言葉をひらく
わたしは片付けてしまう言葉を出来るだけ小説や詩の中で使いたくありません。(使っていないという意味ではありません。どうしても片付ける言葉で表現せざるを得ない場合もあります。特に小説では。)
片付ける言葉とは、汎用的に説明してしまう言葉のことと言えます。例えば、
『雨が降っている。』
わたしは、雨に思い入れがありますので、これだけでも詩情を感じますが、しかしこれは片付ける言葉の仲間でしょう。言いかえれば閉じた言葉です。この言葉をひらけば、
『路地に雨が降っている。空は明るいのにどうしてわたしを濡らすのか。』
わたしがやればこのようになりました。もちろん、ひらく人によって結果は異なるでしょう。
言葉をひらくとは、想像の窓をひらくということです。固まってしまっている言葉の塊をほぐし、思い描くイメージを展開することです。
しかし、一面で印象を固着してしまう効果が否めません。言うなれば小説とアニメの違いでしょうか。とはいえ、人の想像力は思いがけないものですから、同じものを見ても感じ方は千差万別です。だから、ひらいた言葉からの広がりは無限であるとも言えるのです。
わたしが言いたいのは、例えば
『石になったこころ』
などという、ステレオタイプの物言いが耐えられないと言うことであり、また脈絡もなく出現する自分勝手な表現である、
『交差しない赤い紐』
のような作者の印象だけで閉じてしまって、読み手に過剰な読解力を強いる表現を使うべきではないと言うことです。
きっと、伝えたいことがあってのことでしょうから、そのような詩であれ文章であれ、もっと読み手に寄り添えばずっといいものになるはずなのです。分かり易いことと浅いことは違いますし、難解なことと深遠なことも等しくないはずです。 本当に高邁な作品には気品があり、難解であっても惹きつけるものがあります。わたしにはそのような作品は到底書けはしないので、せめて難解でなく品を損なわないものを目指しています。
具体的にもっと言いますと、例えば
『月が照らしていた/僕は泣いていた』
これをひらきます。
『純白でない遠ざかる輝き/月の下に僕はあり/貫く冷酷に止められない涙』
この文章の評価はさておいて、つまりは己の中の言葉であるかどうかなのです。あるいは、己の中に響いてくる何かがあること。感覚的な直観的な言葉であろうとする姿勢なのです。その姿勢に対する真摯さこそが気品に繋がるのであろうし、直観的な自分を見失わないことがオリジナリティに繋がるのだと思うのです。
お読み頂いてありがとうございます。