5-01
「あの、ジゼーレ……さん。これで良いのですか?
もっとこう、貴袍とか、長裳とか……」
「ええ、大丈夫」
困惑した表情のハイジに、着替えを終えたジゼーレは柔らかく微笑みかけた。
黒に白鳥の上衣にかかった長髪を振り払うと、ハイジが櫛を手に後ろへ回った。
「本当に、結わなくって良いんでしょうか……」
「構わないわよ。それに、似合わないし」
「そんなことは、無いと思いますけれど……」
彼女に梳かれるまま、ジゼーレは更衣室の鎧戸、その隙間から外を覗き見る。
白砂の敷き詰められた練兵場は、既に大賑わいだ。
ぐるりと周囲を座席が囲み、老若男女、貧富を問わず観客が詰め掛けていた。
楽団が曲をかき鳴らし、売り子が声を張り上げ焼串や酒を歩き売る。
色鮮やかな染布で屋根が張られた一画は、貴賓席であろう。
優雅に礼服を着こなした紳士淑女が、入れ替わり立ち代り訪れている。
「……さながら、コロッセオね」
騎士達の鍛錬に使われる場が、これではまるで興行場だ。
ましてやそこで見世物として戦うのがジュドウなのだから、良い気はしない。
「ジゼーレさん、髪、終わりました。あと、剣も……整えておきました」
「助かったわ、ハイジ」
「いえ」
赤面して恐縮する従士に、遠慮する必要もないのにとジゼーレは思う。
だが、剣の手入れをしてくれたのは助かった。
ジゼーレはありがたく、壁に立てかけてある愛剣を取り上げる。
金具は磨かれ、鞘と革帯には油がさされ、小気味良い光沢を帯びていた。
鍔を押して剣を僅かに引き抜けば、曇り一つない刀身が顕になる。
ハイジの性格が良く現れた、丁寧な仕上がりであった。
「これで、良し、と」
ジゼーレは満足気に頷き、剣を腰へ佩く。
凛と佇む姿は、女騎士として思い描かれる姿そのものだ。
「良いなぁ……」
思わず声が漏れてしまったのだろう。十歳の少女は、慌てて自らの口を塞ぐ。
その様がおかしくて、ジゼーレはくすりと笑った。
「あと何年もしない内に、貴女も騎士になれるわよ、ハイジ」
「そうでしょうか……?」
「ええ、勿論。自信を持ちなさいな」
ジゼーレは励ますよう、努めて大人らしい口調で言った。
「さ、貴女も試合を見たいのでしょう? 私はもう良いから、行きなさい」
「はぁい!」
元気よく更衣室を飛び出して行く彼女を見送り――ジゼーレは大きく、息を吐いた。
不安だった。
年下の後輩の前だから、威勢を保てたのかもしれない。
ともすれば身体が強張り、震えが起こるのは、緊張だけが原因ではないだろう。
「私が怯えてどうするのよ、ジゼーレ」
言い聞かせるように呟いて、大きく深呼吸。鞘に手を添え、しっかりと握る。
更衣室から練兵場へ向かう回廊へ出ると、そこに彼の姿があった。
黒い天鵞絨の詰襟を着込んで、二輪の傍に、いつものように平然と佇んで。
「……ジュドウ」
思わず漏らした声に、彼が気付いた。
ジゼーレを見る顔に浮かんでいるのは、笑み。
「大事な試合の前なのに、もう……」
仕方ないな、と。ジゼーレの頬も自然と緩む。
いや、きっと大事な試合の前だからこそ、だろう。
そう思うとジゼーレは変に緊張している自分が、なんだかおかしく思えてしまう。
「ね、ジュドウ。まだ、試合が始まるまでに時間があるでしょう?」
問うても、返事は無い。半ば独り言のようなものだ。
だが、ジュドウは聞いてくれている。それだけでジゼーレには十分だった。
上擦りそうな声と、息とを整えて、はっきりと。
「外、見に行きましょ?」
青空に、白い煙がぽん、ぽんと弾けては消えていく。
在野の魔術師が、花火の手妻を披露したのであろう。
街路には出店が並び、旗が立ち、石畳の上を行く人々もうきうきと浮かれている。
さながら、祭りだ。
その賑やかさの只中に、ジゼーレとジュドウはいた。
二輪の絡繰を手押ししながら、のんびりと人混みを分け歩いて行く。
圃人が、危うい均衡の積み木を軽やかに昇り、飛び降りる。
小人が胴間声で発条仕掛けの騎士人形を宣伝している。
森人が竪琴を巧みに奏で、人間の踊り子がそれに興を添える。
あちらを見れば短剣投げによる的当てへ、景品目当ての子供達が群がっている。
此方を見ると僧侶による面白おかしい辻説法(無論ジュドウは言葉を解さないが)。
怪しげな身振りで術を起こし、虹色の炎で見事な竜を描いてみせる魔術師。
彼が炎の中に手を入れ、中から金鎖を引き抜くと、見物客がまばらに拍手をする。
実に、賑やかだ。露天、屋台、出店の類も多い。
ジュドウは、まるで子供のように周囲を見て、笑っていた。
「ふふ……」
ジゼーレも、思わず笑みがこぼれてしまう。
と、ふと、ジュドウが道端で脚を止めた。
どうしたのだろうと思ってジゼーレが目を向けると、そこには黒山の人だかり。
中心には宙へ放り投げられ舞い散る紙束を、尽く切って捨てる剣士がいた。
大道芸の類かと思いきや、そこで相方と思わしき薬師が、膏薬の宣伝をぶち上げる。
霊験あらたかな果ての山、その闇の森に潜みし大蜘蛛が守る、癒しの水にて練り上げた――……。
「ああ、薬売り……そうだ、ちょっと待っていて!」
軽く手を打ったジゼーレは、ジュドウが止める間もなく、黒髪を靡かせて駆け出した。
ジュドウの元へと戻る彼女の手には、掌大の薬壺。
「はい、これ、軟膏。……持ってれば、安心だから」
ジュドウは受け取れないと手を振るが、ジゼーレは半ば押し付けるように手渡す。
困ったように視線を彷徨わせたジュドウは、手近な屋台へと目を留めた。
香ばしく甘い、良い匂いが漂っている。絵看板を見ると、菓子を扱っているらしい。
「なぁに? あれ、食べたいの。なら、今――……」
買おうと提案するジゼーレを制し、ジュドウは物入れから革の財布を抜き取った。
彼が漂着した時から持っている、あの二つ折りの財布だ。
禿頭の店主はジュドウの出した銀貨を見るや、厳しい顔に笑みを浮かべた。
次いで、ジュドウが二本の指を立てて見せる。
「あいよ! 『労働者の鮫卵』ふたつね!」
店主はざっと網で樽から掬った赤えんどう豆を、鍋に沸いた油の中に投入。
ほどなく引き上げたそれに、たっぷりの砂糖をまぶし、紙で包む。
大雑把で乱暴な、けれど港町でしか食べられない、できたての菓子だ。
「ほい! 火傷しないよう気ィつけてな!」
にこにこと受け取ったジュドウは、その一つをジゼーレへと差し出した。
「これ……赤えんどう豆の油茹で?」
ジゼーレは細い指先で熱々のそれをつまんだ。
はしたないと思いながらも口へ放り込むと、甘く、かりっとして、実に香ばしい。
「……美味しい!」
ジゼーレが思わず微笑むのを見ると、ジュドウの顔も綻んだ。
最近ようやく覚えた貨幣についての知識が役立って、自慢げな様子だった。
――そう、言葉が通じないだけなのよね。
ジゼーレは、そう思う。
強くて、賢くて、真面目で、無口で、何処からともなく現れて。……。
「ねえ、ジュドウ?」
照れくさく、恥ずかしくて、ジュドウの一歩前へと踏み出して、彼女は言った。
「――あなた、本当に王子様だったりしない?」
菓子を片手に、賑やかな通りを物珍しげに歩く様は、物見高い見物客のそれだ。
実際、そう間違いではない。ジュドウにとって、初めて見るものばかりなのだから。
如何に波止場人足としての身分を保証されても、あまり遊ばない性質の彼である。
門を越えて波止場から城塞へ足を踏み入れるのも、もっぱらジゼーレを迎える為ばかり。
祭り、それも異国のものとなれば、目を奪われるのも仕方のない事だった。
元々、この公爵領は港町だ。旅人の類はさして珍しくない。
だからかどうか、如何にもな異人であってもジュドウが見咎められる事は無い。
強いて言えば、手押しされた奇妙な二輪絡繰へ目を向けられるくらいだろう。
それも物味遊山の旅人か、大道芸人か何かと判断して、すぐに他へと移ってしまう。
ジュドウがその感想を聞いたら、似たようなものだと笑ったに違いない。
いずれにせよ、これから試合おうという者の佇まい、雰囲気ではなかった。
「お?」
「う?」
と、不意に、二人の行く手にぬぅっと黒い影が差した。
見上げるような影は、大きさおよそ二〇フィートばかし。
其処に立っていたのは禿頭の巨人と、背に剣を吊るした栗毛の冒険者。
あの夜との違いはといえば巨人の持った煌めく盾と、栗毛が纏ったぴかぴか輝く具足だろう。
巨人ゴーティエと、そして冒険者テオフィルである。
忘れもしない二人の姿に、ジゼーレは叫ぶように言った。
「あっ!」
ジュドウ達がその姿を認めるのと同時、二人も彼が誰だかを思い出したようだ。
呑気に笑うジュドウを背に庇ったジゼーレが、腰のものに手をかける。
「また、何かちょっかいを出しに来たの……!?」
無論、抜剣したとして彼らを斬れるのか、という葛藤は未だある。
緊張に強張った手指と額に滲む汗が、その証拠だ。
「わぁっ、まった、待った、待ってくれ!」
「あん時はァ、オラたちが悪かっただァよ!」
が、それでも威嚇の効果はあったらしい。
冒険者たちは大慌てで手を振って、敵意がないことを示しだす。
巨人がぶんぶんと腕を振り回す度に風が起き、周囲の人が目を向ける。
「俺も酔っ払っていたし、友だちも酔ってたからな……。
だから許してくれとは言わないけれど、あの時は悪かったよ。すまない!」
そう言って、栗毛――テオフィルは、地面に付けるような勢いで頭を下げた。
あまりに必死で哀れっぽい姿に、ジゼーレとジュドウは思わず顔を見合わせる。
はぁ、と溜息を吐いたのは、果たしてどちらが先だったか。
「……わかった。許したげるわ」
毒気を抜かれたように、ジゼーレは笑った。
「あそこは、酒場だもの。酔っぱらいの喧嘩くらいなら、良くあるし……。
他のお客の迷惑を考えてくれるなら、私から、もう何もないわ」
「本当だか!?」
その言葉に、パッと巨人――ゴーティエが顔を輝かせた。
しかし何処か怯えた様子で、ちらちらとジゼーレの方を見やる。
ジゼーレは苦笑して、腰の剣から手を離した。バツが悪そうに、頬を掻いて。
「けど、ベルスと……それから、ジュドウにも謝って。そうしたら、それで良いから」
「え、あー、えー……」
視線を彷徨わせながら、ゴーティエがうっそりと片手をあげる。
「よ、よう。この間、ぶりだぁな」
対面するのはあの晩以来。
素面なのだから当然、自分達に非があったのは重々承知である。
実に居心地が宜しくない。
だがジュドウはゴーティエを見上げ、テオフィルを見ると、即座に深く頭を下げた。
――あの晩は投げ飛ばして悪かった、と言うようにである。
「お、おいおい! 待ってくれよ!」
これに慌てたのがテオフィルだ。
頭を下げるジュドウに何とか顔をあげさせようと、彼は躍起になって両手を広げる。
「何も、あんたが頭下げる事はないだろう? あの時、暴れたのは俺らなんだから……」
「っていうより、友だちはオラさかばってくれただけだべ? 謝んなら、オラだぁ」
そう言って、今度はゴーティエが巨体を縮こまらせて、深々と頭を垂れる。
流石に巨人と異人とが謝りあっているのは、衆目の興味を引くのだろう。
行き交う人々が遠目にちらちらと向ける視線が、テオフィルには痛いほど感じられた。
「ああ、くそ、これじゃあダメだ。ダメすぎる……! なんか、ないか、なんか……!」
とにかく、何とかしなければならない。
必死に思案を巡らせる彼の脳裏に、ぱっと閃くものがあった。
「それだ!」
突然の快哉。
不思議そうに首を傾げるジュドウは、人差し指を向けられ、さらに首を捻る。
「……ん。ジュドウじゃなくて、コレ、のこと?」
ジゼーレが、ふと気づいて声を漏らす。
それを聞いて、ジュドウは怪訝そうに手に持っていた紙包を掲げて見せた。
「そう、それだ。それそれ!」
我が意を得たりとばかりに頷いたテオフィルが、続いて自分の友だちを指差す。
ふむと少し考えたジュドウは、彼に向かって手にしていた『鮫卵』を差し出した。
「い、いいだか?」
ゴーティエの顔が、躊躇いと喜びとで半々に分かれた。
ジュドウが頷くと、彼は慎重に、そっと巨大な指先で紙包をつまみ上げる。
それはこの巨人にとって、精一杯の気を遣った動作だったに違いない。
そしてその包を、彼は無造作に自分の口へと放り込んだ。
瞬間、パッと彼は少年のように笑顔になった。
「んー! 少ねぇけんども、甘くて美味いだぁよ、これ!」
巨人の体躯と比べると文字通りひとつまみだ。到底足りやしない。
ジュドウが笑いながら、先ほどの屋台を指さして示す。
ゴーティエは興味津々と言った様子で屋台の様子を伺い……。
テオフィルは、ほっと息を吐く。
「これで手打ち、だな。ああ、うん……すっきりして良いや」
和解は為った。
それを何か演劇と勘違いしているのか、周りからぱちぱちと拍手が起こる。
「うるさい! 見世物じゃないぞ!」
と、一声怒鳴ったテオフィルは、ジュドウへと握りこぶしを突き出した。
意図がわからず、異国の少年は不思議そうに首を傾げる。
「ん? じゃねえよ、ほれ、こうだ、こう。こうだ、右手を!」
テオフィルは何度か彼の前で手を開閉させ、試行錯誤の末、拳を握らせる。
そしてそれを、軽くぶつけ合わせた。
「勝てよ!」
冒険者は、それだけを言った。ニヤリと不敵な笑みを浮かべて。
そして気恥ずかしくなってしまったのか、さっと踵を返して歩き出してしまう。
友だちの後を慌てて追いながら、ゴーティエが丸太のような腕を振り回した。
「おう、オラァ、でっかくて入れねェけんど、応援してっかんなァッ!」
ジュドウはにこやかに振り返って手を振ると、まっすぐ前へと歩き出す。
ジゼーレは、その後を追った。足取りも、軽やかに。
「……頑張ってね、ジュドウ」
ジュドウならば、きっと大丈夫だと。彼女には、そう信じられた。




