6-04
嵐が、近づいていた。
いつしか双月も、星も、曇り空の向こうに隠れている。
暗雲が渦を巻いて唸り、潮風がざわざわと木々を揺らし、ジュドウの頬を撫でる。
遠い空から、雷電竜の甲高い鳴き声が響き渡った。
切りつけるように吹きすさぶ風の中を、ジュドウは黙々と二輪を漕ぎ続けた。
この後に剣風の中へ身を置くことを思えば、気にもならない。
砂浜を行くことしばし。
風鳴りと潮騒が混じり合って判別がつかなくなる頃、ジュドウは彼の姿を認めた。
暗夜の中にあっても色鮮やかな空色の上衣――アルブレヒト=プティパ。
彼もまた、ほぼ同時にジュドウの接近に気付いたらしい。
鍔広帽子を取って掲げ、親しみを込めて振っている。
「やあ、ジュドウ君。ここだ、ここだ!」
その態度は、友人と待ち合わせをする時の気安さだ。
油断――いや、彼にとって、それこそが真実なのであろう。
「生憎の天気になってしまったが、いや、君が来てくれて良かった。
君の義理堅さに心からの感謝だ。待ちぼうけでは格好がつかないのでね」
ジュドウは、一〇フィート(約三メートル)の間隔を空けて止まり、二輪を降りる。
ざわざわと風が砂粒を巻き上げながら抜けていく。
と、それに混じって、アルブレヒトから何かが放り投げられた。
ジュドウが造作も無く受け止めたそれは、木栓の嵌った磁器の瓶であった。
「後悔はあまりにも遅くやって来る、というからね」
アルブレヒトが歯で栓を噛み締めて抜くと、潮臭の中に仄かな甘さが混じって広がる。
ジュドウもまた、彼に倣って瓶を開封する。中に詰まっていたのは、葡萄酒だった。
「君と飲み明かす機会なぞ、もはや二度とあるまいから」
一口でも飲めよという彼の言葉を、ジュドウはわかったわけではないだろう。
だが彼は疑いも躊躇いもなく、その葡萄酒を口へ注いだ。
噎せ返るような酒精の味に苦労しながらも、一口を飲み干す。
「実のところ、僕は大した人間じゃあないのだ」
彼は葡萄酒を煽るように飲みながら、唇の端を吊り上げて笑った。
「故郷を飛び出し冒険者となり、夢破れて路地裏に転がっていたような男でね。
恩だ奉公だなぞと言える身でもないが、ご婦人のお願いくらいは叶えたいのさ」
アルブレヒトは、空になった瓶を背後へと放る。
ジュドウは木栓を締めて、瓶を砂浜へと置いた。
二人は、それから一言も喋らず、長く互いの顔を見やった。
公爵領から遠く離れた辺境の男と、異邦の青年とは、どちらともなく頷きあう。
「やろうか」
そう言って、アルブレヒトは優雅な動きで突剣の鞘を払った。
応じて、ジュドウは靴と靴下を脱ぎ捨てた。素足で、砂浜を踏みしめる。
そうしてから、彼は真っ直ぐに対手を睨み、深く頭を下げた。
対して、快男児は鍔広帽子を脱帽し、優雅に一礼を返す。
ジュドウが常通り、堂々と天地に腕を構えた。
アルブレヒトが第四の構えを取る。
左手を優雅に上げて体勢を保ち、右手の切っ先を真っ直ぐに相手へ突きつけるのだ。
ぽつりと、一点。砂浜に滲むようにして、雫が垂れる。
最初の一滴が砂浜に落ちると、後は止めどがなかった。
天から雨粒が矢継ぎ早に降り注ぎ、二人を黒く塗り潰していく。
瞬間、先んじてアルブレヒトが動いた。
「ふッ……!」
鋭い発声と共に踏み込み、突剣が繰り出される。
応じて、ジュドウ。掻い潜るように前へ出て、腕を伸ばし、捉えんとし――……。
不意にアルブレヒトの脚が不可思議な動きで砂を踏み、斜め前へ進んだ。
ちょうど雑踏の中、肩がぶつかるのを避けるよう、互いにすれ違うように。
血が、雨飛沫に混じって散った。ジュドウの顔が苦悶に歪む。
交差するその刹那、捻り込むように大きくしなりながら、突剣の刺突が放たれていた。
彼我の立ち位置は、先と真逆に入れ替わる。
違いは一点。ジュドウの真白い道着の左肩に、朱色が滲んでいる。
分厚い帆布でなければ、肩の筋をやられていただろう。彼は幸運だった。
痛みに堪えるように彼の右手がほんの一瞬、反射的に、肩へと伸びた。
その隙を逃さず、アルブレヒトは無慈悲に突剣を繰り出していく。
ジュドウはその剣戟の直中へ、真っ向から飛び込んでいった。
アルブレヒトは無心である。
彼は何も思わず、何も考えなかった。剣が彼であり、彼が剣であった。
彼はジュドウの武術、その理を朧気ながら理解しているらしかった。
ジュドウの技は相手の動きを掴み、受け流すことから生じている。
ならば間合いに入るものを尽く突き通すのみ。
決して捉えられる事のない、極まった速度こそが彼の技を貫くのだ。
アルブレヒトの一突き毎に、ジュドウは死を想った。
暗黒の中に明滅し飛来するものを、ジュドウは懸命に払いのける。
全ての攻撃が必殺である以上、一瞬が一生ほどの価値を持った。
アダンとの攻防が術と術の戦いならば、これは魂魄の戦いであった。
あの時に死力を振り絞ったジュドウは、今度は全霊を尽くさねばならなかった。
水煙の中、ジュドウの口から白く呼気が昇る。頻度は浅く、早い。
全身は突剣で抉られ、痛む箇所が余りに多いせいか、何も感じなくなりつつある。
耳元で風が唸りを上げて吹きすさび、雨と、波と、己の息と、音の判別がつかない。
容赦なく肉体を叩く雨粒は、熱と共に体力を奪い去る。
果たして、先の葡萄酒は本当に語らいの為だけであったのだろうか。
ジュドウには、アルブレヒトの動きは刻を置くごとに早まっていくように思えた。
酒精のおかげであろう。彼は豪雨で身体が冷えることを、見越していたに違いない。
ジュドウは、自分が紙一重で生きながらえている事をわかっているつもりだった。
そこには恨みもなく、恐怖もなく、後悔も、悔しさもなかった。
嵐の海に落ちて死んだのだから、嵐の海で死ぬのは道理だろうとさえ思えた。
――ああ、と。彼は息を漏らす。
汚れるとわかっていたのだから、仕立てられたばかりの服を着るのではなかったか。
ジュドウは、そんな間の抜けた事を考える。
雨の帳の向こうで、ゆらりと突剣の切っ先が揺らめくのが見えた。
アルブレヒトが、呼吸を整えている。
その時。
「ジュドウ――――ッ!!」
それは、悲鳴のような叫びだった。
ジュドウの意識の中に、その声が鮮烈な輝きを放って飛び込んできた。
雨と涙とで顔を濡らした少女が、転げるようにして砂浜を駆けて来る。
雷電竜の鳴き声。稲妻の煌き。海の波涛。豪雨。飛沫。その一滴。
ジュドウには、あらゆる要素が噛み合い、混ざり、一つとなったように思えた。
それは術理によって導き出される、ただ一筋の道だった。
その道へ、骰子が転がっていくのを感じた。
思うよりも早くジュドウの素足が地を蹴り、跳んだ。
紫電が走る。
アルブレヒトの、稲妻の如き速度で繰り出される刺突。
刹那、雷光の、真白い輝きの中、ジュドウの両手が天地を掴む。
それは即ちアルブレヒトの襟元、そして突剣であった。
「む…………ッ!」
アルブレヒトが呻くように声をあげ、剣を抜かんと身を引いた。
しかし親指と掌でしっかと抑えこまれた突剣は、びくともせずジュドウの手中にある。
そこへジュドウはすかさず、体ごと叩きつけるようにして押し込んだ。
押さば引け。引かば押せ。
二人は濡れた砂を蹴散らし、砂浜を走った。
鍔競り合う刃を越えて、アルブレヒトと目があった。ジュドウは、笑った。
元より雷雨の最中に海へ落ち、死んだものと思った自分だ。
それが如何なる幸運によるものか異邦に流れついて、命を得た。
言葉も通じず右も左もわからぬ中、人に恵まれ、救われた。
さらには魔術師との術理の限りを尽くした、胸躍る戦い。
そして――……。
まさしく夢幻のような一時だった。
だからこそ、彼は、逃れることはできない。
これが、今いる状況が、この奇想天外な境遇が、現実であるのならば。
このまま死んでしまうとしても、これこそが己の人生なのだ。
理解の埒外にある事が次々起こる中で、唯一つ、選択権だけは己の物だ。
それだけは、どんな状況にも決して左右されない、絶対の道標だ。
ならば、己の正しいと思う道を進むのみだった。
それでどうなるにしても、それこそが自分の人生だ。
楽な道を選ぶも良し。厳しい道を行くも良し。
ジュドウと呼ばれる青年は、逃げたいとは決して思わなかった。
逃げるわけには、いかないのだ。
これを己の人生、己の現実だと、胸を張るためにも。
朦朧とした意識の中、ジュドウは無我であり、そして夢中にあった。
そして、夢とは彼女だ。
「――――ジゼーレッ!」
ジュドウの口から裂帛の気合が迸る。
瞬間、アルブレヒトは《山嵐》の直中にいた。
脚を払われたという実感も無かった。大地が消え失せたように思えた。
ごうと耳鳴りにも似た大気の流れを感じた。天地がぐるりと渦を巻いて裏返る。
雷霆の轟く中、アルブレヒトは吹き飛ばされるように、地面へと叩き伏される。
凄まじい衝撃に水と砂とが渾然一体となって、柱の如く立ち上り、散った。
――決着だった。
「ジュドウッ!!」
ジゼーレの声に、ジュドウはぼんやりとそちらを見た。
彼女は目に涙を溜め、肩を震わせながら、立ち尽くすジュドウへと縋りつく。
「目が、覚めたら、胴衣が無くなってて、ジュドウもいなくて……。
それで、外はもう、嵐みたくなっていて……だから……」
しゃくりあげるようにしながら、彼女はジュドウを見上げる。
「帰って、しまったんじゃあ、ないか、って……」
そう思って、恐怖に駆られた自分が、何よりもジゼーレには情けなかった。
彼を故郷に帰すと誓った癖をして、いざいなくなったと思うと、これなのだから。
しかしジュドウは、ふらつきながらも微かに笑って、彼女の髪を手で梳いた。
それだけで救われたように思ってしまう自分を恥じ入り、ジゼーレは俯いてしまう。
と、不意に、咳のように掠れた呻きが数度聞こえた。
砂上で大の字に転がり、全身で雨を受けながら、アルブレヒトが笑っていた。
「……参った、参ったなぁ。……いや、君は強いなぁ、ジュドウ君」
ジュドウはそっと彼の下へ近づくと、慌ててジゼーレがその後を追った。
彼女は覗きこむように対手の顔を見ると、あっと驚いたように口を抑える。
まさか、アルブレヒトだとは思っていなかったのだろう。
「ああ、グリジ卿」
酷く億劫そうに、しかし精一杯の誠意をこめて、アルブレヒトは言った。
「こんな事を言えた義理じゃあ、ないかもしれんが、良いかな」
「……ええ」
ジゼーレは、目尻をぐいっと擦り、頷く。
「バティルド嬢と、仲良くしてくれたまえよ」
彼女は、一瞬の躊躇もなく答えた。
「もちろん」わずかばかり身動ぎをし、はにかむように笑う。「友だちだもの」
「――なら、良いのだ」
アルブレヒトが、ゆっくりと目を閉じる。この雨だ。直に目も覚めるだろう。
ジュドウは彼の顔を見下ろした。
彼らは二人共、青褪め、汚れ、疲れきっていた。
しかし何処か、満ち足りたような思いであった。
身体は酷く重たかったが、心は随分と軽やかだった。
此処で生きるのだと、彼はそう思えていた。
ジュドウはよろめくようになりながら、転がしていた二輪絡繰を起こしにかかる。
「…………ッ 手伝うわ……!」
慌てて、ジゼーレがその横に寄り添う。
触れた彼の身体は酷く冷えていて、ジゼーレはしっかりと腕を回し、抱き寄せる。
そうして二人は、支えあうようにして砂浜を歩いて行く。
やがて夜も明ける頃には、嵐も過ぎ去っていた。




