からおもむろに立ち上がり、木早を待たずにスタスタと自販機の方へと向かって歩きだしている同僚の後を追った。
先に着いた同僚は自販機を前にしていたが飲み物を買うそぶりを一切見せず、ただただ自販機を見つめていた。
「……何だよ、飲まないのかよ」
「お前さ、終末通知って知らねぇの?」
同僚は振り向きざまに言った。その顔は木早が今迄に見た事の無い真剣な顔だった。
「……いや、知らねーけど、新しい悪戯とかじゃねぇの?」
真顔で質問してくる同僚に向かって半笑いでそう答えると、同僚は「知らないのかよ……」と俯き嘆息した。
「終末通知ってのはさ、自分が死ぬ日を告知する葉書で昨年から始まった制度なんだけどお前聞いた事ねぇの? 昨年、結構ワイドショーとかでもさんざん話題になっただろう? 健康診断とかで色々得た情報を使ってその人の寿命が分かるようになったって。それを最短1か月になったら葉書で通知するようにしたって。日本人は長い時間働く人が多いから直ぐに会社を辞めて残り時間をゆっくり過ごせるようになるみたいな一種の福祉制度って話なんだけど」
言われてみればと、以前にそんな話をネットニュースで見たような気がするとなと木早は思った。だが木早は未だ29歳であり、寿命と言う言葉を真面目に言われても笑い話にしか聞こえなかった。
「嘘か本当かは分からないけどその記載された日付は大病とか事件や事故自殺等を除けばほぼ100%の確立で当たるとからしいぜ? お前もやりたい事があるなら今直ぐに家に帰れよ。そんで残りの時間を有意義に過ごした方が良いと思うぜ?」
そう言って同僚はその場から逃げるかの様にして席へと戻って行った。
木早は自販機を前に呆けていた。同僚からの話に実感が全く湧かなかった。そもそも今さっき聞いたばかりで全てを正しく理解出来ていなかった。ただただ漠然と「自分は1か月後に死んでしまうのか」と他人事のようにしか感じなかった。木早は口を半開きに天井を仰ぎ見ると短く嘆息し、席へと戻って行った。
「お前何してんだよ。帰らねぇかよ?」
何も無かったかのようにして仕事を始めた木早に対し、隣に座る先の同僚が囁くようにして聞いてきた。
「ん? とりあえず仕事するよ」
木早が笑顔でそう答えると、同僚は何も言わずに自分の机へと向き直り短く嘆息した。
時刻は午後0時となり、チャイムが鳴る訳ではないがフロアにいる各々が昼食へと出かけていった。といってもフロアの半分位は持参した弁当箱を机の上に広げると直ぐに食べ始めていた。今までの木早は昼休みといえば隣や近くに座る同僚達と毎日のように外に出ては昼食を食べに行っていた。
しかしこの日は同僚の誰もが木早に昼食に行こうと声も掛けず、少し早めの時間に昼食へと出てしまっていた。終末通知の事をよく知らなかったとはいえ、それを安易に口にした事で気まずい雰囲気になってしまったのかもなと、木早は自分の軽率さに軽く後悔した。とはいえ朝食を食べる習慣も無いので昼食を抜くと午後が持たないなと、とりあえず1人で昼食に出かけるかと席を立った。
エレベータ前には人だかりが出来ていた。昼食時間は皆が一斉に外へと出ようとするのでエレベータが到着しても既に満員状態に近く、数本のエレベータを見送るという状態が続いた。それを経た上でようやくビルの外まで来たものの、さほど食欲が無い事に気がついた。とはいえわざわざエレベータで降りてまで会社の外に来たという事もあり、昼食の代わりに自販機で缶コーヒーを買い、近くの公園で昼食時間を過ごす事にした。
会社から歩いて5分程。公園まで歩いてやって来た木早は空いているベンチへと腰掛けた。いくつかあるベンチには話した事は無いが見た事のある顔があり、もくもくと弁当を食べていた。そして木早から約20メートル程離れた場所には、内容までは聞こえないが楽しそうに会話しながら散歩しているお年寄りと小さい子供の姿があった。その姿を目に留めると「微笑ましい」という言葉が頭をよぎった。昨日までであればそんな光景を目にしても何も思わなかったのにと、目に映る全てが違って見える気がした。
木早の命は残り1か月。その間にやりたい事とは何だろうかと考えるも全く思いつかない。自分は何かしたい事があっただろうかと考えるも全く思いつかない。そもそも何か目的や目標があって生きていただろうかと考えるも、そう言った物が一切ない事に気が付いた。
流されるように学校に行き勉強して卒業した。流されるように会社を探し就職し今に至る。今の仕事も特にやりたかったという訳ではないが気に入らない訳でもない。ただただ漠然と漫然と生きてきた。それが木早にとっての当り前の日常だった。そして突然「もうすぐ終わりだよ」と宣告された。
午後の就業開始時間にはまだ早かったが、木早は早々に会社へと戻ると席に着き、パソコンの電源を落とし、終末通知の葉書をリュックへと入れると誰にも何も言わずに帰路についた。
午後2時過ぎに自宅アパートへと戻ってくると、無断早退とも言える行為に対して会社から連絡でも来てるかなと思い携帯電話を確認するが、何らの連絡も入っていなかった。そして携帯電話を部屋の中央に置かれた小さいガラステーブルの上へと置き、リュックを部屋の端のフローリングの床へと放り投げ、スーツを脱ぎ棄てると下着姿のままにベッドの上へとうつ伏せに寝転び目を閉じた。
木早が目を覚ますと部屋の中が暗かった。直ぐに跳ね起きガラステーブルの上の携帯電話を手に取り時刻を確認すると午後7時を過ぎていた。そのまま誰かから連絡が入っていないかを確認するも誰からの連絡も入ってきてはいなかった。
その日は昼食を取らなかったが今でも空腹感は無かった。とはいえ喉の渇きを覚え、下着姿のままキッチンへと向かい、冷蔵庫の中から缶ビールを1本取り出しその場で一気に飲み干し、空き缶を床に放り投げると再びベッドへ仰向けに寝転び天井に目を向けた。そこでふと終末通知の事を思い出すと再びベッドから起き上がり、部屋の隅に放られていたリュックの中から終末通知を取り出した。そしてそれを手に再びベッドに仰向けに寝転がると、葉書の中開きのページに目をやった。
「は~あ。残り1ヶ月かあ。つうか本当かなあ」
未だに実感が無いままに嘆息しつつそれを見ていると、『終末日』が記載してある右横の『終末ケアセンターの問合せ先』という記載に目が留まった。最初見た時には目が行かなかったが、その下にはQRコードとURLが併記してあった。木早は何の気なしに携帯電話を手に取りQRコードを読み取った。するとすぐにウェブブラウザが開き、とあるホームページが表示された。
『終末の過ごし方』
そんなタイトルのホームページが開かれ、そこには「今まで通りの生活をするか、安楽死を望むか」といった一見過激に思える文言が書かれていた。『安楽死』という言葉はニュースで聞いた事があるという程度の言葉であり、木早はそれがまさか自分に関係する言葉とは夢にも思わず未だに実感が湧かなかった。
そのページの最下部には「安楽死を望むなら自治体の終末ケアセンターに来てください」とも書かれ、その文言のすぐ下には『最寄りの終末ケアセンター』と書かれたボタンがあるだけで、終末日は分かっていてもどのように死ぬかまでは分からず記載されてもいなかった。突然に苦しんで死ぬのか、寝ている間に息を引き取るのか。そう考えると安楽死というのに興味が湧いて来たが、それについてもどのような方法で安楽死をとは記載されてはいなかった。そして空腹時にビールを飲んだせいか、直ぐにうとうとするとそのまま眠ってしまった。
次に木早が目を覚ますと部屋の中には陽射しが入っていた。寝ぼけ眼のままに顔と視線だけを動かしながら携帯電話を探し始めるも、床やテーブルの見える範囲には無かった。どこへ置いただろうかと寝起きの頭で考えると、そういえば昨晩それを見ながら寝てしまったと思い出し、枕元付近を手探りで探すとそれはあった。そしてそれをそのまま手に取り早速時刻を確認すると時刻は午前10時を過ぎていた。
携帯電話は目覚ましが設定されていたが一切気付かなかった。とはいえ目覚ましに起こされたとしても会社に行くつもりがある訳では無い。瞬間空腹感を覚えた。気付けば昨日は昼食も摂らず夕食も摂っておらず、朝食は食べない事からも丸24時間以上食事を取っていなかった。
とりあえず何か食べるかなとベッドから起き上がろうとするも体が起き上がらなかった。眼はハッキリと覚めており体調が悪いという自覚も無いが何故か体が重くて動けないでいた。そこでふと数年前の事が頭を過った。
木早の両親は2人同時の交通事故によって既に他界していた。それは木早が一人暮らしをしながら働き始めた3年後の事だった。両親が亡くなった直後は悲しみと言うのはあまりなかった。悲しいは悲しいが3年も離れていたという事もあり、自分自身でも「こんなものかな」と思う程に気丈であった。
そして荼毘へと付して納骨まで済ませたその翌日の朝、ベッドから起きようとするも起き上がる事が出来なかった。眼はハッキリと覚めていたが体に全く力が入らず動けなかった。動けなかったというのは比喩であり実際には身体は何ともなく、木早は根拠なく「これって精神的ショックってやつなのかな?」と思っていた。そして今、その時と同じ感覚で体が重くて動けないでいた。
頭の中では自分がもうすぐ死ぬという事を理解していたつもりであったが、数年前に両親が亡くなった時のように少し時間が経ってからようやく本当に理解し精神的ショックを受けたという事なのかもしれないなと、木早は体が動かない事を受け入れそのままの姿勢で以って天井を見つめた。
それからしばらくの時間が経った頃、再びベッドから起き上がろうと試みると今度は普通に体を起こす事が出来た。下着姿のままだった為に肌寒さを感じながらも冷蔵庫へと向かった。冷蔵庫の中から水の入った大きいペットボトルを取り出し、キャップを開けるとコップも使わずにそのままゴクゴクと喉を鳴らしながら飲み込んだ。
「うはあ。生き返ったあ~」
とはいえ凡そこの24時間は水分しか口にしていない。水で空腹を満たす事は出来ず、かといって朝食用に何かをわざわざ作るのは面倒だなと、冷蔵庫におつまみ用のソーセージが入っていたのを思い出すとそれで空腹を満たす事とした。
4本で1セットになっているソーセージの袋を取り出し、その袋の封を開けて中からソーセージ1本を取り出す。口で噛み切るようにして手にしたソーセージを覆うビニールをはがして食らいつき、租借しながらベッドに向かうとその上に転がっている携帯電話を手に取った。
誰かから連絡が入っているかどうかを確認するも誰からの連絡も入っていなかった。会社の連中には同僚が話をつけてくれたのだろうと、だから連絡が無いのは理解出来るがそれはそれで何か寂しいなと思うと、小さい溜息をついた。
「こういう時に彼女とかいれば連絡位はしてくれたのかな……」
そのまま携帯電話で以って昨晩見たホームページを開き、『最寄りの終末ケアセンター』と書かれたボタンを押した。すると直ぐに携帯電話の画面上に地図が表示された。携帯電話のGPS情報から自動検索されたであろうその地図は、木早の家から最寄りの終末ケアセンターまでの道を表示し、自宅から約10キロ程の場所、電車で5つ目の駅のから少し歩いた場所にそれはあると表示していた。
木早は食べかけのソーセージを一気に口の中に押し込むと洗面所へと向かった。歯磨きもそこそこに顔を洗い、洗面所を出てジーンズを履き、薄手のシャツを着てジャケットを羽織り、携帯電話と財布をジーンズの後ろポケットへと入れた。そして終末通知をジャケットの内側ポケットへ入れるとアパートを後にした。
最寄りの駅からは会社へ向かうのとは逆方向の電車に乗った。平日とはいえ既に午前11時を過ぎていたという事もあり、駅には人もまばらで車内はガラガラと言える程に空いていたが、木早は席に座らずドア付近に立ち車窓へと目をやった。
電車に揺られる事約20分で終末ケアセンターの最寄駅へと到着し、改札口を通り抜けると携帯電話を取り出し、終末ケアセンターまでの地図を画面に表示した。
20分程歩き続けると、木早の目の前にはもう少し古びていれば史跡とでも言えそうな総石造りと見紛う3階建ての大きい建物が現れた。一見、西洋の神殿を思い起こさせるような石柱が建物の周囲をぐるりと囲み、その頭上を屋根瓦で覆うといった和洋折衷の建物。その建物を目前にして「そういった目的でなければ豪華すぎると批判されそうな感じだなあ」と、木早は1人呟いた。
その建物は歩道に面し、玄関は低めの段差と奥行きの長い5段の階段を上った先にあった。木早が階段を一歩一歩上り全面ガラスの玄関口までやってくると、両引き戸の自動ドアがゆっくりと開き始めた。
音も無くスーッと開かれた自動ドアを通って中へと入ると、そこから10メートルほど離れた正面の上部に「受付」と書かれたブースが目に留まった。横幅約5メートルといった素っ気無いそのブースには、制服と思しき明るいグレーのブラウスに濃いグレーのリボンタイといった装いの2人の女性が座っていた。2人の女性が玄関口の木早に気が付くと座ったままの姿勢で軽く頭を下げた。それを見た木早も釣られて軽く頭を下げると、受付へとまっすぐに向かった。
受付前までやってきた木早に対し2人の女性は「いらっしゃいませ」等と声をかけるでもなく、ほんの少し口角をあげた表情で以って木早を迎えた。
「あの、終末通知の葉書を貰ったんで来てみたんですが」
木早は小声気味にそう言って、ジャケットの内側ポケットから終末通知の葉書を取り出した。
「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」
受付に座る女性はそう言ってどこかへと電話をかけ始めた。木早は終末通知をジャケットの内側ポケットへしまうと、手持無沙汰に建物の中をぼんやりと眺め始めた。受付付近は吹き抜けの空間で一見して広い事が見て取れた。とはいえ何もする事もなく何がある訳でも無いその場所で、ただただその空間を眺める以外になかった。
受付付近で待つ事数分。コツコツと、ゆっくりとした足音が響いてきた。その足音は徐々に近づき1メートル手前まで来て止まると恭しく頭を下げた。
「初めまして。私、井上正継と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
整えられたショートヘアに銀縁眼鏡、濃いグレーのスーツとそれより薄いグレーのネクタイを着用し、スーツの上からでもすっきりとした体躯が見て取れる、木早と同世代かと思しきその男性は、手に持っていた1枚の名刺を両手で以って差し出した。
井上は終末通知の件で来た人を担当する終末ケアセンターの職員である事、職務としてはカウンセラーのような立場であると、木早の顔を見ながら説明した。
簡単な自己紹介を終えた井上は「では、こちらへどうぞ」と、木早を先導するように受付横の廊下を歩き始めた。
そして木早は部屋に入った正面が広大な庭を望む全面透明ガラス、残り3面の入口扉を含む壁全面が曇りガラスという、秘匿性も遮音性も感じない10畳程の広さの中に、銀色に鈍く輝くステンレスで出来た長方形のテーブルと、そのテーブルを挟んで3つづつの計6つのステンレス製の椅子が置いてあるという質素で簡素な打合せルームへと案内された。
部屋に入った直後、木早は正面の大きいガラス越しの庭に目を留めた。ガラス越しの向こう側には綺麗に整備された一面芝生の庭が広がると共に多くのベンチとイスがテーブルとセットで置いてあった。そして庭を囲む様にして3階にも届きそうな高い木が奥も見通せない程に、そこだけを見るとその場所が何処だか分からなくなるほどに沢山植えられていた。
ぼんやりと庭に目を取られていた木早に向かって「そちらにお座りください」と、井上が声を掛けつつ向かいの椅子を手で指し示すと、木早はそれに従い井上の向かいの椅子へと腰掛け、それを見届けた井上も椅子に腰かけた。
「では最初に顔写真付きの身分証明書となる物と、終末通知の葉書をご確認させて頂いて宜しいでしょうか? 万が一にも別人の方と言う事が無いように確認が必須となっておりますので」
井上の言葉に木早は再びジャケットの内側ポケットから終末通知を取り出し、ジーンズの後ろのポケットから財布を取り出しその中から免許証を取り出すと、テーブルの上、井上の方へと向かって差し出した。
差し出された終末通知の葉書と免許証を前に井上が「拝見させて頂きます」と、手に取り目視で確認すると、今度は持参していたタブレット端末のカメラで以って終末通知の見開いたページの中に記載されているバーコードを読み取った。
「確認致しました。有難う御座います。それではこちらの施設他について説明させて頂きます」
井上は笑顔でそう言って終末通知と免許証を返し、タブレット端末を木早に見えるように傾けた。そのタブレットの画面上にはグラフデータが表示されていた。
「この終末通知を受け取った方の中で、実に2割近くが悲観して飛び降り等の自殺をしてしまうようです。1割位の方は自暴自棄になり事件を起こすという事例もあるようです。又1割近くの方はこの葉書が届かないか見ていないかのようです。それ以外の方の多くが、とりあえず終末ケアセンターにお越し頂いて、私達職員とお話させて頂いております。お話をさせて頂いた内訳では40代位までの方で奥様や小さいお子様がいらっしゃる方は終末日近くまでご夫婦で過ごし、直近にこちらの施設にきて安楽死を望まれる方が多いですね。ご高齢のご夫婦の方ですと、ご自宅で最期を迎えたいと仰る方が多いですね。単身者の男性の場合ですと年齢関係無く、早急に安楽死を選択する方が多いですね。女性の場合ですとギリギリまで旅行や食事等を経験した後に安楽死をするという傾向でしょうか。それ以外で言えば、経済的に厳しい方は早めに安楽死なさる傾向にありますかね」
「ふ~ん。死ぬにしても年代によって違うもんすね。それで言うと俺の場合には早急に安楽死するって事か……」
「そうですね。で、終末通知を受領されている段階でクレジットカード等の信用取引は出来なくなっておりますのでご注意ください。今後は現金取引のみとなります。口座引き落としのカードでしたらご利用なれます」
「そうなんすか。カードは使えなくなってるんだ。まあ、理由は何となく分かるからしょうがないか……。それで結局、安楽死ってどんな方法なんすかね? 言葉は知っているけどどんな方法かは全然分からないんですが」
「一言で言ってしまえば、服毒になります」
「毒? 毒すか?」
「毒を服用すると言ってもマンガみたいなドクロマークのついた瓶の毒を飲んで苦しみもがいて亡くなるという事ではありません。苦しんでしまうようでは安楽死とは言えませんからね。では少々お待ち頂けますか?」
井上はそう言って席を立ち、1人部屋を出ていくと建物の奥の方へと去って行った。
数分後、片手でも持てそうな程の大きさの木箱を手に、井上が打合せルームへと戻って来た。井上は木箱をテーブルの上に置きつつ椅子に座ると木早に対して木箱の中が見えるよう傾け「こちらは終末ワインと呼ばれる物です」と言って見せた。
井上が持って来た木箱は高級そうではあるものの使い古された感じの残る長さ30センチ程の蓋の無い木箱。その箱の中には中身が入っていない事が傍目で分かる薄茶色で細長い凝った意匠のある瓶が、青いサテン生地のクッションの中で横になって入れられていた。
木早は「終末ワイン? 何すかそれ?」と、半笑いで聞いた。
「はい、こちらが安楽死の為の飲料となります。終末通知を受け取った方が自ら終末を迎える為に用意された劇薬です。厳重に管理が必要な為に終末ケアセンターでしか提供が出来ません。承諾書に木早様の自筆による署名を頂いた後、当ケアセンター内、且つ職員立会いの下で服用頂けます。といってもこれ自体はサンプルですけどね。本物は本番に時に提供させて頂きます」
「それを飲んだら直ぐに死ぬって事すか? 苦しくないんすか?」
「はい。苦しみ無くお亡くなりになる事が出来ます。こちらを服用直後、強烈な睡魔が襲ってきます。そのまま眠りにおち、徐々に呼吸数が落ち、長くても30分以内に呼吸が完全停止します。こちらを飲まれた方のほとんどが良いお顔で亡くなっていかれました。ただ解毒剤も無く即効性がある物ですので、服用後は後戻りは出来ませんけどね」
「ふ~ん」
「他に何か質問等あれば何でも聞いてください」と、ひとしきり話を終えた井上が笑顔で言ったその言葉に、「それって今日飲む必要はないんすよね?」と、首を傾げながら質問した。
「勿論です。とりあえずこちらの説明は終わりましたので、これよりご自宅にお帰りになって、ごゆっくりと残された時間の使い方についてお考え下さい。御親族に相談する、親しい人と会っておく等、過ごし方は色々とございますしね」
「ですよね。じゃあ今度来る時にそれを飲まして貰うって事でとりあえず今日は帰ります」
木早はそう言っておもむろに立ち上がると、それを見た井上も直ぐに席を立ち、打合せルームのドアへと駆け寄り木早の方へと向き直り、「どうぞ」と言いつつドアを開けた。木早は軽く頭を下げながらドアから廊下へと出ると、そのまま玄関口へと向かい、井上も木早の後を追うようにして玄関口へと付いて行った。
「それでは木早様。私はこれにて失礼いたします。尚、こちらで行う安楽死に於きましては、終末を迎えるにあたっての一つの選択肢でしかありませんので、より最善の最後を選択の上、ゆるりとお過ごしください」
玄関口を背に井上は笑顔でそう言いつつ頭を下げ、木早を見送った。
翌朝、携帯電話の目覚ましが鳴ると同時にパチッと目を覚ました。すぐに寝た姿勢のまま腕を伸ばし、枕元に置かれた携帯電話を手に目覚ましを止めた。そして布団を蹴飛ばすようにして剥ぎ、心の中で「よしっ!」と気合を入れると同時に上半身を起こそうとすると、昨日とは違い呆気ない程に起き上がる事が出来た。
洗面所へと向かうと鏡に映る自分の顔を見つめながら歯を磨き、洗顔と同時に髭を剃った。洗面所を後に冷蔵庫から水のペットボトルを取り出しそのまま一口だけ飲むと、洗濯したてのワイシャツと少し皺になっているスーツへと着替えた。そしてネクタイを締めると再び洗面所の鏡に向かって身なりを整え、それが終わると携帯電話と部屋の隅に置かれたリュックを手にアパートを後にした。
いつもの時間に起きて、いつもの時間に家を出て、いつもの時間の電車に乗り、いつもの時間に会社に着く。
木早は普通の当たり前だった日常と同じように行動した。そして会社の自分の席へと座るとパソコンの電源を入れた。既に出勤していた隣の同僚が呆然とした顔で木早を見つめていた。木早は同僚に向かって軽い笑顔で以って頷くと席を立ち、木早の反対端に座る上司の元へと向かった。
椅子に座り机の上の書類を凝視している上司の後ろ斜めから「おはようございます」と木早が声を掛けると、その声に反応して振り向いた上司は直ぐにギョッとした表情を見せた。上司は目の前に立つ木早が終末通知を受けとったという事を木早の同僚から聞かされていた。故に無断での早退や欠勤についても木早に連絡をせず、もう出社しないであろうと思っていた。
「ちょっとお話よろしいでしょうか?」
木早がフロアの端にある自販機の区画を指さしながらそう言うと、「ああ、いいよ」と、上司は笑顔を交えつつ席を立った。
「いやぁ根耳に水って感じでした。あはは」
木早は終末通知を上司に見せながら言った。
「一昨日にあいつから話は聞いてたけど、やはり本当なんだな……。もう会社に来なくても良かったんだぞ? 残りの時間が勿体無いじゃないか」
苦笑いをしながら話す上司は終末通知をジッと見つめていた。
「まぁ一応、キチンと挨拶して退職しとこうかなぁって」
木早のそんな言葉に上司は困ったような笑顔をしながら「そうか」と短く答えた。
上司への挨拶を終えると再び席へと戻った。そして最後の仕事としてパソコンのローカルに置いてあったファイルをファイルサーバーに送る作業を始めた。だが殆どがファイルサーバ上で仕事していたのでそれほどローカルに残っているファイルは無かった。それでも憂いを残さないようにと、パソコンのログイン情報をメモして同僚に渡しておいた。
机の中の私物整理を行い最後にパソコンの電源を落とすと何とも言えない気持ちになった。涙が出る訳ではないが、これで本当に終わりと思うと少しだけ寂しいといった気持ちになった。
自分はもうここには来なくなる。時には面倒だなと思っていた会社にもう来なくなる。残り時間はまだあるのに来ないのは自分の意志とはいえ自分の意志とは関係無い理由で来れなくなる。とはいえこの会社は明日以降も続き、同僚達は今日と変わらず明日以降も毎日の様にここに集ってくる。だがそこに自分はいない。
木早にはそれがとても不思議に思えた。木早に転勤といった経験はなかったが、自分以外の意志でそこを離れる転勤とはこういう気持ちになるのだろうかと、転勤させされる仕事の人って大変だなあと他人事のように思うと同時に不思議な気分であった。
そして木早は席を立つと同僚1人1人に最後の挨拶へと回った。寿退職や転職といった前向きな退職ではない為に皆に拍手されて送られる訳では無い。とはいえ何も言わずでは2度と会う事は無いとはいえ社会人としてよくないだろうと律儀に考えての事であった。
だが挨拶された同僚は皆どういう顔で挨拶すれば良いのか分からない様子であった。既に事情を知っている同僚達からすればその木早からの挨拶は「もうすぐ死にますので」と言われているような物であり、何と返せば良いのか分かるはずもなかった。故に同僚達は少し困った笑顔を見せながら「お疲れ様でした」と短く答えるしかなかった。そして木早は数年間勤めた会社を後にした。
木早はアパートの隣に住む大家の家に向かった。大家は定年してからアパート経営を始めた高齢夫婦という事で80歳を超えていた。
木早が大家の家のインターホンを押すと大家の主人が応対した。インターホン越しに木早が要件を伝えると大家の主人が驚いた表情で以って直ぐに家の外へと出て来た。その顔は少し泣きそうにもなっているのが木早にも分かった。特に懇意にしていた訳では無いのでそんな顔をされると恐縮するなと思いながらも事の次第を端的に説明し、アパートの整理が終わったら直ぐに終末ケアセンターに向かうつもりである事を伝えた。大家の主人は家具家電、食器に衣類等々残していく物は全て大家の方で処分してくれるという事で掃除も何もしなくても良いよと木早に伝えた。
後の事は全て大家がやってくれるという事なのでそのまま終末ケアセンターに直行してもよかったが、木早はとりあえずアパートへと戻るとリュックを床へと放り投げ、スーツ姿のままベッドへと仰向けに寝転んだ。そして寝転びながら部屋を見渡すと、10年も住んでいない見慣れたワンルームが懐かしく思えた。そうして暫くの間、決して広くもない自分の部屋をただただ眺めていた。
30分程の後、「さてっ!」と、木早は勢いよくベッドから起きあがると、アパートの鍵、携帯電話と財布、そして終末通知の葉書だけを持ってアパートを後にした。
大家の家のインターホンを押すと今度は夫婦揃って外に出て来た。「お世話になりました」と頭を下げつつ部屋の鍵を返すと、主人は俯き加減に歯を食いしばりながらも鍵を受け取った。その1歩後ろに立つ妻は「こんなに若いのにね……」と小声で言いつつ涙を流していた。夫婦共に真っ白な髪に皺だらけの顔が涙でぬれていた。高齢の夫婦にこんな思いをさせて申し訳ないなと思いつつ、木早は笑顔で「さようなら」と最期に言い残し、住み慣れたアパートを後にした。
再び終末ケアセンターにやって来た木早は受付に座る女性に要件を告げた。
「安楽死をお願いしたいのですが」
「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」
手持無沙汰のまま受付付近で待つ事数分。コツコツと、ゆっくりとした足音が響いて来た。その足音は徐々に近づき1メートル手前まで来て止まると恭しく頭を下げた。そこには先日木早が来た時に応対した終末ケアセンターの職員である井上正継が立っていた。
井上は「では、こちらへどうぞ」と、先日に木早が来た時と同じ打合せルームへと案内した。
「では改めて確認させて頂きますが、本日安楽死をご希望されるという事で宜しいでしょうか?」
「はい。お願いします」
「しかし終末日までは1カ月近くも残っておりますが本当に今日がご希望という事で宜しいのですか?」
「はい。お願いします。私の場合にはデータ通り独身男性は早く終えるって事ですかね。ははは」
「そうですか、分かりました。では最期となる場所についてですが、あちらの庭か当建物の上階にある個室がありますが、どちらが宜しいでしょうか?」
井上は打合せルームから見える庭を手で指し示すと共に持参していたタブレットで個室の写真を提示した。写真に写る個室からの光景はほんの少し高い位置から見る住宅街という何の変哲もない景色だった。
「ああ、そうですね。庭が良いですかね」
「了解致しました。では準備致しますので、こちらで少々お待ち下さい」
井上はそう言って木早1人を部屋へと残し、建物の奥の方へ去っていった。
井上を待っている間、木早は打ち合わせブースのすぐ横に広がる庭を大きい全面ガラス越しに見ていた。ガラスの外側には広い庭が広がっていて3階にも届きそうな高い木が沢山植えられると共に多くのベンチとイスがテーブルとセットで置いてあった。その庭に2人づつの2組の人影が木早に目に留まり、木早はそのうちの1組に目を向けた。
1人は私服を着た高齢と思しき白髪の男性。その人は1人テーブルを前に椅子に座っていた。そこから少し離れた場所にスーツ姿の男性が1人。その人は座っている高齢の男性を監視するかのように両手を前に組みながら立っていた。木早がそのまま高齢の男性をジッと見ていると、グラスに入った黒っぽい飲み物を口にするのが見えた。男性はグラスの中身を一気に飲み干すと空となったグラスをテーブルにそっと置いた。その数秒後、カクンと音が聞こえるかのように項垂れた。
数分間、高齢の男性は項垂れた状態のままだった。すると監視するかのようにして立っていたスーツ姿の男性が高齢の男性の元へと近づき、高齢の男性の首筋辺りに手を当て始めた。
「スーツを着た男性は終末ケアセンターの職員でして、椅子に座っている男性の脈をとっているんです」
ふいに後ろから声がして振り返ると、そこには井上が立っていた。そして木早と同じく高齢の男性の方へと目を向けていた。井上の横には先程までは無かったキャスター付きのワゴンが置いてあった。
「職員の簡易的な確認によって脈が無いと判断したら施設に常駐している嘱託医が呼ばれ、正式に死亡宣告を行う手はずになっています」
木早が高齢の男性の方へと向き直りそのまま様子を見ていると、脈を取っていた職員が携帯電話で以って何処かへと電話をし始めた。すると直ぐに別のスーツ姿の男性が高齢の男性の元へとやって来ると、高齢の男性の胸元に聴診器を当てはじめた。
「白衣は着てはいませんがあの方が嘱託医です」
しばらくして嘱託医が聴診器を外すと先にいた職員と二言三言の言葉を交わし、2人で項垂れたままの高齢の男性に向かって合掌しながら頭を下げた。その後、嘱託医は施設の中へと戻ったが、もう1人の職員は高齢の男性の傍に立ったままだった。
その数分後、2人のスーツ姿の男性がストレッチャーを手に高齢の男性の元へと向かって歩いて行った。そして先にいた職員と合わせ3人で大事そうに高齢の男性をストレッチャーに乗せ、3人の職員と共に高齢の男性は施設の中へと消えていった。
「あの方は当施設の奥の部屋で棺に納められる事になります。その後、本来であれば御遺族が御遺体を引き取りますが、あの方の場合には1人で来ていた様子ですので御遺族や引き取り手がいないのかもしれませんね。この場合には行政により簡易葬、火葬が行われる事になります。そして自治体の共同墓地に納骨される事になります」
井上は終末ケアセンターで安楽死を選んだ場合、遺族がいない、遺体の引き取り手がいない場合には行政負担で火葬、納骨まで行う。ただし納骨は各自治体が所有している共同の無縁墓地に限り、いわゆる行旅死亡人と似た扱いになると木早に説明した。
「自分が死んだ後の火葬納骨の事なんて考えてなかったなぁ。一応両親の墓はあるけど自分も親族はいないから引き取り手はいないしあ。行政の方で共同墓地に入れて貰うしかないって事っすかね」
木早は他人事のように言った。
「では、参りましょうか」と、井上のその言葉に「あ、はい」と、木早はおもむろに立ち上がり2人はそのまま部屋を後にした。
井上はキャスター付きのワゴンを押しながら歩いていた。そのワゴンの上には、一見ブランド品に見える焦げ茶色をメインに金色の装飾が施された万年筆。バインダーに挟まれたA4書類。そして先日サンプルとして木早が見たのよりも少し幅のある使い古された感じの残る高級そうな木箱が乗せられていた。
その木箱の中には今度は赤いサテン生地のクッションの上にシャンパングラスと呼ばれる細長いグラスと終末ワインが横に寝かされていた。サンプルの時には空だった細長い薄茶色の意匠のある瓶にはどす黒く見える液体が入り、スクリューキャップできっちりと封じられていた。
そして打合せルームから30メートル程歩くと、そこには全面ガラスの扉があった。井上が壁に設置された開閉ボタンを押すと両引き戸のガラス扉がゆっくりと開き始め、ドアが完全に開いたところで井上が先に外へと出ると、それに続いて木早も庭へと出た。
「お好きな場所へお座りください」
井上がそう言うと木早は庭を見渡した。目に留まったのは丸い小さいテーブルと一人用の椅子が1つだけのこじんまりとした場所。木早は「じゃあ、あそこで」と指さすと、「承知いたしました。では参りましょうか」と、再び井上を先頭に木早が後に続いた。
最後の場所と決めたテーブルに到着すると、木早は無造作に椅子を引き腰を下ろした。
井上はテーブルの横にワゴンを置き、「ではこちらをお願いできますか?」と、ワゴンの上のバインダーに挟まれた書類と万年筆を手に取り、テーブルの上、木早の目の前へと置いた。
「終末ワインを提供するにあたって承諾書に署名が必要となります。こちらが承諾書の書類になりますので御確認頂けますか? 質問や疑問があれば仰って下さい。ご確認頂き問題等無ければこちらにご署名なさって下さい。ご署名なさって頂いた後、こちらの終末ワインを提供致します」
木早は承諾書を手に取り目を通した。
【終末ワイン摂取承諾書】
このワインを摂取すると、直ちに安楽死を迎える事になります。
あなたがそれを望むのであれば、下記に自筆でご署名をお願いします。
そんな短い文面の承諾書で一番下に署名欄という1枚の紙に木早は首を傾げた。
「確認するも何もこんな短い文書で特に疑問もないけどね。しかし万年筆なんて初めて使うなあ」
そう言って目の前に置かれた万年筆を手に取りキャップを外すと、署名欄に自分の名前をサッと書き入れ、署名を終えた承諾書と万年筆をテーブルにそっと置いた。
井上は書類を手に取り名前が正しく記載されている事を確認した後、担当者欄に自らの名前を署名した。
「確認致しました。ありがとうございました」
井上は承諾書と万年筆をワゴンの上に戻すとシャンパングラスをテーブルの上、木早の目の前へとそっと置いた。そして終末ワインのボトルを手に取りスクリューキャップの栓を開け、そっとシャンパングラスへと注ぎ始めると全量注いだ。全量といっても100ccといった量であり、注ぎ終わった空のボトルのキャップを締めると再び木箱の中へと戻した。
「ではこちらの終末ワインを提供させて頂きます。ただご自身でゆるりとした気持で以ってお飲み頂きたいのは山々ですが、職員帯同の下でお飲み頂くという事がルールとなっておりますので、私は少し離れた場所で見させて頂く事を御容赦ください。では」
井上はそう言うと共に一礼し、ワゴンを押しながら10メートル程離れた場所へと向かうと、その場で木早の方へと向き直り、木早を監視するかのようにして両手を前に組みその場に位置した。
木早はその井上の姿に眉をひそめた。劇薬だから監視も仕方がないだろうが、人にジッと見られながらというのは気持ちがいい物では無いなと。
時刻は正午過ぎ。空を見上げれば真っ青な空に白い雲が少し流れていた。そして未だ死への実感が無いままに木早は今際の時を迎えた。
暇だなと思った日もあった。忙しいという日を過ごし時間が足りないと思う日もあった。それらの積み重ねでの29年間。思い返せばそれは一瞬の出来事だったなあ。短いと言えば短く長いと言えば長い、そんな29年だったなあ。
その人生にどんな意味があったのか、生まれた事に意味があったのか、いても居なくても何ら影響を与えない自分の存在は何だったんだろうか。これからも生き続ける人は意味があるという事だろうか。それは隣の芝生が青く見えるかのような考えだろうか。今死なずとも何時かは死ぬ訳であり、そう考えると人とは何なんだろうか。永遠の命を望む訳では無いが「死」というものが存在する「生」とは一体何なんだろうか。「生」があるから「死」があるとでも言うのだろうか。なんだか卵が先か鶏が先かの話だな。こんな事を考える事こそ下らないのかな。目的も無い自分が生き続けるよりは、目的目標を持って生きる人が生き続ければいいって思えばいいのかな。
「ま、いいかぁ」
全てを諦めたかの表情で以って力無くそんな短い言葉を口にすると、目の前に置かれたグラスにそっと手を伸ばし、グラスを掴むとそのまま口元へと近づけた。そして最期に深いため息を吐くと、それを合図にグラスを煽った。
◇
20XX年『終末管理法』制定。制定されると同時に厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は当局の管理監督の下で、個人に対して個人の終末日、つまり亡くなる日を通知するというのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は健康体の人物を対象とした福祉の一貫として位置づけられている。
個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は即刻郵便として全国へと発送される。対象期間は月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。
また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は通知葉書を受領した人達へのカウンセリング、そして安楽死の実施という2つが主な役割とされた。
安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。
財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か現金決済のみとされた。
終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。
遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には自治体により火葬納骨まで行われる。その際は自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人と同様の扱いである。
終末を通知された人が自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると終末日まで拘束される事になる。それ程の強権を発動する事に対して賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。
終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。
そして、安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。
2019年 11月26日 7版 誤字含む諸々改稿
2018年 11月23日 6版 誤字修正、描写変更、冒頭説明文を下部に移動、タイトル変更
2018年 10月13日 5版 誤字修正、描写追加他
2018年 09月26日 4版 誤字修正、冒頭に仕組の説明を追加
2018年 09月14日 3版 縦書き考慮修正
2018年 09月08日 2版 一文字ずらし、改行修正
2018年 08月31日 初版