聖ユリアンヌ女学院 エセ茶道部の日常
登場人物紹介
・園部のこ
主人公。聖ユリアンヌ女学園一年生。望月蓬に憧れてエセ茶道部に入部した百合少女。一人称は「私」。
・菖蒲百合香
金と行動力のある変人。エセ茶道部部長の二年生。園部を「のこっち」、望月を「ヨモギちゃん」と呼ぶ。一人称は「ボク」。
・望月蓬
おおよそ常識人。ヒマ潰しに茶道部に入った二年生。園部に好意を向けられているが気付いていない。一人称は「あたし」。
今年から園部のこが通うことになった聖ユリアンヌ女学院――通称「聖ユリ」には「エセ茶道部」と呼ばれる部が存在する。
その活動内容は「お茶を飲み駄菓子をつまみながらダベる」と言うものであり、当然正式な部活動と認められているワケではない。部長の名は二年生の菖蒲百合香、この国で二十本の指に入ると言われる大企業「菖蒲ドリームファクトリー」の現社長である菖蒲勇作の孫である。学園創設時の出資者の一人である勇作の名は学園側に取って大きな意味を持ち、彼女が多少の我儘を言い出しても教師は見て見ぬふりをするのだ。多くの生徒から彼女は「金と行動力のある変人」と呼ばれ恐れられている。
この部の生い立ちはこうである。
学園本棟北廊下の片隅にひっそりと佇むその部室は、かつて「オドロキマンシール部」の部室として使用されていたのだが、部員三名が後継者を見つけられず卒業となったため空き室になっていた所を菖蒲が勝手に使い始めたのだ。
彼女はその部屋を自分にとって快適な場所にするため、漫画、ラジオ、おかし……と次々に持ち込むうちにエスカレートしていったのか、今では冷蔵庫やラジオにソファ、さらに全自動卓など誰に運ばせたのか分からないようなシロモノも存在する。
学園側も菖蒲の所業を黙って見ているわけにはいかなかったが、部室に掘り炬燵を作るための業者を勇作自身が手配したと知った時、彼らは干渉する事を止めた。勇作の孫への溺愛ぶりは目に余るものがあり、「その余った目になら孫を入れても痛くない」とは彼の談である。よくわからない。
この親にしてこの子あり、と陰では生徒や教師に囁かれたが、その声は業者たちの作業音によってかき消された為、勇作の耳には届かなかったという。
こうして菖蒲はその空き室を「エセ茶道部」と名付けて、放課後友人達とだらだら過ごすようになったのだった。
菖蒲の悪名は下級生にも知れ渡っていており、園部も入学以前は菖蒲のような変人とは出来るだけ関わらずに過ごそうと考えていたのだが、どうにもそうはならなくなってしまった。
それは、園部が入学式で初めて望月蓬の姿を目にした時の事だった。壇上にて凛々しく祝辞を述べる望月の姿を園部が目にした時、園部のあえかなる胸は早鐘を打ち始めた。望月のあんこのように黒い長髪や、草団子のような弾力を感じさせるもち肌に園部はノックアウトされてしまった――つまり一目ぼれしてしまったのだった。
式が終わるやいなや園部は友人を作り、そのネットワークを通じて祝辞を送った在校生代表の女生徒について調べ始めた。
その結果、望月蓬はエセ茶道部に頻繁に遊びに行っている事を突き止めたのだった。
園部は思う。
(なぜあのような麗しき女性が菖蒲のようなアホとお近づきになっているのか私には理解できないが、望月さんが友人に選ぶくらいなのだから菖蒲と言う人も案外普通なのかもしれない。そうだ。そうに違いない)
菖蒲と望月は不思議とウマが合うらしく、望月は放課後殆どエセ茶道部で過ごしているようだった。一部の生徒は彼女たちが「そのような関係」であるとまことしやかに囁きあっていたが、園部は信じなかった。
(望月先輩こそ私の「お姉さま」なのだ。例えライバルが菖蒲のような大企業のお嬢様であっても、学園にエセ茶道部を作るような変人であっても、そう簡単に恋を諦めてなるものか)
そう考えた彼女は翌日エセ茶道部の扉を叩いた。菖蒲のような変人に近づくことに恐怖を感じなくもなかったが、それ以上に望月と仲良くなりたいと考えたのだった。
その日から園部の学園生活は、雑談とお茶菓子とほんの少しの百合に満ちたものになった。
――
十一月も下旬を迎え、朝起きぬけに布団を出ると床の冷たさにハッとさせられる――そんな冬の日の出来事。
その日の放課後も園部は授業が終わり次第エセ茶道部に向かうつもりだったが、「女子力応用力学」の授業で彼女が提出したレポートに抜けが見つかったため、一人居残りしている内に遅くなってしまった。
園部はその課題を終えるやいなや一目散に部室へと続く長い北廊下を練り歩いて行き、部室の扉の前に着くとその場で一息ついた。室内からは談笑の声が響いてきており、その二つの声質からするとどうやら望月と菖蒲が中にいるようだった。園部は鞄から手鏡を取り出し軽く自分を見返してから、勢いよく扉を開けた。
「ごきげんよう」
お嬢様学園特有の挨拶も、半年もココで過ごしていればすっかり馴染んだものとなっていた。入学当初は気恥ずかしさを感じる挨拶だったが、今では堂々としたものだ。
「あ、ごきげんよう園部さん、今日遅かったね」
園部の挨拶を受けて望月は炬燵から顔だけを向けて挨拶を返した。園部はだらしない体勢で寝っ転がっている望月を見てはその相好を崩した。
(ああ、望月さん、今日もだらしな美しい……ん?)
ふと、園部は望月の顔に一つ奇妙な点――もとい文字がある事に気付き、じいっと彼女の額を観察してみた。
――望月の額にはマジックペンらしき筆跡で『肉』と書かれていた。
「……にく?」
「どうしたの?」
望月は園部の視線に気づいたのか、不思議そうな目を彼女に向けた。
「え、その――」
何かの罰ゲームですか、と続けるつもりだったのが、その言葉は突然脇から飛び出してきた人物によって阻まれた。
「や、やぁー! のこっち丁度良いところに! ヨモギちゃんのご機嫌なんか伺ってないでこっち来てよ!」
その人物こそ、今回の事件の発端である菖蒲百合香その人だった。
「え、ちょ、ちょっと――」
菖蒲は園部の手を掴むと無理矢理に部室奥に存在する物置へと引っ張っていこうとした。呆気にとられた園部は菖蒲のなすがままに連れ去られていく――。
「あれ? どこいくの? 折角三人揃ったんだしサンマ(三人麻雀)しようよ」
望月はこう言って二人を引き留めようとしたが、菖蒲は譲らなかった。
「いや、ごめんヨモギちゃん。ちょっと、のこっちに相談したいことがあって……物置使うよ」
「珍しいわね」
「え? え?」
あまりに急な事で園部が戸惑っている内にあれよあれよと二人は奥の物置へと入って行った。その途中園部の耳に「水臭いわね」と言う望月の拗ねたような声が聞こえてきた。
――
物置部屋は菖蒲が持ち込んだ玩具やゲーム機で散らかり放題だった。園部はいくらか落ち着きを取り戻したので、菖蒲に色々と問いただすことにした。
「あの、相談って――」
「うん。ヨモギちゃんの額の事だ」
(やはり、アレのことか)
「聞くまでもない事かと思いますが――アレ、誰が書いたんですか」
しばしの沈黙の後、菖蒲は唇を開いた。
「キミって事にならないかな」
「先輩……」
「じょ、冗談だよ。軽いユリアンヌジョークさ」
(なんだそりゃ、なんてツッコミを逐一彼女に放っていては喉が持たないな……さっさと話を進めよう)
「って事はやはり菖蒲先輩が望月先輩に落書きしちゃったんですか。なんでまた――」
「ボクがさっき部室に着いたらヨモギちゃんが大口開けて寝そべってたもんだから……つい……」
そう言って菖蒲は自らのスマートフォンを取り出し、その画面を園部に向けた。そこには望月が大口を開けて爆睡している姿が映し出されていた。額には『肉』と書かれており、まぁ笑える光景と言えた。
「これは――乙女にあるまじき寝顔ですね」
「ね? 悪戯したくなる気持ちが分かるでしょ?」
「実行する気持ちは欠片も分かりませんが」
園部は子供っぽい悪戯をする菖蒲に呆れ、ため息を交えつつこう言った。
「サッサと謝ったらどうですか? ビンタ一発くらいで勘弁してくれるでしょう」
「いや、それがさぁ――」
菖蒲はそこで少し溜めた後、こう続けた。
「『次やったら絶交する』って言われてるんだ……」
(既に一度やったことあるのか……)
「その時すっごい剣幕で怒られてさぁ……怖かった……」
「なのにやっちゃったんですか」
「しかもあのペン油性だったんだ……」
「確認しましょうよ……」
「カメラを撮り終えてヨモギちゃんの額をハンカチで拭ってる時に気付いたんだよ……しかも丁度その時目が覚めるし……そんで今に至るってワケ」
(アホか……いや、アホだった)
「前回やってかなり怒られたんでしょう……なんでこういう事しちゃうんですか?」
「ヨモギちゃん可愛いからね」
「すいません。因果関係がさっぱりわかりません」
「こう――何と言うか――例えるなら真っ白な紙に墨汁を垂らすような楽しさと言うか……もしくはキャベツ畑を信じる少女に――」
「あ、もういいです」
園部に発言を途中で遮られた菖蒲は不満そうな顔をして頬を膨らましたが、すぐに気を取り直して話を続けた。
「まぁ、それはともかく、ヨモギちゃんには絶対に知られぬよう額の肉を消さねばならん。協力してくれ」
「ええー? いやぁ……もう既に手鏡とか見てるんじゃないですか? 寝起きなんでしょ?」
「その辺は抜かりない」
そう言って菖蒲が取り出したのは可愛らしいピンクのポーチと、そっけないスマートフォンだった。園部にはそのどちらにも見覚えがあったが、あえて問いただすことにした。
「一応聞きますが、それ誰の化粧ポーチとスマホですか?」
しばしの沈黙の後、菖蒲は唇を開いた。
「キミのって事にならないかな」
「もうユリアンヌジョークは間に合ってます。望月先輩の物ですよね、ソレ」
「うん。心なしかイイ香りがするね」
「発言には気を付けてくださいね」
園部のこめかみに青筋が一つ立った事に気が付くと、菖蒲は慌てて話を元に戻した。園部は下ネタが嫌いな清純な子なのだ。ノルマ達成だ。
「それはそれとして、だ。念のためコレをパチっておいたんだけど、ヨモギちゃんってああ見えて結構だらしないところあるから、鏡使おうとする気配はなかったよ。今頃小説でも読んでるんじゃないかな」
「ううむ、女性としてどうなのかとも思いますが――二人とも」
園部のツッコミを無視して、菖蒲は本題に入った。
「ともかく、ボクの置かれた状況は分かったよね? 返事を聞かせてくれ」
「え、と。先輩に『協力するかどうか』ですか?」
「ああ、『はい』か『イエス』か……それとも『ハイエース』か――」
「物騒な事言わないでください!」
「え? 何が?」
(わ、私の考えすぎだったのか……?)
「今のは『はい』と『イエス』を組み合わせた、厳密には『はいィイエェース!』と発音するゴキゲンな言葉なんだ。小学生の頃クラスで流行ったんだ」
「そんなつまんないネタよく解説する気になりましたね」
「うるさいな、返事はどうなんだ」
(そんなの――考えるまでもない)
「私にメリットがないのでお引き受けできません。望月先輩に嫌われたくないですし……今日はこのまま帰りますので、後はお一人で何とかなさってください」
「冷たいなぁ、ならばこれでどうだ」
その言葉と共に菖蒲はどこからか小綺麗な包みを鞄から取り出した。
「……なんですかコレ」
「おぬしも悪よのう」
彼女が包装紙をぺらりと捲ると、有名なお菓子屋のロゴが園部の目に飛び込んできた。
「い、稲根屋の饅頭如きで釣られる私じゃありませんよ。甘く見ないでください」
稲根屋とは高級駄菓子専門店の名称である。甘いらしい。
「へぇー。これ、中にあんまーい餅も入っている高級品なのになぁー」
「ぐ……もち……」
「ええ!? なのに糖質10%オフでプリン体ゼロなんだって!? エー スゴーイ そりゃあ並ばなきゃ手に入らないわけだよ!」
「ぐぬぬ……ぷりん……」
「ううーん、のこっちが食べないならウチのサイオーにでもやろうかなぁ……」
「さ、サイオー……?」
「あ、妹が駄々こねたから馬買ったんだ、そいつの名前がサイオーって言うの」
「こねたからうまかった……?」
(だめだ、さっきから頭が回らない……)
「ふふふ、大分このスウィーツに参っているようだね」
「ぐぬぬぬぬ……いやしかし……だがしかし……」
「よーし分かった。もしボクに協力してくれるなら、のこっちへのお歳暮は稲根屋の『特盛スウィーツ甘味で骨スカスカセット』にしよう!」
「!!」
園部の脳髄にガツンと衝撃が走った。彼女は唇を震わせながら返事をした。
「は――」
「は?」
「はいィイエェース!」
そうして彼女たちは望月の額の『肉』を気付かれずに消す作戦を練り始めた。
――
五分後、彼女たちは作戦会議を終え、望月のいる部室へと戻ってきた。先ほどの菖蒲の発言の通り、望月は炬燵に入り小説を読んでいた。
その様子を確認すると菖蒲と園部は互いに目配せしあい、作戦を行動に移すことにした。
「ねーねーヨモギちゃん」
「え? ああ、相談はもういいの」
望月は今二人に気が付いたのが、読んでいる本を手元に置いて菖蒲たちの方へ向き合った。
「ああ、商談は双方の歩み寄りによって最終的にぶつかったよ」
「は?」
「うまくいったってことだよ!」
そう言って菖蒲は望月の肩をバシバシ叩いた。
「あ、え……? 何時にも増してワケわかんないわねアンタ」
「うるせいやい! それよりヨモギちゃーん……」
「な、なによ、何時にも増して気持ち悪いわね」
菖蒲が望月にねっとりと近づき、こう言った。
「顔面マッサージしてあげよっか?」
「は?」
「その返事は『イエス』と取るよ。のこっちアレ貸して」
「は……はあーい!」
園部は事前に準備していた除光液を菖蒲に手渡した。コレは菖蒲がお抱えのメイドに頼んで持ってこさせたシロモノで(所要時間一分)、透明な瓶に付けられたラベルは既に剥がしてあった。
そう。
彼女たちはこれをマッサージオイルと称して顔のマッサージに使用することで、望月の額の『肉』を消すつもりなのだ。賢明な読者は既にこの作戦の破綻を予期しておられるであろうが、この時は菖蒲も園部も必死だったのだ。絶対もっと他に方法あるだろう、とかコメントしてはいけない。
そんな事情は露とも知らず、菖蒲はそれを持ってずんずん望月に詰め寄っていく。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! アンタどこの国の国語習ってきたのよ! あたし『は?』って言ったでしょ!」
「ま、まぁまぁ、私たちに任せてくださいよ先輩……ぐへへ」
園部は半ばヤケクソになりながらも、作戦を実行することにした。
「ちょ、ちょっと! 園部さんまでどうしたってのよ!?」
もみ合いになりながも園部はなんとか望月をホットカーペットに抑えつけた。
「ヨモギちゃん。落ち着いて聞いてくれ」
「そ、園部さん! 無理に寝かしつけようとしないで! 分かったから! 分かったから!!」
「ボクいつも思ってたんだけどね――」
「どう見てもあたしまだ落ち着いてないでしょ! 園部さんを何とかして!」
望月がおびえたように声を張り上げ、フと正気に戻った園部は急いで望月から離れた。
「あ……ご、ごめんなさい……驚かせるつもりはなかったんです」
「はぁ……一体何なのよ……」
「あ、落ち着いた? そんでボクいつも思ってたんだけど――」
菖蒲は続けた。
「ヨモギちゃんって綺麗だよね」
「はぇ!?」
「私もそう思います」
「い、いきなり何言ってんのよ二人とも……嫌だ……」
真っ赤になった頬を両手で隠す望月を見て、額の『肉』の文字まで焼きあがるのではないか、と園部は考えた。
菖蒲はそれに構わず話を続ける。
「で、ボクふと思ったんだ――もっとヨモギちゃんは輝けるんじゃないか、って」
「え、ええ……何? 急に話が胡散臭くなったわね」
「そこでご紹介したいのがこちら、『アキヤマ印のぬるぬるオイル』。見てくださいこのボデー!」
(ああ、やると思った。こいつアホだもんな)
「何……? アンタのところの会社テレビショッピングでも始めたの?」
「まぁ、そんな感じ。コレまだどこにも売られていない試薬品なんだけど効果は保障済みだよ」
「どんな効果があるってのよ」
「え? え、ええと……まず付きたての餅を想像してみてください……おいしそうですね」
「味は関係ないだろ」
「その餅のような肌になりたいと思いませんか? そこでご紹介したいのがこのオイルです。十代の頃の肌を取り戻せます」
「私十代なんだけど」
「……脳年齢とかはそうじゃないだろ」
「だからなんだってのよ! この前ちょっと高いスコア出したからって調子に乗って――」
「い、痛い痛い」
(何やってんだ……)
「えーい、もう話が全然進まん。ヨモギちゃん、四の五の言わずに横になって!」
「いやよ」
にべもなく断る望月に園部と菖蒲は大きく動揺した。
「ど、どうしてですか?」
「な、なんでだよー」
「マッサージするなら自分でするわよ。それに菖蒲の言う事だから何か怪しいし――」
「そんなぁ! 今度は本当だよ! ほら、騙されたと思って――」
「アンタ二週間ぐらい前そう言って本当に騙してきたでしょ!!」
(前歴があるのか……全然信用されていないぞ)
にらみ合いのような膠着状態が数秒ほど続いた後、望月が急にぬっと立ち上がった。
「はぁ――ったく、もう。ちょっと気分直しにお手洗いにでも行ってくるわ」
「え!?」
予想外の事態に二人の体が固まった。
(ま、不味いぞ! このまま彼女がトイレに行けば――額の『肉』が知られてしまう! そうなれば私の名演技も水の泡――稲根屋の饅頭もサイオーの腹の中――)
いち早く硬直から戻った菖蒲はそうはさせまいと、慌てて望月の前に立ちはだかった。
「ま、待って!」
「え……? 何?」
「え、ええと――」
菖蒲はパニックになっているのか言葉がうまく出てこないようだ。
「……た、ただ手を洗うだけじゃないだろう」
「あたしに何を言わせるつもりだ。そこどいてよ」
「そ、それは許さないぞ」
「なんで!?」
(ま、不味いことになった。くそ、結局私がフォローするのかよ)
「しょ、菖蒲先輩は少し黙っていてください」
「むぅ……」
「何なんだ一体」
園部は一つ咳をして、こう続けた。
「え、ええとですね……菖蒲先輩は望月先輩の為に、ただ純粋にマッサージしたいだけなんです! 本当にすぐ済みますから! お願いします!」
「ええ……? なんでこんなに必死なの?」
「頼むよヨモギちゃん! トイレなんか鏡のある所にいかないで――」
「黙ってろって言ったでしょ!」
「ぐわ!」
園部の裏拳が菖蒲の顔面に放たれた。
「そ、園部さん!? アイツ『ぐわ!』って言ったわよ!」
「いいんです! それより……その……先輩はさっき物置で見たマッサージ動画を忘れないうちに実践したいそうなんです! ね!? 先輩!」
「あ……ああ……ボク、早くヨモギちゃんを綺麗にしたいよ……」
親指をグッと立てて望月にサムズアップする菖蒲だったが、その顔は血に塗れていた。
「その前にアンタの鼻血を止めたら……?」
――
それから数分後。
「あ、止まった?」
望月が菖蒲の顔を伺うと、彼女は元気な声でこう返した。
「うん、ボク顔確認したいからヨモギちゃん鏡持って――ぐふっ!」
菖蒲の言葉を遮ったのは園部である。今度はみぞおちに放ったのだった。
「アンタら、どつき漫才でも始めるの?」
「も、もうやんないよ……と言うかやんないで下さいお願いします……」
「それは菖蒲先輩次第です、ちゃんとしてください」
「うう……さ、さあ! マッサージするから横になってよヨモギちゃん!」
「う……」
望月は急に気恥ずかしくなったのか、顔を赤らめた。
「椅子に座ったままじゃダメ? 何か恥ずかしいんだけど」
「まぁまぁ、アッと言う間に終わるから」
「それならいいけど……って言うか本当にそれで効果あるのかしら」
望月がホットカーペットの横になると、菖蒲もその横に座り込んだ。
「よし、じゃあ『ヨシヒロ印のぬるぬるオイル』を塗るからね」
「そんな名前だったか……?」
「目は閉じててね」
「あ……うん」
「さぁ、いくぞ」
菖蒲が除光液の蓋を開けようとした、その時だった。
「や、やっぱり何か恥ずかしいわね」
望月が急に眼を開いた。
「わ! 急に眼を開けたりしちゃだめだ! 失明するぞ!」
「失明!?」
望月はがばっと起き上がり、菖蒲が手にした除光液を奪い取った。
「菖蒲! 化粧水って普通安全なヤツ使うでしょ!」
「あ――し、失明は言いすぎたよ。ごめんごめん」
「……なんかさっきから怪しいわね」
望月は訝し気に何度も除光液が入った透明の瓶を見回している。園部はごまかそうと必死に取り繕った。
「そ、そうですか? 菖蒲先輩って普段から『聖ユリ屈指の変人』で名が通ってるじゃないですか」
「衝撃の事実」
「アンタは自覚を持ちなさい。コレ本当に美白オイルなんでしょうね?」
「もちろんそうだよ」
「当然です」
二人の白々しい返事も望月の気を変えさせることは出来なかった、
「じゃ、菖蒲、アンタがコレ塗ってみなさいよ」
望月が菖蒲の手に瓶を押し付けると、彼女の顔から血の気がサッと引いた。先ほどの鼻血とは関係なしに。
「どうしたのよ、美白になるんならアンタも試したいはずでしょ?」
「ぼ、ボクにはヨモギちゃんさえいればそれで良いから」
「それがどうした」
「そんなご無体な……」
がっくりとうなだれる菖蒲に畳みかけるように、望月が詰め寄った。
「塗るの? それともアンタやっぱりあたしにヤバいもの試させようとしてたの?」
ぐいぐいと近づいてくる望月に気圧されたのか、菖蒲も園部も反論が思いつかなった。
(や、やばいよぉ……このままだと望月さんの心も、稲根屋の饅頭も全部おじゃんになっちゃう……どうすれば良いんだ)
園部が救いを求めて菖蒲に目を向けると、なんと菖蒲の目には輝きが戻っていた。さながら悲壮な戦場へ赴く勇敢な兵士のように、一条の固い決意の光がその眼には宿っていた――ように見えたらしい。
(ど、どうするんだ? まさか――)
園部が疑問に思って見ていると、菖蒲はおもむろに除光液の蓋を開けた。
「ふぅ、やれやれ。疑り深いなぁヨモギちゃんは。今からボクが――くさっ!」
除光液のあの匂いが部室にいきわたった。
「え? なにが――って、くさっ! その美白オイルくさっ!」
「忘れてた! くさっ!」
望月と園部もその異臭を嗅ぎ、菖蒲から距離を取った。
「な、なんかどっかで嗅いだ事ある気がする匂いだけど……それ本当なんなの?」
心底不思議そうな目を向ける望月に菖蒲は苦しい言い訳を言い放った。
「や――やたらくさいけど肌に良い美白オイルだよ! リスクを恐れてはリターンは手に入らないんだ!」
「いくら美人でもくさかった台無しじゃない……?」
望月のツッコミを無視して、菖蒲は除光液を傾けて手の上に液体を躍らせた。彼女の掌がみずみずしい肌色から毒々しい青色に染まっていく――。
「ぬ、塗るんですか先輩……」
「な、なんなのよその液体……」
菖蒲は二人に向かってふ、とほほ笑み、そうしてひとつ深い深呼吸をした。
そして――
「南三!」
古臭い掛け声の後、菖蒲は一息に両手を頬に擦り付け、ぬりぬりと揉み回し始めた。ぬちゃぬちゃとした奇妙な音が部室に響き、その間誰も一言も発しなかった。
「ど、どうなの?」
望月の問いかけに、菖蒲は悲鳴と共に答えた。
「うああぁ! のこっちに打たれた所がヒリヒリするぅ! しかもくさい!!」
「う、うわぁー! こっちに来ないでください!」
痛みから逃げようと所かまわず駆けだした菖蒲に、それに巻き込まれた園部は部室内をどたどた駆け回った。
「いたーい!」
「くさーい!」
「な、何やってんのよアンタら……」
普段の素行が良かったのか望月はそれに巻き込まれずに済み、少し離れた所から額の『肉』に皺を寄せながら奇妙な光景を見ていた。
「トイレトイレ―! 水ー!」
「ま、待ってくださいー!」
菖蒲と園部は部室を飛び出し、北廊下の先にあるトイレへと向かって駆けだした。
「あ、もう……結局何がしたかったのよ」
心配になった望月は二人の後を追うことにした。
そうして北廊下を渡る途中、望月は女教師に出会った。女教師は下校時刻を過ぎていることを望月に注意しようとしたが、彼女の額に『肉』の文字が書かれているのを発見すると、呆然として彼女に見入ってしまった。望月は女教師の不審な目つきには気付かず、「あ、もう帰りますんで」と一言告げてトイレへと向かっていった。女教師は「キ〇肉星へ……?」と心の中で思った。
その数秒後、北廊下一面に望月の怒号が響き渡った。
終