第四話 顕現するは裏の片鱗
「──巫女様!」
静寂に包まれた石造りの広い部屋。
扉から真っ直ぐに石畳の道が伸びており、道沿いには明かりを灯した小さな蝋燭が乗せられた銀の燭台が点々と存在している。それらが室内を仄暗く照らす。
壁際の床には土があり、草があり、そして白く淡い光をほんのりと纏った神秘的な花がいくつも咲いていた。
そこと石畳の道の間にはそれらを隔てるように水路が引かれており、水の流れる音が静かに部屋に響く。
そして道の先には大理石から削り出した、女神のようなモノを象った巨大な像が奉られていた。
その前で地に膝をつけ、両手を重ねて握りしめる、祈祷をしている黒髪の幼い少女。
白衣と緋色の袴を身に纏った、所謂『巫女装束』のような服装の彼女こそ、先ほど『巫女様』と呼ばれた神託の巫女である。
現在、この部屋には神託の巫女以外の人影はない。
しかし悠久の時を生きる彼女の耳には、はっきりと自身を呼ぶ誰かの声が聞こえた。
神託の巫女はゆっくりと立ち上がる。その長い髪を結ぶように毛先にくくりつけられた鈴が凛とした音を鳴らした。
それと同時に木製の扉が静かに開かれ、その奥から現れたのは修道服に身を包んだ穢れなき白髪の少女。
彼女の名はリアン。神託の巫女より授けられた洗礼名は純白。
ブランシュは、今代の聖女候補の一人である。
ブランシュの姿を目にした神託の巫女は、驚いたように微かに眉を上げた。
おそらく彼女自身の耳が捉えた声の主と、自分の下へ現れた者が異なることに違和感を覚えたのだろう。
「──よい。妾には『視えて』おる」
部屋に入ったばかりの位置で地に膝をつけて祈祷のポーズをとり、口を開こうとしていたブランシュだったが、神託の巫女による発言に言葉を飲み込んだ。
神託の巫女。彼女の目や耳は普通のそれとは異なる。
曰く、千里を見通すだとか。
そんな彼女の脳裏に映し出されるのは、それぞれを繋ぐような枷がつけられた八本の足を持つ巨大な馬であった。
ソレは広大な平野の真ん中に、突如として現れた裂け目のようなモノから顔を出した、死の具現化であった。
景色が歪んで見えるほどの紫のオーラを身に纏い、そのたてがみは天を貫くように逆立っている。
その巨大さは雲を突き抜けており、大きな山を一足に乗り越えるその足は、この聖都など塵同然に踏み潰すだろう。
神託の巫女は、ソレが放つ圧倒的存在感をその身に感じた上で一切の恐怖を感じることが出来なかった。
恐怖というモノは生きているからこそ感じられるのであり、彼女はその存在を認識した瞬間に深層心理が『死んだ』と理解した。
つまるところ彼女は一瞬の内に悟りを開いた状態へと陥ってしまったため、恐怖どころか身震い一つも見せないのだ。
彼女らに知る由もないが、彼の馬はLv1000以上のプレイヤーにのみ解放される裏世界のエリアボスであり。七色の内の一つ、紫を司る『紫皇』であった。
色を持つことが強者の証である色を失った裏世界では、皆が色を奪い合う。そんな中で紫の座に居座り続ける彼は間違いなく絶対強者であり、推奨Lvは5000である。
「──巫女様! って、リアンじゃない。何してるのよ?」
この異常事態に対する指示を仰ごうとしたブランシュだが、突然の乱入者により再び口を閉ざす事となった。
木製の扉を盛大に開け放ち、駆け込むように部屋へと入ってきたのは生命の輝きを感じるような赤い髪の少女。
彼女の名はルミエ。授けられし洗礼名は紅潔。
彼女こそ、先ほど神託の巫女がその耳に捉えた声の主である。
「……巫女様の御前です。お静かになさい」
ブランシュは自身と同じく今代の聖女候補であり、そして幼馴染であるルージュを窘めるように静かな声で囁いた。
「──神託は下っておらぬ」
ブランシュに促されたルージュがその隣で彼女に倣って祈祷のポーズをとると同時に、神託の巫女は静かに口を開く。
二人の少女は巫女より告げられた言葉に小さく頷くと、速やかに部屋を出ていった。
「──神よ。やはり貴女は何も答えてくれぬのだな」
静寂に包まれた部屋に、ぽつりと。小さな呟きが虚空に消えていった。
「──では、私は冒険者協会に緊急の依頼として早急に書状を認めましょう」
神託の祭壇を後にした二人は対応を話し合いながら、石造りの廊下を足早に歩いていた。
あの災厄がこの聖都に訪れるまでほんの数時間ほどしかないため、急ぐ必要があった。
ブランシュはすれ違う神殿騎士達に忙しなく指示をだしていたが、共に歩くルージュは何かを考えているようで少しの間黙っていた。
やがて何かを思い付いたようにルージュが立ち止まり、ブランシュはそんな彼女の行動にどうかしたのかと首を傾げる。
「──私、ちょっと行ってくる! また後で会いましょ!」
そんな彼女の意味不明な言葉にブランシュは困惑の表情を浮かべ、思考が一瞬だけ停止する。
少ししてハッとした彼女はすぐにルージュを引き止めようとするも、その後ろ姿は既に遠く、おそらく声は届かないだろう。
ブランシュは大きくため息をつき、自分がやるべき事をすべく動きだした。
「……これはルージュ殿。一体どうなされたのです?」
「ごめんっ! 今急いでるから!」
すれ違った神殿騎士を追い越して、石造りの建物内を走る赤髪の少女ルージュ。
ブランシュと別れる寸前に彼女の脳裏に浮かんだのは美しい紫の髪を持つ強き天使の姿であった。
おそらくはあの存在ならばこの問題をも解決できるであろう。と、そんな一抹の希望を胸に抱き、彼女は息を切らして走っていた。
◇
時は遡ること約半日ほど、昨日の夜の出来事。
ルージュが、紫髪の天使シエル=ヴィオレーテと初めて遭遇した時の事だ。
その日は不自然なまでに雲の一つもなく。どこまでも広がる闇が全てを包み、ほんのり赤みがかった怪しい満月だけが世界を照らす、そんな夜だった。
聖都に住む人間のほとんどが寝静まった頃、大聖堂前に並べられた十一体ある歴代聖女の像、その中の一体の前で祈りを捧げるルージュの姿があった。
彼女に祈りを捧げられている聖女の名は博藍。先代の聖女であり、ルージュやブランシュにとっては自分たちを導いてくれた姉のような存在である。
祈りを捧げるルージュは、その胸中に何とも言いがたい不安のようなモノを抱えていた。
約二週間後には聖女候補であるルージュとブランシュのどちらかが、聖女に選ばれる。
しかし、そんなことは大した問題ではない。
彼女にとっては自分が選ばれようと、ブランシュが選ばれようと、どちらでも良いのだ。
では、彼女が抱えている不安とは何なのか。
それは彼女自身にもわかっていない。
だからこそ、こうして姉の元へとすがるように訪れたのだろう。
「……お姉ちゃんが見守っててくれるから、大丈夫だよね」
長い祈りの後に小さくそう呟いたルージュは、立ち上がると少し離れた所で彼女を待っていた、数人の神装騎士を手招きで呼び寄せた。
その時、大聖堂前の広場に禍々しい魔方陣が描き出され、その中央から何かが這い出てきた。
異常を察知した神装騎士達は即座にその何かとルージュとの間に立ち、剣を構える。
やがて魔方陣は消え、そこから現れた人間ほどの大きさのモノは異様なまでの威圧感を放ち、その黒い肌や纏うものの禍々しさはまさに悪魔と形容するに正しいだろう。
『────────!』
悪魔は何か言葉のようなものを叫ぶが、ルージュ達にはそれを聞き取ることができない。
理解できるか否かではなく、人間の耳に捉えることができないのだ。
「お前達はルージュ様を神殿までお連れしろ。私がここで食い止め──」
神装騎士隊長を務める女性が前に立ち、背後の部下達への指示を言い終える前に彼女は地面に背中を叩きつけられた。
凶悪な形をした腕により、地面へと押し付けるような圧をかけられた彼女は声にならない声をあげ、大量の血を吐く。
普通の人間であれば、この時点で既に人としての原型を留めていないだろう。
彼女は幼少より特殊な訓練を重ね、その身に巫女より与えられた加護を受け、選ばれた人間しか身に着けることができない神装を纏っているからこそ人の身を未だに保っていられるのだ。
しかし。
原型を留めていられようと、一撃に耐えられるかはまた別の話である。
白目をむいて既に動かなくなった彼女を足蹴に、悪魔は邪魔だとでも言うかのように二人の神装騎士へと視線を向ける。
鋭い殺気と自身らの隊長が既に息をしていないという事実をつきつけられて恐怖に身を震わせるも、剣を取り落とすことなく真っ直ぐに視線を返した彼女達は、まさに誇りある神装騎士の姿であった。
神殿騎士の中でも更に優れた者だけがなれる神装騎士。
彼女達神装騎士は聖都全体の守護を主とする神殿騎士とは違い、重要人物である神託の巫女や聖女、及び聖女候補の死守である。
聖都の象徴とも言える存在を文字通り死んでも守り通す使命を負う彼女達は、この世界の人類の中でも上位に位置する力を持ち。その戦力は王国十三聖騎士、帝国六皇旗等と並べて数えられるほど。
そしてその隊長ともなれば、大陸中にその名を轟かせるほどの実力者である。
さて、現在ルージュの目に映るのは既に地に伏せた最高戦力。残った神装騎士達もおそらくは十秒と持たずに、地に伏せられるであろう絶望的な状況。
そんな中、戦う術を持たない彼女が選んだのは祈ることだった。
その対象が神なのか、彼女自身の憧れである聖女なのか。はたまたそれらとは別の何かなのかは彼女以外に知るすべはない。
『────フハハハハハ! 何とも脆弱ナものダナ、下等生物よ!』
この世界の人間の最高戦力の一人を足蹴に、悪魔はルージュたち人間にも聞き取れる言葉で嗤った。
たしかに、彼からすればこの世界の人間は正しく下等生物なのだろう。
この世界の人間であれば、だが。
突如、雲の一欠片も見当たらない夜空を、ばちばちと空気が弾けるような音が駆けた。
ルージュの祈りが届いたのか、それとも偶然なのか。
神の裁きとも言えるような紫色の光を纏った巨大な雷は、一人の女性を足蹴にした悪魔へと降り注いだ。
強烈な光に神装騎士達は目が眩み、視界が戻るまでの少しの間は何も見えないだろう。
しかし、目を閉ざして祈りを捧げていたルージュは目にしたのだ──。
六つの翼を持つ、紫髪の天使の姿を。
「──少女よ。この時間に図書館は開いているだろうか」
非常に綺麗な状態ではあるが、既に死んでいる悪魔だったモノの上に立つ紫髪の天使シエルはルージュへと問いかけた。先ほどまでそこに存在していた脅威など、まるで気付かなかったかのような言葉で。
突然起こった事象に、頭の中での処理が追い付かなくなったルージュは声の出し方がわからなくなり、首を小さく横に振ることで精一杯だった。
天使は少しばかり考えるような素振りを見せた後、遥か天空へと羽ばたいていった。
月光の照らす夜空に、天使の足跡のような光の粒子が道を作り出した。
そんな幻想的な光景にどこか夢を見ているような感覚へ陥ったルージュは、闇に浮かんだ天使の小さな落とし物を呆然と見ていた。
彼女が目で追っている白く淡い光を纏った羽根はひらひらと宙を舞い、やがて地に倒れ伏した神装騎士隊長の胸の辺りへ溶け込むように消えていった。
「────っは! はぁ、はぁ……。私は、生きているのか……?」
少しして、先ほど命を失った筈の彼女が飛び上がるようにして起き上がった。
通常ではあり得ないような現象を目の当たりにしたルージュは、やはり悪魔出現の辺りから夢でも見ているのではないかと思い直し、自身の頬を引っ張る。
「……夢じゃない」
そう、天を見上げながら呟いたルージュは、駆け寄ってきた神装騎士達に連れられて神殿への帰還を果たすのであった。
「ねぇ聞いてよブランシュ! 私、天使様を見たのよ!」
「へぇ……、それは良かったですね。ところで、反省しているのですか……? こんな時間に勝手に外出したこと」
「あっ! 信じてないでしょブランシュ! ……って、ちょっとそれは待ってごめんなさい! 反省してるからぁ!」
「貴女にはお仕置きが必要なようですね……」