雨(あめ)のち晴(は)れた。
カーテンを引き寄せ、窓を開けると、夜の暗闇に右手をおそるおそるのばします。見上げる壁の時計は、午後8時を指していました。
「はぁ……」
ハヤトは、空から雨つぶを探してみたのです。1日続いた雨は、さっき塾からもどるまで、止まずにいたはずでした。
「行ってくるから」
「気を付けてね」
お母さんに声をかけると玄関を出て、目の前の歩道の、街灯が照らす場所までやって来ました。
「寒ぅ。やっぱ上に着てくりゃ良かったよ」
10月が終わるころ、この町は日に日に冬のけはいがしてきます。
白い息を吐きながら、ジャージ姿のハヤトは、いつもの体操を始めます。そして、体が温まったころに、腕の時計を確かめながら、歩道を走り出しました。
中学三年の今年、野球部の部活動を7月に引退して、それから月水金の週に3日、塾から帰って3キロのランニングを始めました。
しかしこのごろは、疲れていたり眠かったり「雨が降れば休めるのに」などと、つい思ってしまいます。自分で決めた事だから、いつでも好きに休めるはずが、なぜだか、家族で決めた約束のように感じます。それはハヤトだけじゃなく、お母さんもお父さんも妹も、みんながそんなつもりでいるようでした。
「はっはっすー、はっはっすー」
最初の1キロ地点は、スーパーの有る角から国道をわたって少しのところ。りっぱな車庫と、大きな石の有る庭が目印でした。
「何だ?」
見えてきたスーパーの壁は、赤い光が渦を巻いて、そこには人影も見えます。近づくと、光の正体はパトカーの屋根のライトで、起きたばかりの交通事故だとわかりました。
なぜだかひっくり返った車と、それをはさむようにパトカーが2台。ハヤトのわたる交差点が、割れたガラスでキラキラとかがやいて見えました。
警察官が、交通整理をしたりだれかに話を聞いたりしています。車道では、車が長い列を作り、見物人も見る見るうちに増えました。すると遠くで、救急車の鳴らすサイレンの音がしてきます。
「これじゃあ、いつまでもわたれないよ」
ハヤトは仕方なく、向こうに見える信号の横断歩道を目指すことに決めました。
「あそこまで、200メートルぐらい? 往復したら400かよ!」
国道をわたると引き返し、集まる人に揉まれながら、やっとりっぱな車庫と、大きな石の有る庭を通過しました。
ところが、このあと急に、ハヤトはコースを変えてしまいます。
「今日は遠回りをさせられて、タイムも参考にならないし、そろそろもどればちょうどいいはずだよ」
選んだ道は、急に暗い路地でした。おまけに舗装がつぎはぎで、何度もつまずきそうになりました。
「なんだよ。この道!」
すると今度は右足が、「ベチャン」と水たまりを踏んづけます。
「冷たっ! 一生この道走らないからな」
そのあとも、ネコが目の前を飛び出してきたり、イヌの散歩とはちあわせしたり。
「ワンワンワン」
「わぁー」
「あらちょっと! ごめんなさい」
「はっはっすー、はっはっすー」
たまらずため息をつきそうになり、あわてて呼吸を整えました。
道を右や左に遠回りして、国道の、さっきわたった横断歩道へもどることが出来ました。信号を待つ間、足ぶみしながらなんとなく、まだいた人だかりをながめていたのです。
「ハヤト君だよね。二組の」
「ああっ〈はやしばらユイカ〉……」
クラスが四組の、前からすごく気になる女子でした。部屋着の上に綿入れ(わたいれ)を着て、髪が少しぬれて見えました。ハヤトは、シャンプーの良い香りがしたような気がします。
「あの事故のせいよ。もう、がっかり」
おいしいパンを売る店の、閉店時間がせまり、あわてて車で向かおうとしたのに、道が渋滞していて間に合わなかったことや、それで仕方なく、コンビニへ歩いて何か探しに行くことが、よほどくやしかったのだろう。初めて口をきくハヤトをつかまえ、聞かせていたのです。
「トレーニング? がんばってね」
「ああ。じゃあ」
信号が青に変わり、ハヤトは、うしろ髪を引かれる思いで走り出しました。
「はやしばらの家って、今来た道にあるのかな。またここを走れば会えるかも……よっしゃあ!」
家の前までもどると、お父さんが外で待っていました。
「おそかったっしょ」
「はぁはぁ、スーパーの前で事故あってさ! それで」
ハヤトはそう言うと、深くため息をつきました。しかしそれは、横断歩道で別れぎわ、のぞいた笑顔が忘れられずにいたからです。
「いやーまいった」
(終わり)