学年一のイケメン
ツバサが男?なんで?
「何きょとんとしてるの?授業に遅れるよ」と言ってツバサは私の頭をくしゃっと撫でてから通り過ぎて行った。
驚いている私に対して、ツバサはいつもの口調で、いつものしぐさだった。
そう、何も違和感はなかった。ツバサが男だというその点を除いては。
でも、その一点だけで世界は全く違っていた。太陽がない世界とある世界ではきっと何もかもが違うように、とにかく全く違っていた。
人づきあいが苦手な私にとって、ツバサはいるだけで心強い存在だった。でも、男のツバサは私にいつものような安心感を与えてくれなかった。女のツバサが美少女だったこともあり、男のツバサも少したれ目なのがかわいい、美少年と呼べそうなイケメンだった。しかし、今それはどうでもいいことだった。
私は物静かにパニックになりながら、教室に向かった。
教室はいつも通りの風景だった。でも、そこにいつも来るはずの女のツバサがいないだけで、今日一日誰と話をしたらいいんだろうと、真剣に悩んだ。悩む点はそこではないだろうと言われるかもしれないが、女子高生にとって、教室でどのように振る舞うかは、他の人生全てと同等と言ってもいいくらい重要なことだ。多分みんなそうだと思う。
私は戸惑いながら授業が始まる前の予鈴が鳴り響く教室に入り、教室の前の方に席があるツバサの方をちらっと見た。
やはり男だった。
目まいがしそうになってふらふらしながら、私は教室の中央やや左の自分の席に向かった。昨日までは中央やや右だったけど、それは全く気にはならなかった。今や右と左が逆転していることは、私にとってどうでもいいことだった。席の上にカバンを置こうとした時に、前の席に座っていたタナベさんという女の子が私に親しげに声をかけてきた。
「ユキちゃん、おはよ」
私はまたびっくりした。
タナベさんとは、数回話をしたことがあるけれど、さほど仲がいいというわけではなく、ましてや下の名前で呼ばれたことなんて一度もなかった。・・・少なくとも昨日まで私がいた世界では。
声をかけられて何も返事をしないのでは感じが悪いと思われるかもしれない、という一心だけで私は返事をした。
「おはよ、タナベさん」
その瞬間、タナベさんは「ん?」という表情で少しびっくりしていた。
「えー、なにー?タナベさんって。そんな呼び方しないじゃない?どうしたの?」
とまばたきを何度かするタナベさんに対して、何か返答しないとと思い、
「へへー。なんちゃってー。」と私はとりあえずその場をごまかした。
「なーにー、それ?」と彼女が言った辺りで、数学のヤマノベ先生が教室に入ってきたので、彼女は
「また後でね」と声を出さずにパクパクと口で言いながら、振り返って前を向いた。なんとかこの場はごまかせたようだ。
でも、昨日までの私はタナベさんとそんなに仲良くなかったので、彼女をなんと呼べばいいか分からなった。
しかも、タナベさんは大人しく、クラスメイトに無関心な雰囲気で、教室では本ばかり読んでいたから、下の名前も、他の人からの愛称も知らなかった。
教室で人とあまり話しないのは私も同じなので人のことは言えないが、よりによってタナベさんとは、と私はハズレクジを引いてしまったような気になった。
次の休み時間になったらなんて呼ぼうかとばかり考えていて、数字の授業なんて全く耳に入ってこなかった。
少し苦手な数学だから、本当はしっかり聞いておかないとすぐに取り残されてしまうかもしれないけれど、今は真剣にそれどころではなかった。
私必死に名前の手がかりになるものが何かないか、後ろの席からタナベさんの机の周辺を探した。でも私達が小学生ならともかく、私達は高校2年生なのだ。
下の名前どころか、苗字が書かれているものさえ見当たらなかった。
授業が終わる10分前に私は重大な決心をした。下の名前を知らないから下の名前で普段読んでたらもうアウトだ。その可能性はもういさぎよく捨てよう。ここはもう上の名前での愛称に賭けるしかない。
私はタナベさんの愛称を「なべちゃん」にしようと決めた。
もしかしたら、今までの人生で一番手に汗握る決断かもしれなかった。
他にも候補はあったけれど、決め手になるものが何もなかった。だから私は後は決断しかないと心を決めて、授業の終わりを待った。
授業の終わりのチャイムがなった。ヤマノベ先生はいつものように話の途中だけどチャイムを聞いてそそくさと話をまとめて授業が終わった。
心臓がトクントクンと音を立てているのが聞こえるような気がした。辺りが静かになったような気がした。声をかけるタイミングだと思った。
その時だった。
廊下側からツバサが「ユキちゃん、ナッちゃん次の移動教室先に行っててー」と声を掛けてきた。
タナベさんは私をちらっと振り返ってから、ツバサに「はーい」と返事をした。
危なかった。
その反応からタナベさんはどうやら「ナッちゃん」と呼ばれていると分かった。いつも移動教室の時は3人で移動しているのだろう。ーー自分のことなのにいちいち推理力を働かせないといけないのが、とても不思議だ。ーー
私はさりげなく彼女が「ナッちゃん」であることを確認した。少し緊張しながらタナベさんに、「今の授業難しかったねー」と言った後に小声で「ナッちゃん」と付け足した。自然にタナベさんから「そうだねー」と返事が返ってきたので、「ナッちゃん」で間違いなさそうだった。
ツバサが先にタナベさんの名前を呼んでくれたおかげで、私はなんとかこの窮地から逃れることができた。男友達と話をしているツバサがその瞬間、私には天使のように見えた。
その天使の横を「先に行ってるね」と声をかけながら私とナッちゃんは通り過ぎ、教室を出て次の授業の教室に向かった。
良かったと思って安心したら、少し冷静になったのか、また時々左右入れ替わっているものに気づいた。
廊下、トイレ、曲がり角
少しづつ左右入れ替わっているのに、逆の曲がった先にちゃんと教室があったりして、「ちゃんとつじつまがあってるんだなー」と、すごく感心した。
廊下で学年一のイケメンの羽柴くんとすれ違った。確か「大人しいタナベさんも羽柴くんのファンの一人だ」という噂があったのを思い出した。
私はタナベさんとの話題に困っていたこともあり、軽い世間話のつもりで、
「羽柴くん今日もさわやかだねー」とナッちゃんに言った。
ナッちゃんはまたもや意外な反応をした。
「羽柴くんって言うんだ。顔見たことあるけど名前は知らなかった」
「え?羽柴くんて学年全員が知ってるんじゃない?」
「そうなの?どうして?」と不思議そうにナッちゃんは言った。
その雰囲気から見て、わざと知らないふりをしているわけではなさそうだった。
「え?学年一のイケメンだし」
「えー?学年一のイケメンは、ツバサくんじゃない?確かにさっきの男の子もイケメンだけど、ツバサくんにはかなわないんじゃない?」
驚いても不自然だから、驚かないようにして返事はしなかった私に対してさらにナッちゃんは
「ユキちゃんはツバサくんと幼なじみだから気づいてないかもだけど、ツバサくんかなり人気あるよ。上級生にも下級生にも」と言った。
どうやらこの世界では、男のツバサが学年一のイケメンらしい。
昨日までの世界で学年一だったイケメンが霞んで無名になるくらいのイケメンらしい。