宿場の女医
第一太陽が沈み、第二太陽が真上から街道を照らす頃、ようやく六蔵は宿場を見つけた。この星の時間で丸々一日半かかったことになる。助けた少年はまだ目を覚ましていなかった。見た目は安定しているが、一刻も早く医者に見せた方が良いと六蔵は考えていた。
宿場には街道を挟んで両側に五〇メートルほどに渡って店が軒を並べていた。食糧や生活品などの旅の必需品を売る店が大半で、ほかには燃料スタンドと宿屋が一軒ずつあった。どの建物も煉瓦を積んだだけの簡素なものだ。
宿屋は中年の女将と二人の下男で賄っていて、客はなかった。六蔵は料金の一番高い部屋を取った。
六蔵がホバークラフトから木樽を出したまでは良かったが、未だ意識の戻らない血で汚れた少年を担ぎ出すと、女将は顔を顰めた。
「怪我人かい? 困るねぇ」
「この宿場に医者はいないか?」
「いるにはいるよ」
女将は、そんなことを言ってるんじゃないよ、と言わんばかりに続けた。
「それより、最初から二人だと言ってくれないと困るよ」
「部屋は一つでいいんだがな」
「でもねえ……」
六蔵は苦笑した。女将は二人分の料金で請求したいのだ。最初からそうと分かっていれば、部屋は一つでも二人分必要だと告げたのだろう。
これが単車の客なら強気に請求するところだろうが、六蔵はスポーツタイプのホバークラフトでやって来た。あまり欲張ってキャンセルでもされたら、一人分さえ逃すことになる。加えてお金を落とす客を怒らせたと、他の店子から文句が出るのは間違いない。それで女将はいじいじしているのだと六蔵は察した。
「部屋は一つでいい。だが、泊まり賃は二人分払おう」
女将の目が輝き、言葉が丁寧になる。
「本当ですか? あの部屋の料金で二人分ですけど?」
女将は抜け目ない。
「それと……水は別料金になりますよ」
「構わんよ。その代わり、すぐに医者を呼んでくれ」
「わ、分かりました。おい」
女将は六蔵には愛想良く、下男には厳しい声を掛け、すぐに医者を呼びに行かせた。
六蔵は前金で二日分の泊まり賃を払い、下男の荷運びを断って木樽を担ぎ、少年を抱きかかえた。手持ち無沙汰になった下男は女将の鋭い視線から逃げるように六蔵を部屋へ案内した。最高級とは言え、ワンフロアにテーブルとベッドが一台ずつにイスが二脚。それにトイレのついたユニットバスがあるだけだった。窓は一つで、さすがにガラスは紫外線遮光シールが張られていた。床は壁面と同様煉瓦が敷き詰められている。
六蔵は少年をベッドに寝かすと、案内してきた下男にチップを握らせ、下がらせた。すぐに木樽が尋ねた。
「少年はどうしている?」
「まだ目を覚ましません」
少年の呼吸は規則正しいが、依然として目は閉じられたままだった。
六蔵が木樽を下ろした時、合板の戸が遠慮がちにノックされた。
「開いてる」
声をかけると、もう一人の下男が顔を覗かせた。
「医者を連れて来ました」
「入ってもらってくれ」
下男は頷くと後ろに下がり、代わりに鳥打帽を目深に被った背の高い短白衣姿が戸口に現れた。六蔵が問い掛ける。
「医者か?」
短白衣は頷くと、「邪魔するよ」と後ろ手に戸を閉め、部屋に入ってきた。手足がひょろりと長く、白衣から覗く腕は日に焼けて褐色だ。左手には大きな革鞄を下げている。
その声を聞いた六蔵がさらに問い掛ける。
「女か?」
それには答えず短白衣の医者はベッド際へ進んだ。
「この子?」
「そうだ」
「何があった?」
「どこかの兵士に追われていたのを街道で拾ってきた」
街道での出来事を六蔵は大まかに説明した。終わると医者は鳥打帽を取った。隠れていた栗色の髪が広がり、肩の高さで落ち着いた。腕と同じ褐色の顔は目鼻立ちが整っていて美しい。太い眉を少しだけ上げて六蔵を見つめると、
「この宿場で医者をやってるカハクだ」と名乗った。三〇歳前後だろう。
「俺は六蔵。小僧の名前は知らない」
カハクは革鞄から診察器具を取り出し少年を診始めた。途中でその表情が険しくなり、診察も心なしか入念さを増した。捲り上げた少年の衣服を元に戻すとカハクは言った。
「大きな怪我はない。内臓にも問題はなさそうだが、気になることがある」
六蔵は自分の頭を指差した。カハクは驚いたように目を見張った。
「知っていたのか?」
「腫瘍があるらしい」
カハクが小さく唸り、微かに目を伏せた。
「やはり。瞳孔反射や皮膚感覚に異常があったものだから、もしやと思ったのだが……」
「助かるか?」
「詳しい検査をしてみないと分からないが……」
難しい顔で宙を睨んでいたカハクが、何かに気付いたのか、急に早口で言った。
「ちょっと待て。六蔵と言ったな。あんたはどうしてこの少年の頭の中に腫瘍があることを知っている?」
「どうしてと言うと?」
「名前も知らないのだろう? 本人から腫瘍のことを聞いたとは思えんのだが」
六蔵は、内心で舌打ちした。不味い展開になったと思った。このまま自分が言葉を詰まらせていれば、凍姫は必ずや自分の見立てだと名乗りを挙げるに違いない。それも得意になってだ。
そう言う性格なのだ……
今ここで凍姫の存在をカハクに明かしても良いのかどうか、六蔵は判断に迷った。
六蔵は何とか言葉を繋ごうとしたが、却って何も浮かばない。それでもどうにか、「それは、」と口を開くと、同時に二方向から声が聞こえた。
一つはもちろん木樽からで、「わらわ」と言いかけた。しかし、木樽の声よりも大きな呻き声がベッドから上がり、六蔵の声共々掻き消した。
「ううっ……」
カハクの視線が六蔵を離れる。六蔵は胸を撫で下ろした。どうやら木樽の声は、カハクの耳に全く入らなかったようだ。
「目を覚ましたぞ」
カハクの声に誘われて六蔵もベッドの脇へ行った。カハクが覗き込む先には少年が薄っすらと目を開いていた。焦点は合わずぼんやりしているようだが、カハクが声を掛けると、くぐもった声で言った。
「こ……ここは、どこ……」
「街道の宿だ。安心しなさい」
六蔵に向けられるのとは違う、穏やかな声でカハクが言うと、少年はしばらくじっとしていた。その間にカハクは革鞄からアンプルを一本取り出し、浸透注射器に装填した。それを少年の首筋に押し当てると、「痛くないからね」と断り、ゆっくりと薬液を注入した。
程なく少年は目を大きく開いた。
「あなたは、誰?」
「私はカハク。この宿場の医者だよ」
「ぼくは、どうしてここにいるの?」
「それはね。この人が運んでくれたんだ」
カハクはちらりと六蔵を見て、促した。六蔵は黙って一歩近寄って顔を見せた。少年の表情が緩む。
「おじさん……助けてくれたんだね」
「成り行きでね」
「ありがとう。でも、あの……カプセルは……」
自分が乗っていたホバークラフトの積荷だと気付き、六蔵は首を振った。
「蒸し焼きになっちまってた」
少年は悲しげに目を伏せて、「だめだったんだ」と呟いた。
カハクの肘が六蔵を突付いた。
「カプセルとは何だ?」
「冷凍保存用カプセルだ」
六蔵が説明する。
「冷凍保存用……」
カハクは心当たりでもあるのか、口の中でぶつぶつと繰り返した。
「保存用カプセル、兵士、子供……」
「どうした?」
六蔵が横目で尋ねるとカハクは厳しい目を少年に向けた。
「君は肉屋から逃げてきたのね?」