6-01
――そうして、しばらく後。
街から人の気配が絶え、静まり返る夜遅く。
日が沈み、双つの月が凍えるような光を投げかける頃。
城の一画。さながら廃墟の如く伽藍となった寝室に、バティルドの姿はあった。
豊満な肢体を誇示するような、薄く肌の透ける夜着ひとつ。
その美しい容貌は、まるで仮面のように冷え冷えとして微動だにしない。
寝台の上に横たわる姿は人形か、あるいは死人のようにさえ思えてくる。
普段ならば其処に伴う華やかな雰囲気は、一切残っていなかった。
だが、それについて心配する者はといえば、皆無であった。
小心な父は、実の娘を腫れ物のように扱うのが常である。
取り巻きめいた貴族子息や娘たちは、人の内心を慮る事を知らない。
――ジゼーレ。ジゼーレ=グリジならば、どうであったろうか。
だが彼女との遭遇は、バティルド自身が望んで避けるようにしていた。
バティルドはただ独り、寝台の上に蹲る。独り――……いや。
「アルブレヒト」
忠僕を呼ぶ、鋭い声。
応じて、傍らの暗がりから音もなく気配もなく、剣士が姿を現した。
その隠形は見事の一言だが、公爵令嬢の私室へ忍ぶには大胆不敵に過ぎた。
空色の上衣を翻した彼は、鍔広の帽子を脱ぎながら優雅に一礼する。
「何ですかな、お嬢様」
「黙って突っ立っていないで、何かおっしゃいな」
微かに身を起こし、巻き毛を物憂げに弄びながら、彼女は続けた。
「気になって、眠れやしない」
「おや、僕のせいとは知らなかったですな」
と、アルブレヒトは、さして気にも止めていない風に肩を竦めてみせた。
「ふむ。……では、ちと僭越ながら。
なんだってお嬢様は、グリジ卿にご執心なので?
言っちゃあ何ですが見目は悪くなくとも、小柄で華奢。
あの体格にしては腕が良いですが、それだけでしょうに」
「……それは」
バティルドが不機嫌さを隠そうともせず、言葉を投げつけた。
「わたくしに仕えるにあたって、貴方が聞かねばならない事ですの?」
「当然ですとも」
心外だと言わんばかりに、アルブレヒトは首肯する。
「まず率直に申し上げますと、僕自身の好奇心が三割」
「三割」
驚いたように、バティルドは長い睫毛を瞬かせた。
「多いと言うべき? それとも、少ないと言うべきなのかしら」
「ええ」
アルブレヒトは頷き、至極自然な動作でその片目を閉じて見せる。
「あとの六割は、お嬢様と秘密を共にしたい男心」
「……」
「そして一割は、気になって夜も眠れないという辺りで、どうです?」
バティルドがじろりと目を細め、刺すような視線をアルブレヒトへ向けた。
彼は剣戟の最中であるかのように、平然とそれを受け流す。
壁に背を預けて、心底楽しいと言いたげな様子で寝台の彼女を眺めている。
バティルドはアルブレヒトが、公爵令嬢の裸身を堪能している事に気がついた。
彼は彼の流儀に則り、女性を眺めないのは失礼だと思っているに違いない。
バティルドは持ち前の傲慢さでもって自分の美貌を肯定し、その事実を受け入れる。
下手に賞賛の言葉を投げない分、よほど誠実で礼儀正しい振る舞いだ。
もしも他の――そこらの三文貴族であれば、嬉々として寝台に上がってきただろう。
そういった意味において、バティルドはアルブレヒトに絶対の信頼を置いていた。
「わたくしの、九つか十の誕生会だったかしら」
――もしかすると、ただの舞踏会だったかもしれない。
バティルドは目を細め、記憶の糸をたどりながら、そんな風に口火を切った。
「お気に入りの貴袍に髪帯で着飾って、広間へ出て。
他の貴族の娘達が、へらへら笑いながら集まってきて……」
「で、悪漢が窓を破って現れて、それを幼きグリジ卿がばっさり切り捨てた、と」
「まさか」
アルブレヒトの適当な相槌を、バティルドは一笑に付す。
「ジゼーレったら一人だけ礼服を着てて、居心地悪気に立っていただけ。
『まあ見て、あそこにいるのは傭兵騎士のご息女よ』
誰かが指さしてクスクス笑って、わたくしも初めて気づいたくらい。
地味だし笑いもしないし、浮いてるったらなかったですわね。
わたくしおかしくって、声をかけたの。わたくしの衣裳、どう思う?って。
あの娘ったら、なんて言ったかしら」
「さて」
こういう問に、答えが求められていない事をアルブレヒトは熟知している。
彼は伝説的な難問を前にした冒険者のように、あっさりと肩を竦めた。
「僕にはわかりかねますね」
「『その髪帯は似合っておられないと思います』」
バティルドは豊かな胸を張って、ジゼーレを真似たか、凛とした口調で言った。
あまり似てはいなかったけれど、アルブレヒトはあえてそれを指摘する事を避ける。
「生真面目なところは、グリジ卿の美点ですからな」
「面白いでしょう?」
今宵初めて、バティルドの頬が緩んだ。
「そういう事を言われたら、言い返さなくてはならないでしょう?
ジゼーレのお父様が流行病で亡くなったとかって話は聞いていましたもの。
せっかくだから御慰みの一つでもかけてあげようかと思って。
残念でしたわね、って。そうしたら……ふふっ」
彼女は小鳥が囀るように、くすくすと声をあげて可愛らしく笑う。
まさしく友人の懐かしい思い出を語る、年頃の娘そのままの仕草であった。
それが、不意にすっと引き締まった顔つきになる。
バティルドは顎を引き、堂々とした風で口を開いた。
「『父は私が黄金拍車を授かるのを見れないのが残念だと言って死にました。
しかし私は、必ず叙勲を受けて、騎士になります。
だから残念な事は何もありません』」
やはり、似てはいない。
言い終えて、バティルドの顔が柔らかなものになる。
「もっとも、こんなハッキリとは言えませんでしたわね。
見る間に目尻に涙が浮かんで、唇を噛んで、つっかえつっかえ……。
あんまりにも情けないものだから、わたくしったら、笑ってしまったの。
そうしたら、もう、ジゼーレったらポロポロ泣きだしてしまって……」
バティルドの唇から、悩ましげな吐息が漏れた。
「だから、わたくしの騎士にしてあげたの。ジゼーレはわたくしの騎士なのよ」
「成程ね」
壁際で、アルブレヒトが呟いた。
「ま、友情ってのは麗しいもんですな」
「でしょう?」
我が意を得たり。当然とでも言いたげに、公爵令嬢は頷く。
死人のようにふさぎ込んでいた姿は何処へやら。
今の彼女は覇気に満ち満ち、薔薇のような華やかさが蘇っていた。
「わたくしの騎士を、わたくしから奪う。これ以上の蛮行があって、アルブレヒト?」
バティルドの宝石を思わせる碧眼が、爛々と煌めく。
それは紛れも無く嫉妬の炎であり、怒りや、憎悪の輝きだ。
「殺しなさい」
彼女の声は裁きを下す神官に似て、威厳的でさえあった。
「首を刎ねても良いし、心の臓を貫いても、毒を飲ませたって構いませんわ。
とにかく――あの異邦人を殺してしまうのよ、アルブレヒト」
アルブレヒトはバティルドの炎を平然と見返した。その瞳は、水面のように穏やかだ。
「なかなかに物騒ですな」
彼は腰に吊るした突剣の柄頭へ手を載せ、愉快そうに応えた。
殺人も、暗殺も、女性の嫉妬も、何もかも。
辺境シューレジェン生まれの快男児にとって、大した事ではないらしい。
新たな冒険への期待に、口髭を蓄えた唇が、不敵に釣り上がっていた。
「勿論、物騒は大歓迎だ。僕としては否やはありませんとも」
「わかっていると思うけれど」と、バティルドは言う。
「失敗するような騎士は、不要ですわ」
「それは重畳ですな」
しかしアルブレヒトは、愉快そうに笑った。
訝しげに見やるバティルドへ、彼は固めをつぶってみせる。
「主従でなくなるのならば遠慮無く、貴女に結婚が申し込めるというものだ」
バティルドは、目の前に混沌の化身が降臨したような、趣きある顔を浮かべた。
「……冗談でしょう?」
「冗談と思いますか?」
公爵令嬢は、ふんと鼻を鳴らし、ごろりと行儀悪く寝台の上に転がった。
枕を抱え、騎士に背を向ける。唇を、不満気に尖らせて。
「……前言は撤回しますわ」
「それは残念」
頷くアルブレヒト。
「ま、一つばかり遠慮なく言わせて頂きますがね」
彼は腰帯に吊るした突剣の具合を確かめ、優美な動きで鍔広帽子を頭に載せた。
「友だちにはもう少しばかり素直になった方が宜しいかと」
「あら、それはダメよ」
バティルドは即答する。その顔には娘らしい、花の綻ぶような微笑があった。
「わたくし、ジゼーレの泣き顔が一番好きなんだもの」
そう言った次の瞬間、さっと剣士の姿が消えた。
影に溶けたのでも、暗がりに潜んだのでもない。
吹き込む夜気、はためく帳、大きく開かれた窓が、彼の行方を物語っている。
バティルドは鼻を鳴らし、薄衣一枚の身体を毛布の中に滑り込ませた。
「……そう。ジゼーレは、わたくしの騎士。わたくしのもの……」
そして、小さく欠伸をひとつ。




