5-06
「うん、此処までですわね」
ほう、と。貴賓席で観覧していたバティルドが息を吐く。
いつしか再び彼女の手には観劇用の遠眼鏡が握られていた。
「た、楽しんでいるかね、バティルド……?」
「まさか」
機嫌を伺うような父親へ、冷たい言葉と刺すような視線。
「どんでん返しも幾つかありましたし、見世物としては良いのでなくて?
四『角』の魔法使いとこうも渡り合ったのですから、十分でしょう。
ねえ、ジゼーレ?」
ジゼーレからの答えはない。
バティルドは不貞腐れたように頬をふくらませ、背後の彼女を振り仰ぐ。
「ジゼーレ? どうかして?」
「……いえ、たぶん」
ジゼーレは信じられないという様子で、しかし祈るような心持ちで、呟いた。
「彼は、諦めてないと思います」
そう、ジュドウは諦めてなどいなかった。
黒い瞳が、ふと貴賓席で佇む黒髪の少女の姿を捉える。
心配そうに表情を強張らせながらも、まっすぐに此方を見ている彼女。
ジュドウの口元に、笑みが浮かんだ。
負けられない。
そして勝機はある。
ならば、後はそれを掴むのみだ。
ジュドウはゆっくりと素足で白砂を摺りながら、間合いを測っていく。
アダンもまた杖を突き出したまま、狙いを定めていく。
次が恐らく最後の打ち合いになるだろう事は、双方ともに感じていた。
ごくりと観客の誰かが生唾を飲み込む。
その瞬間だった。
アダンの乾いた唇が力ある言葉を紡ぎ、呪文を編み終える。
白刃一閃。そう見紛わんほどの速度で蜘蛛糸が投射された。
それをジュドウは前へ転げるように飛び込んで、くぐり抜ける。
此処が勝負のしどころだ。
魔術師の叡智と、ジュドウの技量の比べ合い。
彼は立ち上がる動きの『はずみ』を活かし、跳ねるようにして飛び掛かった。
すかさず伸ばした両手の指先が、アダンの外套の端を捉える。
ジュドウはそれをしっかと指先に絡め、渾身の力を込めて握り込む。
「して、どうする……!」
アダンの灰色外套、竜翼が、主を守らんと風を孕んで羽撃いた。
翼膜だけとはいえその力強さは、四方世界最強種の一つに相応しい。
嵐に揉まれる小舟のように、ジュドウの身体が跳ね飛ばされる。
それで終わり――とは、ならなかった。
彼の手は、外套から離れていない。
跳ねられたその右足が、勢いのまま振り上げられる。
それは死神の鎌のような鋭さで、アダンの首筋を刈り取った。
「ぬ、お……!?」
さしもの死人占い師も、これには詠唱が一拍滞る。
それを逃すジュドウではない。
すかさず左足を脇下へ叩き込み、がっちりと全身で彼を捉える。
衝撃のあまり二人が絡みあい、ぐらりと大きく傾いだ。
ジュドウは勢いのまま身を捻り込み、諸共に砂地へと体を叩き込む。
激突音が響き、砂塵が舞い上がった。
「何の、これしき……!」
が、アダンにさして痛痒は無い。先の投技ほどの猛烈な技ではない。
意表を突かれはしたものの、我に返れば対処は可能だ。
可能、だが。
がきり、と。杖を手繰らんとした右腕が、軋んだ。
ジュドウである。
彼が死力を振り絞って、アダンの右腕を十字に極めていたのだ。
いみじくも先にアダンが述べた通り、全ては発条と歯車の組み合わせだ。
動かそうと思えば容易に動き、動かぬ方向には壊れぬ限り決して動かない。
まさに、アダンの右腕は後者の状況に置かれていた。
ぎりぎりと締めあげられる度、破壊されかかった関節が悲鳴を上げる。
痛みそれ自体はアダンにとって問題ではない。
杖を取った右腕が動かせない事も、大したことではない。
呪文を繰り出すだけならば指輪を発動体にしても良い。
そもそもアダンならば、身一つで術を操る事もできる。
それが死人占い師アダンという魔術師の力量だ。
「むう……!」
しかし、彼は唸った。
投技、寝技、共に四方世界に無い技術ではない。
だがそれをここまで精錬させた武術を、アダンは知らなかった。
世の全ての理を納めたと思っていた自分。
天上の指し手を目指し、至れぬと倦んでいた自分は、阿呆ではないか。
「《雷網》でも唱えて、稲妻で拘束し続ければ宜しいのに」
と、影の内から甘く蕩けるような、女の囁き声。
「相手に付き合って戦う必要、ないではありませんか」
彼女の言葉は文字通りの誘惑だ。
ただ勝つのであれば、強烈な呪文以上に有効な手はない。
或いは強酸の煙を浴びせるか、刃の網を叩き込むか、幾らでも方法はある。
なんとなれば二言三言唱え、造作なく死の呪いをまき散らす事もできよう。
「ミルタ、ミルタ、ミルタ。それは道理だ。道理だが……」
だがアダンは、実に愉快そうに首を横に振った。
「それでは面白く無いではないか」
これだから殿方は、と。死霊の女王は呆れ半分、おかしそうに笑う。
そう、アダンは実に面白く、愉快で、そして痛快であった。
良いだろうと、そう思った。
アダンは動く左手で、ジュドウの背を軽く叩いた。
その髑髏の眼窩と、黒い瞳が向かい合う。
「投了だ、若人よ」
死人占い師は笑って、右手の杖を手放した。
万雷の拍手と割れるような喝采。
そのただなかで、ジュドウは砂地に手を突き、よろよろと身を起こした。
襤褸のような天鵞絨の上衣を纏い、肩を荒く上下させながら。
破けた袖から覗く二の腕や、掌は焼け爛れ、酷く痛む。
顔は汗と砂、土埃、擦り傷から滴る血に汚れ、無様なものだ。
疲労困憊、満身創痍と言っても過言ではあるまい。
まさに、死力を尽くした戦いであった。
「そ、それまで……それまでっ!!」
観客たちの歓声に数瞬遅れて、貴賓席のクルランド公爵が声を張り上げる。
もはや手遅れだったが、試合終了を告げるのは自分だという矜持があった。
滑稽なほど腕を振り回して、精一杯に威厳を取り繕った叫び。
だがそれとは一切関係の無い理由で、ジュドウは貴賓席へと目を向ける。
――ジゼーレ。
不服そうに頬を膨らませている巻き毛の令嬢の後ろに、彼女はいた。
いつも通りに背筋を凛と伸ばして、腰には剣を佩いて、まっすぐに彼を見て。
その顔が柔らかく綻んでいるのを見た時。
薔薇色の唇が「ジュドウ」と囁くように動くのを認めた時。
ようやく彼は残心を終え、息をつく事ができた。
死人占い師の降参も、観客の大音声も、公爵の宣言も、関係は無い。
ただただジゼーレの微笑だけが、ジュドウに戦いの終わりを告げるものだった。




