5-05
少し間が空いてしまいました。申し訳ありません。
白煙をあげながら蠢く粘菌を前にして、ジュドウは手も足も出ない。
彼は魔術を知らない。魔法を知らない。このような怪異とは初めて相対する。
だが、それでも彼は無謀に突貫するほど愚か者ではなかった。
摺り足で距離を取りつつジュドウが真っ先に行ったのは、状況判断であり、観察だ。
粘菌の速度は、遅い。
上手くすればやり過ごして、死人占い師へ直接挑みかかる事もできよう。
しかし目も、鼻も、耳も持たない粘菌は、正確にジュドウへ向かって這い寄ってくる。
ジュドウは朧気な記憶の中から、粘菌に関する知識を懸命に探った。
粘菌は反射で動くような生物であった筈だが……。
「さぁて、打つ手無しかね、若人よ」
アダンは、外套の奥で乾いた唇を楽しげに歪めた。
手にした黄金長笛は時折奇怪な音色を奏で、未だジュドウを総毛立たせる。
その度に粘菌はゆらゆらと揺らめき、形を変え、標的へと向かうのだ。
何が粘菌に反射を引き起こしているのかは、見る限り明白であった。
ジュドウは、慎重に息を整える。
あの魔術師が、そういった弱点を予測していないとは思えない。
狙われる事は想定されているだろう。ならば、意表を突く必要があった。
摺り足で後退りをしながら、ジュドウはそっと腰溜めになり、次の動作に備える。
ぱっと白砂が舞い散った。
意を決したジュドウが、弓矢の如く地を蹴って跳びだしたのだ。
彼にその行動を示唆したのは、先の骸骨兵の戦術である。
右、左、回り込もうとすれば即座に見ぬかれてしまうであろう。
故にジュドウは力強く踏み切って、巨大な粘菌の上を超すように軽々と跳躍する。
「巧い!」
アダンが吠えるように笑う。その金色の笛が砂地を叩く。
「だが惜しい!」
瞬間、粘菌の塊が文字通り怒涛の如く膨れ上がった。
空中にあったジュドウは、そのまま粘液によって思い切り跳ね上げられる。
肉の焦げる嫌な臭いと音を伴って、蹴られた毬のように彼は地面へと墜落した。
衝撃と、巻き起こる砂埃。
常人であらば骨折の一つ二つは免れまい。
或いは当たりどころが悪ければ、それ以上やもしれない。
「ジュドウッ……!」
貴賓席。ジゼーレの口から、押し殺した悲鳴が漏れる。
「人間の身体って、存外弾みませんのね」
バティルドが開いた扇子の内で欠伸をひとつ。
「治療師の用意をさせた方が良いかもしれませんわ」
だが。
ジュドウは、立ち上がった。
苦痛に顔をしかめ、大きく荒く息を吐きながら、しっかりと二本の足で。
全身の其処此処、天鵞絨の詰襟は焼け焦げ、肉も爛れてはいたけれど。
落下に伴う痛痒は、一見して、殆ど見られなかった。
「……良かった……」
ほっと薄い胸を撫で下ろし、ジゼーレは微笑を浮かべる。
バティルドは面白くも無さそうな表情で、はしたなく頬杖を突いた。
その周囲で観客達が困惑し、ささやきあいながら顔を見合わせる。
如何なる術を使ったものか、魔法抜きに高空から無傷で着地する方法を、彼らは知らない。
先の骸骨兵との戦いもそうだが、この異邦人への評価を、改めるべきか……。
――落着の瞬間、両の手で地面を叩いて衝撃を殺したか。
対してアダンは、見事に洗練された受け身の動作に心からの賞賛を覚えていた。
何も殺す気こそ無かったが、相応の負傷は与えるつもりであった。
にも関わらず、目前の小兵はその目論見をあっさりと覆してのけたのだ。
アダンはジュドウが息を整え、体勢を立て直すまで動かぬよう、粘菌に厳命する。
深海から現れ出た下僕は実に忠実であるが、些か脳が足りていないのだ。
放っておくと何でも食べてしまうのだから、アダンとて油断がならない。
一方、立ち上がったジュドウは、衣服の物入れをまさぐっていた。
もし観客席の中に件の剣士と薬師がいたら、あっと声をあげたに違いない。
彼が取り出したのは掌大の、小さな薬壺だったからだ。
躊躇なく封を破って中の油じみた膏薬を手に掬い取り、粘菌に触れられた箇所へ塗る。
酸で焼けた傷に突き刺すような痛みが走り、ジュドウは顔をしかめた。
その時だ。
火傷の周囲にこびり付いた、粘菌の残滓。それが滑るように剥がれ落ちた。
ジュドウの脳裏に、稲妻の如く閃きが走る。
彼はすぐさま行動に移った。
膏薬を塗りたくって手当を終えると、その上衣を脱ぎとったのだ。
黒い天鵞絨を合羽の如く構える姿は、さながら闘牛士のよう。
「ほほう……」
アダンが興味深げに声を漏らす。
観客たちも、誰もが、ジュドウの意図を掴みかねていた。
じり、じりと摺り足で迫り来るジュドウへと、粘菌もまた緩々と蠢いた。
そしてジュドウが疾駆する。アダンが笛で地を叩く。粘菌が膨張する。
其処までは、先と同じ。違うのは此処からだ。
ジュドウの手から放たれた黒い天鵞絨が、広がり、はためき、一面を覆った。
それはさながら粘菌の怒涛を阻む堤防、ジュドウの身を守る盾だ。
無論、それが酸によって無残に焼け溶けるまではほんの一瞬。
だが、彼にとってはそれで十分だった。
「おお……!」
アダンが、そして観客たちが驚きに声を漏らす。
粘菌を、ジュドウの両の手が捉えていた。
肉の焼ける音は――しない。
何故か。
ジュドウの掌に塗りたくられた膏薬、その油によるものだ。
酸と油には、相反する性質がある。
ジュドウがそれを思い出せたのは、幸運以外の何物でもない。
恐らく、粘菌の特徴について思い起こしていたからであろう。
単体では思い出せない知識も、数珠繋ぎに浮かび上がる事がある。
掴み取ってさえしまえば、もはや粘菌とてジュドウを阻むものではない。
後は彼自身の勢いと、粘菌膨張の『はずみ』に身を任せれば良かった。
踏ん張る足下の砂を蹴散らしながら、ジュドウはぐわりと粘菌を抱え上げる。
上衣と膏薬の守りを越えて、じりじりと緩慢に焼かれる掌の苦痛。
それを堪えながら、掬い投げるようにして思うさまそれを叩きつけた。
砂地に――否、アダンめがけて、である。
「む……」
無論、アダンとて歴戦の猛者。奇策に驚いたのも束の間、狼狽える事はない。
彼が素早く呪文を呟くと、途端、その灰色外套が生きているかの如く羽撃いた。
否――それ、即ち竜の翼膜で作られた外套は、未だ命を保っているのだ。
討手の魔力を受けて息を吹き返した竜翼は、力強く、迫る脅威を跳ね除ける。
強かに打ち据えられた粘菌は、そのまま練兵場の片隅へと大きく弾みながら墜落。
だが、これで終わりではない。
刹那の間隙を突いて、ジュドウは飛び出していた。
全ては対手に肉薄する為に打った布石に過ぎない。
彼にとって対戦相手は骸骨兵でも、粘菌でもなく、彼の死人占い師なのだ。
ただ只管に、それだけをジュドウは考えていた。そして、それは成った。
「なんと……!」
猛禽もかくやという鋭さで伸ばした両の手が、広がった外套の裾を掴みとる。
そのままぐいと体を捻りながら身を沈め、勢い良くその腰を跳ね上げる。
開かれた口から、怪鳥の鳴き声にも似た咆哮。
「やった!」
叫んだのはジゼーレか、ベルスか、或いは娘二人ともであったかもしれない。
|《一文字》《ストレート》とでも呼ぶべきか。
縦に流れる一文字、見事な直線を描いて死人占い師は宙を舞った。
その速度、勢いときたら、今日見せた技の全てをも上回る程だ。
粘菌に叩きつけられた時以上の衝撃が、アダンを襲うに違いない。
「成程、良手だ!」
が、彼もさるもの。
呪文を呟くや否や、ふわりと花弁が風に舞うように、空で音もなく身を翻す。
高所からの転落に備えて編み出された、《落下制動》の術である。
数度の冒険を経た魔術師なら誰しもが会得する。アダンもそうだった。
しかしそれを敵にかけられた投技の最中に唱えられる者は、そう多くはいまい。
難なく着地に成功したアダンは、にやりと骸骨顔に笑みを浮かべた。
「王手ではあったかもしれんが……しかし、まだまだ。
生憎と詰みには、一手及ばずと言ったところだな」
呼吸を整えながら、ジュドウは粘菌から弾き落とされた上衣を手にとった。
襤褸のようになったそれを羽織直し、ゆっくりと両手を天地に構え直す。
それを迎え撃つアダンとて、言葉ほどに余裕があるわけではない。
粘菌は遠くへと弾かれてしまった以上、決着までに呼び寄せるのは困難。
他にも彼が召喚できる怪物は数多いが――いい加減に芸があるまい。
勝つか負けるか、という意味でいえば、まず勝てよう。
ジュドウの繰り出す技の数々、投技は、大凡アダンに防げぬ物ではない。
だが殺さずに、生かしたまま留めるのであれば、そろそろ落とし所を探る頃合いだ。
――見栄えは悪いが、致し方なかろう。
アダンは振りかざした金色の笛杖をジュドウへと突きつける。
途端、杖の先端から蜘蛛の糸が迸った。
ジュドウは殆ど反射的に飛び退いて、辛うじてそれを回避する。
肩口を掠めて飛び行く糸目の太さは、綱ほどもあった。
捕まれば、それで終わりだ。
「《蜘蛛巣》……ま、決着が《眠雲》では格好がつかんからな」
拘束にしろ睡眠にしろ、脅威の度合いとしては大差ない。
ジュドウはいよいよもって、集中を余儀なくされる。
糸の軌道が直線である以上、杖の先端にさえ気をつければ良い……が。
問題は、それを越えた後の話だ。
先の攻防は幸運の賜物であったと、ジュドウは理解している。
なんとなれば、仕掛けた時、彼はあの竜翼の外套に気づいていなかったのだ。
迂闊に掴みかかれば粘菌同様、弾き飛ばされてしまうだろう。
よしんば捉えたとしても、投げた後に着地されてしまっては意味が無い。
かといって時間をかけ過ぎれば、粘菌が追いついて元の木阿弥だ。
そもそも、あまり長期戦になると、負傷している彼自身の体力が持つまい。
万事休す。
「うん、此処までですわね」
ほう、と。貴賓席で観覧していたバティルドが息を吐く。
いつしか再び彼女の手には観劇用の遠眼鏡が握られていた。
「た、楽しんでいるかね、バティルド……?」
「まさか」
機嫌を伺うような父親へ、冷たい言葉と刺すような視線。
「どんでん返しも幾つかありましたし、見世物としては良いのでなくて?
四『角』の魔法使いとこうも渡り合ったのですから、十分でしょう。
ねえ、ジゼーレ?」
ジゼーレからの答えはない。
バティルドは不貞腐れたように頬をふくらませ、背後の彼女を振り仰ぐ。
「ジゼーレ? どうかして?」
「……いえ、たぶん」
ジゼーレは信じられないという様子で、しかし祈るような心持ちで、呟いた。
「彼は、まだ、諦めてないと思います」




