5-02
練兵場の入り口でジュドウと別れた後、ジゼーレは足早に観客席へと向かう。
途端、わっという喧騒と、人いきれの熱気に彼女は包み込まれた。
「……ッ」
一瞬圧倒されたジゼーレだったが、それを表に出さず、戦盤へと視線を向ける。
――――いた。
遠くからでも一目でわかる。黒髪に、黒い天鵞絨の詰襟。ジュドウだ。
観衆の中で戦う事に慣れているのか、いつも通り、悠然と佇んでいる。
「……よし!」
気合の呟きを一声、ジゼーレは髪をなびかせ、決断的に足を進める。
向かう先は、貴賓席だ。
豪奢な衣裳を纏った淑女達は、すれ違う度にちらちらとジゼーレへ目を向ける。
帯剣しているのはまだしも、飾り栄えのない姿が、余程奇異なのであろう。
だがジゼーレは、そういった目線を一切気にせず、意にも介さない。
彼女は仮にも騎士、つまりは貴族だ。
そして正装である以上、貴賓席にいても、何らおかしい事は無い。
真っ直ぐに目指すのは――貴賓席中央、主催者たる公爵、そしてバティルドだ。
常にも増して豪奢な空色の貴袍は、豊満さと美しさを引き立たせている。
だからであろう。彼女の周囲には、領内外の貴族子弟が詰めかけていた。
「いやあ、噂には聞いておりましたが、やはりお美しい!」
「この衣裳は、ラグーザの青染めですな。貴女にお似合いだ!」
「そうですの」
扇子で口元を隠しながら、バティルドは、はしたなく欠伸をする。
「やはりこういう場に来られるという事は、剣術に興味がおありで?」
それを服を褒められるのに飽きたのだと勘違いした一人が、媚びへつらうように言う。
「羨ましいですなぁ。プティパ殿のような剣士を従えていると、心強いでしょう」
痩身を礼服でくるんだ彼は、まるで自分が剣士であるかのような表情である。
「心強い?」
意味深に目配せをしたバティルドは扇子の影でくすりと、あからさまに笑った。
「まあ、剣を帯びると身体が傾いて見えるような方では、共にいるだけで不安ですわね」
文字通り切って捨てるような言葉は、痩せた貴族令息の自尊心を見事に傷つけた。
彼は羞恥で顔を赤くしても、決して怒りを表に出さず、「失敬」と一礼して下がる。
貴族としての教育の賜物であろうが、しかし、相手が悪い。
何しろ、公爵令嬢バティルド=クルランドである。
美麗字句を聞き飽きるのに相応しい器量と高慢さとを、彼女は持ち合わせていた。
フンと小鼻を鳴らす実の娘へ、クルランド公爵もどう接して良いかわからないらしい。
恰幅の良く肥えた紳士は、おどおどと気弱そうに、精一杯の威厳を持ってたしなめる。
「バ、バティルド、く、口を慎みなさい。お、お前の婿に、なるかもしれんのだぞ」
「かもしれない?」
令嬢は、ぱちくりと目を瞬かせ、さして楽しくも無さそうな様子で笑った。
「まあ、『ありえない』という事は『ありえない』ものね。
ええ、ええ、かもしれない。その通り。便利なお言葉ですこと」
「そ、それにしても、その衣裳は良いな。ひと目を惹くし……」
「おやめになって。服を褒められて機嫌が治るほど、わたくし子供ではありません」
居心地悪げに求婚者達が目配せをしあい、誰ともなく自分の席へと退いていく。
父娘の会話というには、バティルドの声はあまりにも冷たく、鋭かった。
名門公爵家を継いだ小心者の男。
箔付けの為に娘婿を探し、更には高名な術師を抱え込もうとしている。
これが己の父かと、バティルドは思いたくもないらしい。
不貞腐れたように頬をふくらませ、退屈を隠そうともせず練兵場を眺めている。
その彼女へ、ジゼーレはそっと歩み寄った。顔には、親しみを込めた苦笑い。
「そうやって拗ねていては、子供扱いされても仕方ありませんよ」
「ジゼーレ!」
黒髪の少女騎士の姿を認め、バティルドが、ぱちりと扇子を閉じて立ち上がった。
しかし喜びに輝いた表情は、ほんの一瞬。
ツンと澄まして微笑んで、それと同じくらい刺のある声で彼女は言う。
「……来ていたとは知りませんでしたわ」
「バティルド様が呼んで下すったのでしょう?」
「そうでしたかしら……」
可愛らしく、しかし高貴さを損なわない自然な動きで、バティルドは小首を傾げる。
「どうしましょう、席の準備ができていませんの」
あからさまと言えばあからさまな態度だが、いつもの事だ。
ジゼーレは咎める事もせず、笑った。
「今日は、やたらとお客人が多いですから。仕方ありません」
「ええ、例の三角帆とかいうものの仕業ですのよ。
船の往来が楽になったせいで、余計な輩までやってきて……」
ジゼーレは、それがジュドウの事を揶揄しているのだと気がついた。
「それより」
だが、その真意を探ろうと開きかけた口を遮って、バティルドが畳かける。
「敬語は止してくださらない? 嫌になりますのよ」
「そうもいきませんよ」
肩をすくめ、ジゼーレは周囲をちらりと見回した。
すぐ傍らには領主たる公爵が控え、その周りにも名だたる貴族が並んでいる。
対する自分は公爵令嬢の友人とはいえ、傭兵騎士の娘、ただの騎士だ。
戦場で武勲を挙げたと言えば聞こえは良いが、成り上がりの身。
自らを蔑むつもりは毛頭無いけれど、先祖代々の青い血は流れていない。
そんな者にさえ敬意を示されないとなると、何より、バティルドの立場が危うい。
「……こういう場ですから」
無論、そんな事を逐一説明するわけもない。
ジゼーレが発したのは、言い訳めいたその一言だった。
バティルドは不満を隠そうともせず、じっとジゼーレを睨み、やがて小さく溜息を吐いた。
「……なら、わたくしの後ろに控えていなさい」
「はい」
投げつけるような言葉に、ジゼーレは素直に応じる。
そうして彼女が動く時に鳴った金擦れの音を、バティルドの耳は捉えたようだ。
怪訝そうに、バティルドは眉をひそめた。
「あら? まさか……ジゼーレ、鎧を着てらっしゃるの?」
「騎士としての正装ですよ」
何でもないことのようにジゼーレは応じる。
それをさも当然と受け止めて、バティルドは満足そうに頷いた。
「ジゼーレはわたくしの騎士だものね!」
彼女の宣言に、ジゼーレは何も言わず、黙って後ろへ控える。
腰に佩いた剣の柄に、左手のひらを乗せ、真っ直ぐに練兵場へと目を向ける。
政治からは身を遠ざけているジゼーレでも、バティルドの立場はわかるつもりだ。
今は亡き公爵夫人、バティルドの母は、王家に連なる血筋であった。
無論、バティルドの王位継承順位は下から数えた方が早い。
冠を戴くのは夢のまた夢。
しかしながら王族と血縁があるという事は、それだけで十二分に価値がある。
加えて、上手くすれば公爵家の跡取りにもなれるのだ。求婚者は数えきれない。
この場にいない彼女の兄、姉にとってみれば……競争相手が増えるだけ。
長男、長女のみならばまだしも、そこに次女と婿が加わるのは、宜しくない。
ケーキの切り分けは、既に始まっていると見て良い。
アルブレヒトという懐刀があれど、ジゼーレの友人は、危うい立場にいる。
――ジュドウと、天秤にかけるわけではないけれど。
「…………」
ジゼーレは、きつく唇を噛みしめた。
彼女は自分の決意、決断に、何一つ後悔はしていない。
だが――ジュドウの身に、何事も無ければ良い。
こんな鎧や剣といった備えが、無駄になれば良い。
友と友とを、選ぶような事、だけは――……。
と、観客や群衆の喧騒を打ち砕くように、盛大に銅鑼が鳴り響いた。
それを受けたジゼーレの視線の先、練兵場中央へ、悠然とジュドウが歩み出て行く。
あの黒い天鵞絨の詰襟を着て、いつもと同じように、静かな様子で。
「ふぅん。存外、落ち着いておりますわね」
「ええ」
期待外れと言わんげなバティルドに、ジゼーレはそっと頷く。
「慣れているのでしょう、きっと」
彼の姿を見つめながら、ジゼーレは、ゆっくりと呼吸を整えていく。
* * *
青空の下、白砂の上、衆人環視の中を、彼は迷わず進む。
其処には奇妙な、底抜けの明るさがあった。
言葉さえも通じぬ全く未知の異郷へと漂着し、巨人と渡り合い、娘に囲まれ。
夢幻の如く奇妙に現実感のない状況にあって、今度は魔術師と試合をする。
ともすれば自暴自棄かと見られそうだが、そうではない。
これは一度死に瀕し、生き延びた者が持つ、一種独特の心境であった。
なるようになる、のだ。
なら行けるところまで行くべきであろう。
ジュドウの心境を突き詰めてしまえば、それだけである。
唯一、懸念があるとすれば……ジゼーレというらしい、あの娘の事だった。
彼女の立場というのがどういうものなのか、ジュドウは測りかねていた。
騎士である、という事はわかる。
彼はジゼーレ以外の騎士を知らないが、物語として存在は知っていた。
王や領主に仕える戦士であり、家臣であり、武官であろう。
だが、この試合においてはどうなのか。
それこそが彼の心に浮かぶ悩み、疑問、問題であった。
己が勝てば良いのか、負ければ良いのか。どちらが彼女の為になるのか。
ジュドウは己が異邦人である事を、重々に承知していた。
救われた恩を返すならばどうするべきかと、考えない日は無い。
だが言葉は通じずとも、彼女は言ってくれたのだ。
「勝て」と。
ならば、もはや何を迷おう事があろうか。
そう思えば、たかが魔術師、何するものぞ。
命惜しさを抱えた上で、今のジュドウは決死であった。
前向きに――『死』へと挑むのだ。




