4-03
「もうさ、ジゼーレ。絵でも描いて見せた方が早いんじゃない?」
ベルスが羽筆と墨壺、紙を手にしてそう提案したのは、もう日も傾きかけた頃だった。
『やどかりの寝床』亭の看板に、「都合により本日休業」の貼紙をした直後である。
「……そうね。その方が早いわ」
額に滲む汗を拭って、ジゼーレはこくりと頷く。
まず、ジュドウへの説明は身振り手振りによって行われた。
彼は決して愚かではなく、ジゼーレとて手を抜いたわけではない、が――……。
「――彼の故郷に、魔術師はいなかったのかしら?」
全く未知の概念を伝え、理解することは、彼女と彼にとって困難を極めた。
手印を切り、杖を掲げ、腕を振り回し、呪文を唱え、指をさし……。
次第に、ジゼーレは自分が間抜けに思えてきてならなかった。
もし対面の彼が笑ったりすれば、彼女は顔を真赤にして飛び出してしまったろう。
そして寮の自室に閉じこもって、二日三日は引き篭もったに違いない。
だが、ジュドウはぴくりとも眉を動かさず、真剣な表情のままだ。
ジゼーレとしても、それに応えないわけにはいかない。
「ん、と……」
しかし筆を墨壺に浸したジゼーレは、しかし羽先を唇に添えて、手を止めてしまう。
「ねえ、ベルス。魔術師ってどう描けば良いのかしら?」
「そりゃ難しいねぇ」
赤毛の圃人も、珍しく真面目な様子で腕組をして考えこむ。
圃人は陽気で明るく、空気を気にも留めないが、友人の危機とあれば話は別だ。
「いっそ魔術師じゃなくて、杖から稲妻でも飛ばすような風にしたらどうだい?」
「あ、なるほど」
それもそうだと頷いたジゼーレ。さっと紙の上に羽筆を走らせた。
クルランド公爵領は海辺で、河も流れているから、お陰で製紙場も幾つかある。
水車漉きの紙は特筆するほどではないにしても、決して悪い品ではない。
問題は紙でも筆でもなく、描き手の方だ。
「……なんだい、こりゃぁ」
「ま、魔術師よ……っ」
へろへろと触手を伸ばすクラゲの絵を前にして、ジゼーレは赤面した。
「いや、流石にジュドウも、これじゃわかんないと思うよぉ……?」
「あ、ちょ、ちょっと!」
さっとジゼーレからその紙を取り上げ、ベルスはジュドウへと差し出す。
それを示されたジュドウは物珍しげに、その紙をいじくり回した。
灯りに透かし、撫で、表裏をかえし、ためつすがめつ観察する。
ジゼーレは耐え切れず、ますます顔を赤くして俯いてしまう。
と、不意に、はたとジュドウが膝を打った。ジゼーレとベルスに向けて、手招きをする。
「ん、なんだい。筆かい? ほら、ジゼーレ」
「…………はい」
不貞腐れていたジゼーレが友人に促され、ぶっきらぼうに羽筆を突き出す。
受け取ったジュドウは、少し考えた後、さっと紙の余白に筆を走らせた。
円の頭と棒の手足を持った人。
手には、やはり線一本で描かれた棒を持っている。
そして涙滴に目と口のある生きもの。
最後に、その生きものを焼く炎。
「あ……!」
一転、ぱっとジゼーレの顔が明るくなった。
――彼は、ちゃんと理解してくれたのだ!
こうか?と小首を傾げるジュドウへ、彼女はぶんぶんと何度も首を縦に振る。
それを見て何やら考え込んだジュドウは、まず、彼自身を指さした。
続いて絵図の魔法使いを指さし、最後に座ったまま、天地に腕を構えて見せる。
「お、ジゼーレのよりはわかりやすいね」と、ベルス。
「うるさい。……ええ、その通りよ、ジュドウ」
ジュドウは顔をしかめ、頭を抱え込み、卓上へと突っ伏してしまった。
――無理もない、とジゼーレは思う。
彼は異邦人。寄る辺なき漂流者なのだ。
身一つで流れ着き、ようやく落ち着きかけた所で、またしても騒動に巻き込まれた。
いや、巻き込んだのだ。彼女たちが、彼を。
その事実が、ジゼーレには何とも重い。
と、ベルスが努めて軽い様子で口を開いた。
「……でも、かえって良いかもしれないね、負けた方が」
「ちょっと!」
思わず、ジゼーレは卓に手をついてベルスへと詰め寄った。
ベルスはそれにちょっとたじろいだ様子を見せ、言い訳がましく自らの赤毛を弄ぶ。
「だってさ。身元不詳の異人が、領主様に仕えることになるんだから。悪くないじゃない」
「負けて……生きていれば、でしょう?」
「そりゃ、まあ、そうだけどさ」
「それに――――……」
――そもそも私のせいだ、とは。彼女は言えなかった。
あの夜、二人の冒険者を自分が上手く諫める事ができていたら。
ジュドウが領主の眼に留まる事もなかったろうに。
けれど、もしそれを口にすれば――ベルスがもっと気に病むだろう。
だからジゼーレはそれを言わない。言わないまま、ぎゅっと唇を噛み締めた。
二人の言い争う様子を見たジュドウもまた、沈鬱な様子で黙りこんでしまう。
「ああ、もう、考えすぎだって」
ベルスが、からからと笑っていった。
「大体、二人揃って落ち込んでも、なんにもなりゃしない。
いざとなりゃ逃げ出したって良いんだし……。
だいいち、ジュドウが勝ちゃあそれで済む話じゃないの!」
「でも……」
と、ジゼーレが眼を潤ませて彼女を見上げる。ベルスは呆れたように溜息を吐いた。
「でもも悪魔もないの。ほら、立った立った!」
「きゃっ!? ちょ、ちょっと、ベルス!?」
赤毛の圃人は、有無を言わさずに二人の腕をとって椅子から立たせる。
そしてそのままの勢いで、ぽんと二人の背を叩いて扉へと押し出した。
「ほら、二人とも外出て、夜風にでも当たって、ちょっとは頭冷やしてきな」
ジュドウとジゼーレは、困ったように顔を見合わせた。
その背後でバタンと扉が音を立てて閉まり、二人の間を夜風が抜けていく。
「あ……」
潮風になびく黒髪を抑えて、ジゼーレはそっと眼を細めた。
夜の砂浜は冷え冷えと青ざめている。
間近に波の打ち寄せる音を聞きながら、ジュドウとジゼーレは立ち尽くす。
二人の視線は――天頂へ、向けられていた。
「今日はズィンケルンの月だったのね。すっかり忘れてた」
赤と碧、双子の月の姿は、そこに無い。
かわりに浮かぶのは、仄暗く輝く、青白い独りの月。
幻のように揺らめいて、手の届かないような遠くに、ぼんやりと漂う。
「一月に一度、双つの月が重なるのよ。理由はわからない、けど……」
ちらりと、ジゼーレは傍らにいる彼の様子を伺った。
「……綺麗な月、よね」
ジュドウは呆然としたような様子で、それを見上げていた。
彼のこんな表情を、ジゼーレは前にも見たことがあった。
出会った日の、波止場で。彼は同じように、双つの月を見ていた筈だ。
「ね、ジュドウ?」
その様子が、あまりにも寂しそうに思えたものだから。
ジゼーレは、そっと彼の手を引いて砂浜へと腰を下ろした。
引き締まった半身を包む下衣に砂がつくが、気にした風もない。
「貴方は、やっぱり帰りたい……と思っているのかしら」
並んで座るジュドウからの返事はない。
ただただ、青い光に囚われたように、彼は独月を見上げている。
彼女には、その表情だけで十分だった。
――――帰りたくないわけがない。
如何なる理由で彼が遭難したのかは、未だ判別がつかないけれど。
自らの意思で故郷を離れた者のする顔では、ないように思えた。
ジゼーレは、そっと自分の細い膝を抱き寄せ、そこへ顔を埋めるようにして俯いた。
瞼を閉じれば、遠い昔に死んだ自身の父と、母の姿が、朧気に浮かんでは消えていく。
彼には父親がいるのだろうか。母親は。兄弟は。友だち。恋人――も。もしかしたら。
「当然、よね」
ぽつりと呟く。
言葉は通じないまでも、彼は好漢であった。
どのような事情があれ、家族や友人を蔑ろにするような人物には思えない。
そんな彼を、巻き込んでしまった。
ジゼーレの小さな胸は自己嫌悪で溢れ、いっそ心臓を引き裂いて死んでしまいたくなる。
だが――――……。
「……ジュドウ?」
不意に頭にぽんと、手が乗せられて。ジゼーレは、首を巡らせる。
呆然と月を見ていた筈のジュドウが、その黒い瞳をジゼーレへと向けていた。
わしゃわしゃと不器用な手つきで、彼はジゼーレの髪を梳く。
青い光に照らされたその表情は、強い意志を固めているようで。
真っ直ぐに見つめられて、ジゼーレは自分の頬が熱を帯びるのを自覚する。
――嗚呼、彼は戦う気なのだ。
驚き、うろたえながらも、逃げ出す事無く、立ち向かうつもりなのだ。
……何故、なのだろうか。
異郷の地へ一人放り出され、得体の知れぬ魔術師との対決を強要されたとして。
ジゼーレは自分がこれだけ落ち着いていられようとは思えない。
ましてや、その状態で誰かの事を気遣うことなど。
この戦いから逃がそうなどという考えは、彼を侮辱することに他ならない。
自分の勝手な判断で、そんな事をして良いのだろうか。
御前試合の選考から外された時の、自分の気持ちがまざまざとジゼーレの内に蘇る。
だがしかし、このままでは彼を魔術師と戦わせる事になる。
勝てば良い。だが、負ければ?
心配と、矜持と、懸念と、不安と、一緒くたに頭の中で渦を巻き、そして――…。
「…………ッ」
遂にジゼーレは頭に乗せられた手を振り払い、その意地に賭けて立ち上がった。
「ジュドウ!」
腰に手をあて、ジゼーレはくるりと振り返る。月空を背景に髪が翻る。
ジュドウが、呆気に取られたような表情で彼女を見上げていた。
「私が、その……」
言葉が、上手く出てこない。言いたいことはわかるのに、口から紡ぐ事ができない。
気持ちを、想いを、言葉にするのは、どうしてこんなに難しいのだろうか。
感情が昂ぶり、自然と目尻に涙が滲んでしまう。
ジゼーレは唇を噛みしめる。
「何とか、するから……っ」
言葉の意味が通じるとは思っていない。そもそも、自分だって良くわかっていないのだ。
だが、それでも意志は伝わるだろう。
この決断が間違っていないとも思っていない。だが、正しくはある筈だ。
そう信じて、ジゼーレは懸命に言った。
「だから、思い切り……やりなさいッ!」
静かな砂浜に、叫ぶような彼女の声が木霊する。
ふーっふーっと荒く息を吐いて呼吸を整えながら、ジゼーレは睨むように彼を見た。
ジュドウは――月光の下、微かに笑っていた。
そっと、彼が下から手を差し伸ばす。
「……ん」
彼女のか細い手とは正反対の無骨なそれを、ジゼーレはそっと握りしめる。
事と次第によれば、ジュドウを守り、騎士として公爵の命令に背くのだ。
無論この土地にはいられなくなる。悪くすると追手の類もかかろう。
遍歴の騎士。それもまた良し、だ。
この四方世界を旅して、ジュドウの郷里を探すには、むしろ望むところ。
ジュドウを、この異国の少年を、無事に故郷へ帰してやらなければなるまい。
――今やこの小柄な騎士ジゼーレ=グリジは、自らの責任をはっきりと理解していた。