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俄雨は瞬く間に通り過ぎ、遠く海の彼方に暗雲の名残を見せるばかりとなった。
夕暮れの海辺に、さざ波に混じって、湿気った砂を蹴る蹄音が響く。
逞しい四肢で駆けるのは、実に見事な青毛の巨馬である。
一方、乗り手は馬に比べて見るからに小柄な、十代も半ばの黒髪の少女だ。
雪のように白い肌、細面をきっと引き締め、青い瞳が前を見据えている。
目の細かい鎖帷子、黒に白い白鳥が染め抜かれた上衣、腰帯には長剣を佩いて。
薄曇りの夕陽に青く透ける黒髪を靡かせた、それは見目も麗しい女騎士であった。
彼女の目尻が赤く、睫毛が濡れているのは、何も雨のせいばかりではない。
ジゼーレ=グリジは、あまりの悔しさと情けなさに、ぎゅっと唇を噛んでいた。
* * *
警邏の勤めに向かう支度をしていた彼女の自室に、友人が訪ねてきたのは昼頃だった。
騎士団寮前に高級な二頭立て馬車が留まり、中からそれ以上に高級な娘が降り立つ。
金の巻き毛のバティルドは豪奢な着物と豊満な胸を強調して、いつもその下で腕を組む。
見すぼらしいとさえいえるジゼーレとは、何もかも正反対の華やかさだ。
仮にも領主クルランド公爵令嬢たる彼女が、なぜ傭兵騎士の末娘を友人と見るのか。
ジゼーレにも図りかねるところはあったが、しかし幼い頃からの付き合いである。
その間、彼女の気紛れで舞踏会へ誘われ、傍らに控える事は何度もあった。
今日バティルドが来たのも、そうした何か催しへの誘いだろう。
そう思い着替え半ばの失礼を詫びながら、ジゼーレは彼女を質素な自室へと招き入れた。
質素な部屋だ。古い木床はぎしりと軋み、壁からは隙間風が抜ける。
バティルドは、いつもと同じようにフンと可愛らしく小鼻を鳴らした。
「わたくし今朝方、父様のお作りになった名簿を、ちらと覗いたのですけれど」
老婆心から忠告に来たのだというバティルドは、それにしては居丈高な口調だった。
「貴女、御前試合の選手候補から漏れましたわよ」
その言葉に、ジゼーレは巻こうとしていた腰帯を思わず取り落とした。
年若い女性であるから――との事だが、それが理由でない事は明らかだった。
候補者の中にはジゼーレ以外にも、数少ないとはいえ女騎士の名が残っていたのだ。
成程、確かに体格では男はおろか女にさえ、彼女は明らかに劣っている。
これが体格が大きく物を言う馬上槍試合ならば、仕方がないと諦めることもできよう。
だが、御前試合で競われるのは剣術であり、体術であり、武術であり、業なのだ。
見栄えが悪い。華やかさに欠ける。ジゼーレが選考から漏れた理由は、それだけだ。
自信は、あった。
彼女らよりも剣技に長けているという自負は、驕りではなく確かにジゼーレの中にある。
業でならば自分は誰にも負けないと。
「気分転換にお裁縫や舞踏の手習いでも始めては如何?
ああジゼーレ、誤解なさらないで。なにも、諦めろというのではなくてよ。
ただ、貴女みたいな娘でも好いて下さる、稚児趣味の殿方もいるかもしれませんから」
そう言って、バティルドは口元を扇子で隠して笑っていた。
ジゼーレは何と言ってバティルドに暇乞いをし、警邏に向かったのかを覚えてはいない。
普段ならば馬を走らせるだけで嫌なことも忘れられるが、今日はそうはいかなかった。
思い返すだけで気持ちが昂ぶり、ぽろぽろと涙が零れ出す。
感情を抑え込めない自分が情けなくてたまらず、また涙が溢れる。
一転俄にかき曇って降りだした大粒の雨は、彼女にとって天恵であった。
黒塗りの雷雨の中、馬を疾駆させる女騎士が、馬上でぐずぐず泣いているとは。
すれ違う領民達の誰もが、想像だにしない事だったろう。
担当の順路を一巡りして浜辺へと出る頃には、空も、彼女も、泣き止んでいたが……。
「……情けない」
すん、と小さく鼻を鳴らしながら、ジゼーレは小さく呟いた。
手綱を緩め、息の荒い愛馬の歩調を落とさせてやる。
思い通りにいかないからと、悔しさのあまり走りだし、馬にも無理をさせた。
まるで幼女ではないか。騎士見習いたる従者でさえ、こんな振る舞いはしない。
亡き父が今の自分を見たら、果たしてどう思うだろう。
傭兵まがいと言われながらも武勲でもって所領を得た父ならば。
きっとこのような見苦しい真似を娘がすることだけは、許さないだろう。
研鑽を積むのだ。認められるその時まで。たとえ認められずとも。
それは父の騎士としての矜持であり、娘である彼女の精一杯の意地でもあった。
しかし、だからといってすぐに街まで戻るだけの勇気も無い。
未熟で、無様で、小柄で、痩せっぽちで、意地っ張りの、情けない娘。
それがジゼーレ=グリジである。
「……ッ、泣かないのよ、ジゼーレ。貴女は騎士なんだから」
また眼鼻の奥にツンとした痛みを覚え、慌てて彼女は眼を擦る。
だが堪え切れず、またしても涙が滲み出し――……。
びかり、と。海の彼方で稲光が閃き、雷鳴が轟いた。
それは異様な青光りを放ち、地から天へと昇るような、逆しまの電光であった。
思わず涙の引っ込んだジゼーレは、ぱちくりと青い瞳を瞬かせる。
眼を凝らすと黒雲の中に遠く、竜が踊っているのが見て取れた。
「…………港の方、注意しに行った方が良いかしら」
竜の踊るような晩、沖の海は荒れるという。
船が迷ってはいけない。彼女が指摘するまでもなく灯台に火は入るだろうが……。
街へ戻る名目を手に入れたジゼーレの心は、それでようやく落ち着きをみせた。
鼻下を擦って、すん、と最後に小さく啜り上げると、彼女は馬を巡らせる。
そっと愛馬の首を撫でてやると、彼の肌は随分と冷えてしまっていた。
「ごめんなさいね。雨の中、走らせてしまって……」
その時だった。
またしても稲光が煌き、砂浜近くの岩辺に横たわる、黒い影を浮かび上がらせた。
それは、どうやら人であるらしかった。
ひらりと、ジゼーレは見事な軽い身のこなしで鞍から飛び降りた。
左手で腰の剣、鍔口をしっかと握り締めながら、ジゼーレは恐る恐る、歩み寄る。
混沌の勢力との戦いは一先ずの決着を経て久しいが、油断はならない。
秩序と混沌の争い自体は、いつ果てるとも無く繰り返されているのだから。
「もし……もし!」
誰何の声にも、返事はない。
その人物は仰向けに倒れたまま、死んだように身動きしていない。
いや、死んだ「ように」ではないのかもしれないが……。
ジゼーレは膝が汚れるのも構わず傍らに跪いて顔を覗き込み、あっと驚いた。
薄明かりに照らされたその人物は、異人の少年だったのだ。
年の頃は、ジゼーレより年上か――いや、下かもしれない。良くわからない。
大人びた少年、と表現するのがしっくり来るような顔立ちだ。
短く刈り込まれた髪はジゼーレのそれより尚暗く、鴉のような黒色をしている。
血の気が失せて青ざめた肌は、それでもジゼーレより色が濃く、日に焼けた赤銅色だ。
そしてやはり黒色の、天鵞絨で出来たような詰襟の上下。
都で流行の衣裳だったように思うが、しかし明らかに異国の着物であった。
随分と仕立てが良いが……洒落に疎いジゼーレにも、このちぐはぐさは奇妙に見えた。
彼の身の丈は、小柄なジゼーレよりもやや高いほどであろう。
同年代の男子にしては、やはり随分と背が低い。
だが、彼の体躯が彼女同様に華奢か、というとそうではなかった。
がっしりとした肩幅は、鍛えられた武官のそれに近い。
そして彼の右手は、しっかりと背嚢の肩紐を握りしめていた。
鞄の口は開いていて、中には奇妙な字で記された書物が垣間見える。
もしや、どこぞの船が難破でもして流れ着いたのだろうか。
しかし周辺に船の残骸めいた漂着物はなく、そんな報告もジゼーレは聞いていない。
そもそも、こんな姿形の人種を、彼女は知らなかった。
「……何処の国の人かしら」
ジゼーレは細い指を唇に当てて呟く。
と、その時、閉ざされていた彼の瞼がぴくりと震えた。
――まだ息がある!
はっと気づいたジゼーレは、ぴしゃぴしゃと軽く彼の頬を叩いた。
「大丈夫ですかっ? 名前、わかりますかっ?」
焦点のあってない瞳が、ぼんやりとジゼーレの青い目を見つめる。
ジゼーレは、息を呑んだ。
彼の両眼は、見たこともないような漆黒の瞳だった。
唇を微かに動かし、囁くようにして異国の言葉を呟くと、彼はすぐにまた目を閉じる。
「すぐ、暖かい場所へ向かいますからね……!」
些かの躊躇もなく、ジゼーレは彼の身体を抱き起こした。
脱力した男の肉体は重く、そして冷えきってしまっている。これは危ない。
ジゼーレはきつく歯をくいしばって力を込め、彼と背嚢を愛馬の背へと押し上げる。
本来なら毛布で包むべきだが、生憎と彼女の上衣は雨で濡れそぼってしまっている。
さらに開いた鞄を閉じようにも、奇妙な歯の連なりがあるだけで、紐が見当たらない。
「……仕方ないわ」
自らの不準備と非力さに歯噛みしながら、ジゼーレもまた鞍へひらりと跨った。
「もう少し、頑張って」
そっと愛馬の首筋を撫でて囁き、彼女は拍車をかけた。
軍馬は嘶き声も高らかに、砂を蹴散らして走りだす。
彼女の背を追い立てるように、遠い空の竜がキンと甲高い声で吠えた。