6-03
『やどかり』亭の二階、窓辺からのか細い月明かりの下。
広げられたそれは、まるで絵図面のような書面であった。
丸、二重丸。その下に剣の印。海辺までを導く地図。
果たし合いの申し込みであることは、ジュドウとて容易にわかった。
丸は太陽、二重丸は月。つまり今夜、浜辺にて。
封書は上等な羊皮紙で、赤蝋の封印が施されていた。
宛名以外、差出人についてわかるような物はない。
しかし差出人を、ジュドウは理解していた。
アルブレヒト=プティパ。
確か、そういう名前であったように思う。
空色の上衣、突剣を腰に佩いた、鍔弘帽子の伊達男。
客観的に見れば、さしたる因縁のある相手ではないだろう。
二度、会話ともいえぬ会話をしただけの人物だ。
手紙を丁寧に折りたたみ、ポケットの中へと押しこむ。
ジュドウには予感があった。
避けられないだろうと、そう思っていたのだ。
大きく、息を吐く。
ジュドウはゆっくりと立ち上がると、そっと部屋の扉を開け、階下へと向かう。
今夜の酒宴も、実に賑やかだった。
何か良いことがあったわけでもないが、歌を唄い、大いに呑んで、騒いだものだ。
しかし夜も更けた今となっては、店内はしんと静まり返っている。
料理の皿、空になった盃、瓶が散らばる中、幾人かが酔い潰れ、眠りこけていた。
ジュドウは、微かに笑った。
彼はまず、厨房で椅子に座ったまま眠っている、ベルスに対して一礼をした。
彼女がいなければ、自分はこの地で衣食住を手に入れることは困難であったろう。
続いてテオフィルと、窓の外のゴーティエに一礼。
思えば彼ら二人は、この地について初めて得た友人であった。
店の片隅、椅子に深く腰掛けて寄り添うように眠るアダン、ミルタに一礼。
彼らと知己を得られたのは正しく奇縁によるものだ。貴重な出会いだ。
そして――――……。
「……ド……ゥ……」
円卓に突っ伏すような形で、彼女は其処にいた。
手元には、裁縫道具。そして一着の胴衣。
酒宴の後も縫っていたのだろうが、片付ける前に睡魔に負けてしまったようだ。
帆布で出来たそれは飾り気が無く、しかし丈夫である。
拙いながらもしっかりとした縫い目は、彼女の性格と想いの表れだった。
そして左胸には真紅の糸が、丸く縫い取りされていた。
ジュドウは、それを信じられない物を見るように眺め、そっと撫でた。
ジゼーレは、何か、紋様の類を作ろうと試行錯誤していたのだろう。
赤い背景に、例えば雷霆とか、竜だとか、家紋らしきものを。
しかしその過程――決して完成品ではないそれは、ジュドウに太陽を思わせた。
それが自分の物である、と思うのは……自惚れであろうか?
「行くのかね?」
不意に、闇の底から響くような声があった。アダンである。
眠っているとばかり思っていた死人占い師が、暗がりからジュドウを見ていた。
「死とは長い眠りのようなものだ。私は最早、眠る事はないのだよ。
わかっていると思うが、行けば戻れんぞ、君は」
驚いたように顔を硬直させる彼へ、アダンは乾いた笑い声を漏らす。
「何も負けると言っているわけではない。勝負を超越した、その上だ。
天上の指し手は、より盛り上がるもの、盛り上がることを求めるだろう。
なにせ私が前座だ。彼を乗り越えても、次は竜、悪魔、或いは――…………」
アダンは言葉を区切り、ゆるやかに首を横に振った。
「私は、まあ、わかっていて再び『盤』に降り立った身だ。
だが、君はまだ、自ら選んだわけじゃあない。『駒』にならぬ事もできる。
違う『マス』に身を置く事もできようさ。今ならな。だが、待ったは無い」
それは死人占い師の、己が探求に身を捧げた男の、心からの気遣いだった。
言葉はわからずとも、それくらいはわかる。伝わる。理解できる。
ジュドウは目を閉じて、ゆっくりと息を吸い、吐いて、瞼を開けた。
どうするかは、もはや考えるまでもない。
彼は、そっとジゼーレの傍から、その白い胴衣を手にとった。
ジュドウはぎゅっと唇を噛み締めると、ジゼーレの胴衣に袖を通す。
誂えられたそれは、シャツの上からぴったりとその体躯を覆った。
釦もつけられていない為、前を閉じるのに必要なのは、帯だ。
迷いは無い。
彼は自分の物入れを探り、それを取り出して、しっかりと前で締める。
あの時ジゼーレから託された彼女の腰帯。
黒帯を。
ジュドウは笑った。
これで良いという笑いだった。
それが、彼の答えだった。
「……そうか」
灰衣の死人占い師の眼窩に灯った鬼火が、眩しそうに細まった。
その手が燃える炎の瞳が輝く杖を手繰り寄せ、複雑に印を結ぶ。
「若き異邦人よ。君の骰子が、良い目に転がる事を祈る」
ジュドウは頷いて、最後にもう一度全てを見回した。
ベルスを、テオフィルを、ゴーティエを、アダンを、ミルタを。
そして最後に、彼女を見た。
ジゼーレ――卓の上に突っ伏すようにして眠る、黒髪の少女騎士。
別れは告げた。もうこれで良い。
ジュドウは静かに扉を開けた。途端、唸るような風が吹き込んでくる。
足早に彼が外へと踏み出し、残された酒場の中で、アダンは深く息を吐いた。
「……さて、私の手は打った、が」
「ジュドウ様の事を仰られているのですか?」
ふと主が呟いた言葉に、乱れた神官衣を正しつつ、ミルタが椅子の上で身を起こした。
闇の中で煌めく鬼火のような瞳が、何処か陶然としたようなミルタの顔を照らす。
「まさに」
我が意を得たりと、アダンは満足気な様子でゆっくりと頷いた。
「まったく……。先刻の忠告もまるで無視して、ジュドウ様に胴衣を渡してしまうなんて」
「そう言うな。男というのは単純なもので、士気が昂ぶるのだよ」
アダンの歯がカタカタと鳴っているのは……笑っているのだろう。
「さて、彼の登場は、果たして天上の指し手どもが意図した事なのかどうか。
もしそうでないのなら、連中の棋譜は大層に乱れ狂う事であろうよ」
「意地の悪い……」
神々を嘲るような言葉に、ミルタはそっと眉を潜めて呟く。
もはや信仰などあってないようなものだが、彼女は女僧侶であった頃を忘れていない。
だが、アダンはそれに頓着しない。
元より彼にとって神々とは、対等なる者だ。
「チェスの場合、駒の数は決まっている。盤から減りこそすれ、増えることは無い。
だが何かの間違いで、新たな駒が打たれてしまったら、どうなるだろうな。
それもチェスではなく……例えば、双六か何かの駒が、だ」
「それでは、遊戯にならないではありませんか」
「まさにだ、ミルタ」
「…………あら」
不意に死人占い師の骨ばった腕に抱き寄せられ、舞姫の女王が娘らしく頬を染める。
アダンは、心からの喜びと信愛を込めて、笑った。
「――まさに、『盤』狂わせという奴だな」




