6-02
「あの顔の相を見る限り、この『マス目』辺りの者でない事は確かであろう」
アダンは杯を掌中で回しながら呟いた。赤いぶどう酒が、ぐるりと波打つ。
「いつだったか探索を共にした蛮族の猛者に、やや似ている気はするがね。
彼は剣一本で冠を勝ち取るに至り、玉座を踏み躙り、詩にもなったものだが……」
太古の昔、彼が繰り広げた数々の冒険譚、巡りあった英雄達。
死人占い師は鬼火のような目を細めて、遥か遠い過去へと意識を飛ばす。
「はい、お待ちどう様!」
その目前へ、ベルスが香ばしい匂いを漂わせる大皿を、どんと置いた。
「今日の肴は焼き藤壺ですよ!」
「ほぉ、藤壺とな」
見れば成程、網で焼かれたと思わしき、貝に似た白身が山のように盛られている。
漂う香りは海の潮のそれだ。ぷりぷりと肉付きが良く、噛むと弾けてしまいそうな程。
これは面白い。そう言わんげに、アダンは卓上へと身を乗り出した。
その様子に、ベルスはくすくすと可笑しそうな調子で声を上げて笑う。
「けどアダン様、領主様に『パンはいらない』と仰っていたのに」
「必要が無いだけであって、食べられんわけではないさ。どれ……」
骨の指先で一つを摘み上げ、興味深くその様を観察したアダン。
彼はぽいと空洞のような口内へ放り込み、あっさり藤壺を呑み込んだ。
「……ふむ。珍味の類だな、これは。悪くない」
評価は上々。
死人占い師の感想を聞いて、近くの卓にいた漁師達がわっと歓声をあげた。
彼らが取ってきたものなのであろう。アダンもまた酒盃を掲げて感謝の意を表する。
するともう、やんややんやの大喝采だ。
「やれやれ、賑やかになったもんだね、うちの店も」
夕暮れ時の『やどかりの寝床』亭は、いつにも増して繁盛していた。
これまでも決して評判は悪くなかったが、あの試合以来、客足は増えるばかり。
あのジュドウと同じ酒場で飯を食った酒を呑んだというのは、話の種になるのだろう。
それに波止場地区の人々にとって、彼と同じ場所に住むことは、それだけで自慢だ。
なにせアダンを褒めれば、彼に打ち勝ったジュドウの株が上がる。
二人の株が上がれば、彼らに魚を食わせる自分達の株が上がる。
結局、彼らの上機嫌の踏み台にされているのだが、アダンは気を悪くした風もない。
漁師たちが過去の釣果の大物比べを始めた所で、ベルスが申し訳無さそうに苦笑した。
「すみませんね、アダン様。どうにも、荒くれた奴ばっかりで……」
「構わんさ」
ぶどう酒を流し込むように煽り、藤壺を摘んで放り込みながら、彼は愉快そうに言う。
「大昔の冒険者だった頃、通った酒場を思い出すよ。あれは実に楽しかったものだ」
「そう言ってくれると助かります、けど……」
言いつつ、ベルスがじろりと視線を向けた先は、窓辺の席。
そこに陣取る、伊達かどうか、大剣を背負った冒険者だ。
「……あんた達は、冒険に出なくって良いわけ?」
「おいおい、ベルスちゃん。まるで俺ら冒険してないみたく言わないでおくれよ」
半ば麦酒を飲み干した杯で卓を叩きながら、テオフィルは不満げに言った。
ベルスは悪びれもせずに鼻を鳴らす。
「だってあんた達が依頼を請けたーなんて話、聞かないもの」
「最近はゴブリン退治くらいっきゃないし、アレは面倒くさいからなぁ」
「オラァ、アダンの旦那ンとことの使いっ走りで、十分だぁよ」
言い訳がましいテオフィルに続き、胴間声で外から応じるのは巨人のゴーティエだ。
酒場の軒先にどっかと座り込んだ彼は、ぶどう酒の樽を杯代わりに楽しんでいる。
店内に入ることはできずとも、彼とて立派なベルスの客だった。
「なあ、友だち?」
「おうよ、友だち!」
彼らは開け放たれた窓を通して顔を見合わせ、愉快そうに笑い合う。
ここ最近、二人は公爵の書簡を携え、しょっちゅうアダンの邸宅とを往復している。
危険を乗り越えている筈なのに、成長した風が見えないのはどういうわけだか。
ともあれ、今ではすっかり『やどかり』亭の常連だ。
テオフィルが窓辺の席を陣取る事に、文句を言う手合がいよう筈もない。
四六時中いるわけではないし、来るときは遠くからだって見てわかるものだ。
「……では、慣れてきた頃に、またぞろ地下迷宮の一つでも作るかね」
そんな彼らへ冷水を浴びせるように、アダンがニヤリと顎骨を持ち上げる。
「怪物に殺されたら殺されたで、私の配下に加えてやるから、安心し給え」
げっと冒険者二人が顔を引き攣らせて呻くのを見て、漁師たちが声を上げて笑った。
笑われている当人達まで、それに追従して楽しげに笑うのだからどうしようもない。
「しっかし、王様と似たような相、ねぇ……とすると、だ」
呆れたようにその騒ぎを眺めていたベルスが、不意ににんまりと頬をゆるめる。
「ジュドウは本当に王子様かもしれないよ、ジゼーレ?」
「……話しかけないで。集中できないじゃない」
返事は、店の一番隅からあった。
卓上に広がった布やら針やら糸やらに半ば埋まるようにして、ジゼーレはいた。
隣に女司祭を伴って、懸命に手を動かしながら、彼女はじろりと親友を睨みつける。
「それに彼が王子でも、何でも、私には関係ないもの」
「ほら、よそ見をしてはダメですよ」
不貞腐れたようにして更に何か言い返そうとするジゼーレを、ミルタがそっと窘めた。
彼女はその美しい指先をそっと伸ばし、ジゼーレの手に重ねるようにして導いていく。
「ええ、そう、そこで針を返して……お上手ですよ、ジゼーレ様」
「……あんまり、褒めないで下さい。大した事ないのは、わかってるから」
「あらあら。でも、お世辞ではありませんよ?」
「だから、褒めないで下さい」
照れくさそうに頬を薄く染めながら呟くジゼーレを、ミルタは柔らかく微笑んで見守る。
容姿も境遇も性格も、似ても似つかぬ二人だが、こうしていると姉妹のよう。
「ほほう、どれ、どれ。私にも一つ見せてもらおうか」
「んー……白だけってのは地味じゃあないか?」
途端、先程まで騒いでいた酔客――アダンとテオフィルが寄ってきた。
ゴーティエも窓の外から興味津々と言った様子で覗き込む。
二人が姉妹なら、周りの彼らは親戚の叔父どもだなとベルスは笑う。
――いや、とするとあたしは叔母さんか? それは嫌だなぁ。
「だって、練習だもの」
と、縫い針を動かす手を止めてジゼーレは抗議の声を上げた。
縫い合わされる途中の帆布を、形が崩れないようそっと押しのけて。
「最初から染め布を使って失敗したら、勿体無いじゃない」
「ま、それも道理だね」
彼女が殆ど裁縫をしない事を知っているベルスは、猫のような笑みを崩さない。
ミルタが窘めるような目を向けるが、ひらひらと手を振るだけだ。
なにも邪魔したいわけではない。
妹分が頑張っているのなら、応援の一つはしたいものだ。
「にしても、男物の胴衣、ね」
「ジュドウのよ」
わかっているんでしょうと言いたげに、ジゼーレは唇を尖らせた。
ベルスも、だからこそ問いかけたわけだけれど。
「彼の詰襟、ボロボロになってしまったし」
「む…………。それを言われると、私としては耳が痛むところだ」
アダンが、その髑髏の頭を撫でて言った。
骨の顔からは察するしかないが、すまなさそうな表情をしているらしい。
ジゼーレは困ったように身をすくませる。
「すみません、アダン様。咎め立てるつもりは、なかったのですけど……」
「良い良い。ま、代わりと言っては何だが、手伝いを――」
言いかけた顎が、カタカタと音を立てて言葉を途切れさせる。
不思議そうに首を傾げるジゼーレへ、ミルタが何でもありませんよと呟いた。
その声が妙に冷たく聞こえたのは、気のせいであろうか?
「手伝いを、なんですか。旦那様」
「するのも僭越だろう。なので一つ言わせてもらえるのならば、やはり、紋章がいるな」
「紋章、ですか?」
「家系云々を抜きに、我は此処に在りという証になるからな。武芸者なればこそ、だ」
「証……」
呟きながら、ジゼーレはなんともなしに、自分の胸元をそっと撫でた。
平服であるから上衣は着ていないが、小さく黒地に白の鳥が刺繍されている。
これはグリジ家の、父や祖先から受け継いできた紋章だ。
確かに、そうだ。
ジゼーレにとって、自分は何者であるかを定義するのに、大切なものの一つだった。
「ああ、見栄えや伊達ってのは大事だからな」
わかっているのかいないのか、赤らんだ顔でテオフィルが賛同する。
「やっぱこー、なんだ、ひと目でコイツだ! ってわかると、名も売れるからなぁ」
「ああ、海賊のぶっちがいとか?」と、ベルス。
「そうそう、俺のこの大剣とかな」
笑って、テオフィルは背負った剣の柄を撫でる。
伊達かどうかはさだかでないが、見栄えを気にしての装備ではあったらしい。
「で、それ使えるの?」
「伊達だぜ、伊達。中身木剣だよ」
呆れた、と呟くベルスに、彼は別に良いじゃないかと胸を張る。
「そうですね……」
ミルタが唇に人差し指をあてて、考えこむように声を漏らした。
「白地だから、青か、赤か、目の冴えるような鮮やかな色が良いでしょう」
「どうせなら竜の模様でも入れようぜ」
「もしくは、うちの看板の『やどかり』だね」
皆が口々に言う台詞に、ジゼーレは柳眉を立てた。
「もう、みんな好き勝手なことばかり言って……!」
と言っても、言葉ほどに語気は強くない。そもそも、目が笑っている。
暖かな灯に照らされて、酒場で、様々な人と騒いで、笑って、ふざけて。
ほんのすこし前には、ありえなかった事だ。
原因は考えるまでもあるまい。
――ジュドウ。
ジゼーレはなんともなし、白い胴衣を撫でて、心の中で彼の名を呟く。
彼が何もかもを変えたように思える。何もかも、すべて。
二人の冒険者は、もしかするとジゼーレの手で切り伏せてしまったかもしれない。
アダンとミルタ、彼ら二人は、ジュドウがいなければ森の奥で隠棲したままだろう。
ベルスはいつも通りだけれど、お店がより繁盛したのはジュドウの試合の結果だ。
そして、ジゼーレ。
彼との出会いは、自分に何をもたらしたろう。
ジュドウと出会って、そして――…………。
「あんのォ。もりあがってっとこ、悪ィんだけどなァ」
「ひゃっ!?」
と、不意に彼女の思索を打ち破ったのは、窓の外からの間延びした胴間声。
見ればゴーティエが、その大きな顔を窓にぴったり近づけて覗きこんでいる。
「あ、な、なにかしら、ゴーティエさん!」
ジゼーレは不意をつかれ、浮ついた声を整えながら問いかける。
「おらァ、白が好きだぁよ。そいと、こいつがちとばかし大事なんだが……」
「友だち、要点を言え、要点を。大事なことを、最初にだ」
横で聞いていたテオフィルが、慣れた調子で茶々を入れた。
「おう」
巨人がうっそうと頷いて。
「あんな。向こうのほうから、もう、ジュドウが走って来てるど」
「ッ――――――――!?」
さっとジゼーレの顔に熱が昇り、その頬が朱色に染まる。
「か、隠さないと! まだ、全然できていないのよ……!」
「別に良いではないか」
アダンが藤壺の最後の一つを無造作に摘んで口へ放りながら、のんびりと言った。
「見られて困るものでもあるまいに」
「旦那様。中身のわからない宝箱の方が、面白いものですわ」
苦笑した従僕の言葉に、死人占い師は「一理ある」と関心したように頷く。
そんな二人を他所に、ジゼーレは大わらわだ。
針や糸を外そうにも中途半端で止めたのが災いして、このまま隠す必要があるらしい。
「そう、だけど…………とにかく、隠す場所を……!」
「はい、はい、今、箱を持ってきてあげるからね」
ベルスが笑いながら厨房の奥へ向かう一方、店の入口へ飛び出すのがテオフィルだ。
「おい友だち! 時間稼ぎだ、時間稼ぎ! ジュドウを足止めだ」
「ほい来た友だち! ……で、どうやんだべ?」
「なんでも良いからテキトーに話しかけとこうぜ!」
その賑やかさときたら、遠くからでも一目でそれと判るほどだ。
――――そして、ジュドウがやって来る。




