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わたくし、残念ながらその書類にはサインしておりませんの。

作者: 朝霧 心惺
掲載日:2026/10/17


「リリーシア・ソフィア・リーラー。冷酷卑劣な守銭奴め、今この瞬間を持って俺は、貴様との婚約を破棄する!!」




 今宵、王宮の煌めくシャンデリアの下で起こるは、美しいダンスだけのはずであった。


 そんな空気をぶち壊したのは、腰まで伸ばし1つに結われた太陽のような金髪と切れ長で空色の瞳、そして麗しい相貌を持つ男、テオドール・ライリッヒ・クロイツ侯爵令息であった。



「あらまぁ」



 相対するは、天使の羽のような純白の髪を艶やかに巻き上げ、ガーネットのような釣り上がった瞳に合わせたであろう深紅のマーメイドラインのドレスに身を包む絶世の美女リリーシア・ソフィア・リーラー伯爵令嬢。


 テオドールによって高らかに告げられた言葉に、リリーシアは純白の髪を靡かせ、先程まで浮かべていた驚いた顔を引っ込める。


 そして、悪役顔にはどハマりな高圧的に微笑みながら首を傾げる。




「——いったい誰と誰の婚約ですって?」



 うふふっと馬鹿にするように笑うと、この国でも指おりのイケメンと有名なテオドールは、その美しい顔に似合わぬ赤子のような地団駄を踏み、そしてビシッと指差し大声で告げる。


 その様子が周囲にどのように受け取られるのか、温室でぬくぬくと生ぬるく育てられた彼には、全くもって分からないのだろう。



「はぁ!?俺と!お前の!だよ!!」



 舞踏会の会場のど真ん中、本来ならば麗しいダンスが披露される場所でテオドールが場違いにわんわんと騒ぐものだから、ものすごい勢いで視線が集まってくる。


 ひそひそこしょこしょと噂好きの貴族たちによって、格好の餌となる。



(あぁ、なんて、………なんて、———愚かで滑稽なのかしら)



 テオドールは今現在、自分自身に対して何が起こっているのか、さっぱり分かっていないのだろう。


 愚かで、無知で、働かず贅沢をすることが美徳であると考える昔ながらの貴族らしく、何にも理解できていないのであろう。



 あまりの愚かさに呆れ返って、柄にもなく憐憫の視線を向けてしまいそうになるリリーシアは、咄嗟に表情筋がお仕事をしてしまいそうになるのを我慢し、怒り心頭のテオドールに向け、心当たりがない故に困ったような表情と声音で尋ねる。




「わたくし、貴方さまに対し、このような公の場で、しかも大声で怒鳴られながら断罪されるようなことを、何かいたしましたでしょうか?」




 彼の顔が、目に見えて真っ赤に染まる。


 人間が激昂する瞬間は、何ともわかりやすいものだ。



「我が愛しのベリーラを虐めておいて、何という言い草だ!!」



 むぎゅっとテオドールに抱きしめられた、彼の隣に立つ愛くるしい少女にリリーシアは視線を向ける。



 ——ベリーラ・ミュリエル・フィアリア男爵令嬢。


 くるっと内巻きの栗毛と庇護欲をそそるぱっちりと大きな桃色の瞳、小さな身体。

 そして何より、―――大きなお胸。



(………………男性はあそこでしか女性を選べないのかしら………)




 お胸がばいーんと出た挙句、膝丈のふりっふりなドレスは、まるで娼婦が着るソレのようで、王家主催の夜会という格式が高い夜会に分類されるこの場には、あまりにも相応しくない。


 というか、常識を持っている人間ならば、彼女のようなドレスは絶対に着てこないし、こういうドレスしか持っていないのであれば、夜会には絶対に参加しない。



「いやぁん、テオぉ!こんな場で抱き合ったら恥ずかしいわぁ!!」



(………何ともお盛んなことで)



 すんと冷めた目線を向けると、びくっとベリーラが肩を強ばらせた。


 それを本当の仕草だと勘違いした馬鹿が、彼女の身体を抱きしめる。



「あぁ!可哀想にベリーラ。こんなにも怯えてしまってっ!!」



 隠すように抱きしめられたベリーラの口元は、びっくりするぐらい満足そうに卑しく歪んでいる。



「嫉妬に狂ったお前は、こんなにも愛らしいベリーラに、残虐な行いをし、何度も泣かせたんだ!!だが、俺とベリーラは優しいから、お前に挽回の機会をやろう。地面に額を擦り付けて謝れっ!!」


「………………」



(………?言い分ってこれだけ?)




 あまりにも拍子抜けしてしまいそうなほどに薄っぺらい内容に対し、リリーシアはニコッと微笑む。


 相手の言い分は十分聞いてやっただろう。


 何とも拍子抜けしそうなくらいに内容がない挙句、物語のテンプレにも入れないくらいに滑稽なセリフは、あまりにも杜撰ではあるが、これ以上時間を浪費することはない。



 ここからは、リリーシアのターンだ。




「わたくしと貴方さまは、婚約に際し、何か行いましたか?」



「——は?………神殿に行く書類にでもサインしたんじゃないか?」




 適当な言い草に、リリーシアはうんうんと頷く。


 本当に婚約したのならば、リリーシアたちはその書類にサインをし、今頃神殿へと提出しているであろう。



 しかし、



「わたくし、残念ながらその書類にはサインしておりませんの」



 婚約とはすなわち、家同士の契約だ。


 互いの家に強い利益を生むために結ばれる、愛なき結婚のための契約。


 故に、双方の利益に矛盾を生じさせぬために、片方の家が全ての不利益を被らないために、簡単に反故にできないようにするために、書面に残し契約する。




 契約は絶対であり、不変だ。




 商売人の家系であるリーラー家は、契約を何よりも大事にする。


 契約を守ることそれすなわち信頼と信用を守ることという考えを持ち、反故にすることは命を賭してもありえない。




 もしも彼と本当に(・・・)婚約をしていたのならば、リリーシアは彼のことを殺してしまうほどに怒っていただろう。


 でも、リリーシアは今、怒っていない。





 だって、彼とリリーシアは婚約などしていないのだから。





「クロイツ侯爵令息。貴方さまは勘違いなさっていらっしゃいますわ。わたくしと貴方さまは、婚約などしていませんもの」



 鼻で笑いそうになるのを必死に我慢しながら、リリーシアは微笑む。


 ベリーラがアングリと口を開けているのが見えるが、知ったことではない。



「そんなはずない!!お前は俺の家に挨拶に来たではないか!!」



「えぇ。ですが、その場で破談となりましたわ。我が家に一切の利益がなかった上に、高圧的で、到底受け入れられませんでしたから」



「貴様!!」




 怒鳴ることしかできないのかと問いただしたくなるような会話に苛立ちを覚え始めたリリーシアは、凍てつく視線をテオドールに向ける。




「では何故俺の最愛であるベリーラを虐めたッ!!」




 何故最愛のベリーラの表情の変化に、テオドールは気が付かないのだろうか。


 いつ何時も大好きな人にばかり視線がいってしまい、相手の好きなことや思考にばかり思いを馳せてしまうリリーシアには、全くもって理解できない。




「そもそもが間違っているのですわ」




 リリーシアがバサっと扇子を広げ、上品に口元に当てた瞬間、カツンという軍靴の音が大きくいた。



「——お待たせ、リリー」



 コントラバスのように優美で、優雅で、惹きつけて止まない麗しい声に、リリーシアの胸はとくんと高鳴る。



「………るかさま」



 甘えるような声を上げた瞬間、リリーシアは愛おしい人に背後から力強く抱きしめられた。



「ひとりにしてごめんね?父上とのお話が長引いちゃって………」



 ちゅっという甘やかな音と共に額へとくちびるが落とされる。



「いいえ、ルカさま。わたくし、貴方さまが好きな強い女の子ですから、ひとりでも平気ですわ」



 本当は心細かったなんて、死んでも言わない。


 ひとりじゃなくなって、集まりすぎた視線の中でも十分に息が吸えるようになったリリーシアは、テオドールに向かって満面の笑みを浮かべる。




「そもそも、わたくしには、最愛の婚約者がおります。貴方さまは、わたくしにとってその他大勢のひとりであり、気にするに値しない人間。そこにいるリスさんを虐める理由なんてないのですわ」


 そんなわけないとブツブツと呪文のように唱え始めたテオドールに、リリーシアは首を傾げる。



「そもそもなのですが、貴方たちは何というお名前なのでしょうか?勉強不足で申し訳ないのですが、わたくし、貴方たちのお名前を存じ上げないのです」



「はあ!?」



 うるるっと泣きそうなふりをして言った瞬間、周囲を取り囲んでいた貴族たちの中から押さえた笑い声が響き始めた。


 婚約破棄を叩きつけておきながら、相手に名前を知られていなかったなんて滑稽な話、演劇でもなかなかないレベルのことだろう。



(まあ、本当は存じ上げているのですが………。ここまで辱めていただいたのですから、これぐらいの応戦は目を瞑っていただけますわよね?)



 漆黒の薔薇が咲き誇る深紅の薔薇のドレスを捌いて1歩前に進み出そうとしたリリーシアは、自分の肩に乗っている愛おしい人の手をペシッと振り払おうとして、そして失敗した。



「えっと、ルカさま………?」


「何だい、可愛いリリー」



 うっとりする声にそのまま彼の腕の中でもいっかというとんでもない思考に辿り着きそうになるが、己を律したリリーシアは困ったように眉を下げる。



「このままでは前に進めませんわ」


「進む必要ないんじゃないのかな?あんなゴミに近づいたら、私が堪能できるリリーが減ってしまうじゃないか」



「………え?へ、減りませんよ?」


「いいや、減ってしまうね。そもそも、私は1分1秒でさえも可愛くて可愛くて仕方がない君のそばから離れたくないんだ」


「ふぇっ」



 ちゅっと耳元に甘やかなくちびるが落ちてきて、リリーシアはビクッと肩を跳ねさせた。


 首にデコルテ、指先まで覆う漆黒の百合柄のレースをするりと撫でた愛おしい男を振り返り、リリーシアは困ったように眉を下げる。



「ルカさま………、」



 少し長めながらも清潔感ある切り方をされた夜闇のような漆黒の髪、全てを見通すような切れ長で深い紅の瞳、そして、この世のものとは思えぬような美を湛えた相貌。


 ——リリーシアの愛おしい婚約者。


 うっとりと甘い、お砂糖のような空気が流れ始めた瞬間、激昂したテオドールがビシッと指を指した。



「そもそも!貴様は何者だ!!侯爵家の嫡男たる俺の前に立ちはだかるなど無礼も甚だしいっ!お前の家を没落させてやるっ!!」



 小物ゆえにきゃんきゃん情けなく吠える子犬に憐憫の表情を向けながら、リリーシアは何とも楽しそうな声を上げるルカに視線を向ける。

 相変わらず、リリーシアの身体は彼の腕に囚われている。



「だってさ、リリー。私の家は没落するらしいよ?」


「まぁまぁ、びっくりですわね。でもご安心くださいな。ルカさまだけは、このわたくしが責任を持って幸せにして差し上げますから」


「ははっ、私のお嫁さんはとっても健気で可愛いなぁ。食べちゃいたいくらいだ」


「まぁ!お戯れを」



 頬を赤く染め上げたリリーシアは、——本気だ。


 もしも、億が一にも彼の実家が没落をしたら、彼を連れて異国の地に向かう。

 リリーシアは、それほどまでに彼のことを愛している。

 伯爵家では到底釣り合わないルカの隣に立つために勉学や礼儀作法に励み、家の勢力を伸ばし、ようやく手に入れた場所を守るために、たとえ敵が世界であったとしても、彼の味方になり、彼のために戦う。


 リリーシアは、誰よりも、何よりも、彼を愛しているのだ。



「………このクソ男がっ、………………ぶっ殺してやる」



 またもや流れ始めた甘い空気に対し、テオドールが底冷えするような声を上げた。


 彼の前には、冷ややかに微笑むルカ、そして、………凍てつく海さえも生ぬるく感じる氷結の微笑みのリリーシアがいる。



「………今、なんとおっしゃいました?」



 リリーシアの怒りにすらも気づかない愚かな男は、にんまりと笑って、自分の首をしゅっと切るような仕草をした。


「ぶっ殺すっつったんだよ。そっちにいる愚かな男をなっ!!」


 大声をあげて笑う彼に、リリーシアは笑顔のまま激怒する。



「………ルカさま、わたくしが今からやることに対しての文句があるのならば、先に聞いて差し上げますわ」


「ははっ、リリーってばかぁわいぃ。私のことでそんなに怒ってくれるなんて、夢みたいだ。でもね、リリー。これだけは覚えておいて。私は、君の意識がほんのわずかにでも他人に向いているという今の状況が頗る気に入らないんだ。後で目一杯、甘やかさせてもらうよ」


「あらまぁ、嬉しいことをおっしゃっていただけましたわ」



 ころころと嬉しそうに微笑んだリリーシアは、自らの手に閉じた扇子を苛立ちを示すかのように一定のリズムで叩きつける。

 そして、テオドールに向かって、愛らしく、美しく、妖艶に首を傾げて見せた。



「ねぇ、おバカさん。貴方、逆鱗はご存じ?」



 怪訝な顔をしたテオドールに、優しいリリーシアは教えてあげる。


「逆鱗というのはね、竜の持つ特別な鱗のことを言いますの。竜には、首元に特別な鱗、逆鱗が存在していると言われていますわ。竜はその鱗に触れたものを殺してしまいますわ」



 愛おしいルカの瞳の色のドレスの裾をふわっと揺らしたリリーシアは、次の瞬間テオドールに対し殺気を向ける。



「貴方は、わたくしと『さる高貴なお方』の逆鱗に触れた」



 瞬間、鳴らされるは高らかなラッパの音。



「貴方のお家は、今夜間違いなく消え去りますわ」


 にっこり妖艶に笑ったリリーシアの笑みは、この世に存在する宝石の輝きには勝てないほどに輝かしく、花では勝てないほどに華やかで、どんなに甘くて美味しいお菓子よりも甘美な空気を纏っていた。



「国王陛下のおなーりー!!」



 衛兵が上げた声に合わせて、ある男を除き全ての人間が深く頭を下げる。


 この国の太陽にして、絶対的君主、賢王と名高き王は、幼少期からのその優秀さと歪さを以て、たった数年にして小国であったリオネル王国を絶対的な権力と支配力を持つ大国へと育ててみせた。


 その王の名は、ルフェーブル・ランスロット・リオネル。


 家族をこよなく愛する二児の父であり、王妃である妻を独り占めしたいがために溺愛監禁し、公務に一切出席させない、挙げ句、息子でさえも男であるという理由から王妃への面会謝絶をしているという徹底っぷりを持つほどの異常性癖を持つ、神に国を治める才能の代わりに常識を全て取り上げられた変人である。




 空気がピリリと張り詰め、絶対的君主の鳴らす軍靴の音に誰もが息を呑む。


 武術を僅かにでも齧ったことがある人間ならば、ルフェーブルの鳴らす軍靴の音から、彼の動き全てにおいて一切の無駄がないことがわかる。



 かつん、


 軽やかな音が、リリーシアのすぐ目の前で鳴った。



「………数年にもわたる留学からの帰宅早々、家族ではなく愛おしい婚約者のもとに一直線とは、いい度胸だなぁ?ルカーシュよ」



 この会場内で唯一軽くしか頭を下げていなかった男に、ルフェーブルは楽しげな声をかけた。


「ははっ!何をおっしゃいます、“父上”。貴方だって毎度毎度帰宅1番に挨拶をするのは母上ではありませんか」


 緊張を打ち砕くかのような爽やかな声を上げたルカに、どよめきが広がる。


 呆然と伏していた顔を無意識に上げたテオドールが、わなわなと身体を震わせる。



「は、ぇ、はぁ!?」



 そして、国王の御前でありながら、突拍子もない悲鳴を上げた。


 もちろん、親子団欒の和やかな空気に割って入ったテオドールに対し、ルフェーブルは絶対零度の視線を向ける。



「コレはなんだ、ルカーシュよ」


「リリーシアの婚約者だそうですよ」



 にこやかに話すルカの声により、空気の緊張が一気に高まり、重圧感が増す。

 この空気に比較的慣れているリリーシアでさえも、背中に嫌な汗がじっとりと浮かんでしまった。


「リリーシア、どういうことかね?」



 ルフェーブルからの問いかけに顔を上げたリリーシアは、ゆっくりと緊張を落ち着かせるためにカーテシーを行ってから、にっこりと微笑みを浮かべる。


「お久しゅうございます、陛下。リーラー伯爵家が長女、リリーシア・ソフィア・リーラーより今回のことの顛末をお話しさせていただきますわ」


 はんなりとした笑みに、お手本のような美しいカーテシーに、周囲からは感嘆のため息が漏れ落ちる。リリーシアの微笑みが、緊張した空気に僅かな緩みを持たせた。


 だがしかし、こんななりでも愛おしいルカに対するテオドールの失言に対して激昂しているリリーシアは、断罪の手を緩めるつもりが一切ない。

 つまり、この優しく僅かな安堵に包まれた空間は、数秒にも満たぬ間に粉々に打ち砕かれたのである。



 リリーシアは懇切丁寧に、ことの顛末を語った。


 王家主催の格式高い舞踏会の場で、テオドールにいきなり婚約破棄を叩きつけられ、名誉を傷つけられたこと。

 助けに入ったルカに対し、何度も何度も聞くに堪えない暴言を吐き捨て、挙げ句の果てには、「明日にはお前の家は没落しているだろう」や「ぶっ殺す」といった叛逆とも取れるような発言を繰り返し行い、王家に謀反の心有りと宣言したこと。


 演技家リリーシア、涙ながらに、ルカの腕に縋りながら、必死に訴えかけるように、心の中では満面の笑みで、ルフェーブルに語りかけた。



「あい分かった」



 リリーシアの言葉に、ルフェーブルはゆったりと余裕の表情で頷いたかのように思えた。



 が、しかし——、


「………ぶっ殺そう」


 実のところブチギレていた。


 

 満足そうに頷くリリーシアの愛らしさに悶えたルカであるが、次の瞬間にはおちゃらけるように肩をすくめ、棒読みな言葉をルフェーブルに向かって投げた。



「父上ー、独裁政治に職権濫用を行うようなら、母上に言いつけますよー!!」



 瞬間、王妃を溺愛する国王は、借りてきた猫のようにおとなしくなる。



「えぇーっと、バカドールだっけ?私の名前は、ルカーシュ・セオドア・リオネル。リオネル王国の第2王子だよ」



 周囲から起こるどよめきは、彼がどれほどの期間この国を不在にしていたかを示すようであった。


 10年という月日は、人々が思っているよりもずっと長い。

 それが幼少の砌(みぎり)とあらば、なおのことだろう。



(………懐かしいですわね、この挨拶)



 この中で唯一、場違いにも感傷に浸っているリリーシアは、彼との初めてを思い出していた。



 ——あれは、確か8年前の出来事だったはずだ。


 商売で隣国を訪れた際、まだ当時6歳だったリリーシアは、取り引きのために招かれたお客さまの邸宅のお庭で迷子になってしまった。

 美しく咲き乱れる薔薇の迷路の中で、お供の者とも逸れてしまったリリーシアは、ひとりぐずぐずと泣きじゃくっていた。


 そんな時、彼は現れたんだ。


『うわっ、天使さまだ』


『てん、し………?』


『え、あ、ちが、その………、………君、迷子?』


 軽い口調と質の良さが窺える重厚な服のアンバランスさに首を傾げたリリーシアは、真っ赤な顔をした彼に、ルカに、一目惚れした。

 今よりも柔らかい黒髪も、丸みを帯びた深紅の瞳も、何もかもが美しくて、でも、愛らしい。

 大人になりかけの子供という微妙な立ち位置が生み出す美の至高に、リリーシアの頬は赤く染まり上がった。


『お、おーい、………あれれ?よくよく考えてみると、僕ってめっちゃ不審者じゃん。うーん、………、』


 伏し目がちに首を傾げる姿も、大変美しい。


『えぇーっと、リールー伯爵だっけ?その娘さんかな?僕の名前は、ルカーシュ・セオドア・リオネル。リオネル王国の第2王子だよ』


 この後、リリーシアはルカーシュによって無事邸宅へと送り届けられ、両親の腕の中で号泣した。



 そして、——現実を知った。


『リリーシア。ルカーシュ殿下にいくら好意を寄せられたとしても、恋をしてはいけないよ。殿下とお前では身分が違うのだから』


 父に言われた言葉に、リリーシアは必死になって反抗しようとした。


『で、でも、伯爵家の人間がお妃さまになった歴史だってありますわ!』

『それはお父君が騎士団長や宰相であるという特別な場合のみだ。お前が殿下の隣に立てたとしても、それは妃としてではない。妾としてだ』


 歳の割には大人びて賢いリリーシアには、父の言葉が痛いほどに理解できてしまった。


 でも、諦められなかった。

 諦めたくなかった。


 リリーシアは、その日から、彼に恋をした日から、学びを増やした。

 知識という知識を貪欲に吸収し、父の商談にちょこまかとついていっては、顔を繋ぎ、恩と信頼をせっせと売った。

 隣国の商談の場では、必ずと言っていいほど、何故かルカーシュがいて、リリーシアに熱い視線をくれて、甘い言葉をくれて、リリーシアはそれが堪らなく嬉しかった。


 少し年齢が上がってからは、自らも商売に携わるようになり、自らに眠っていた並外れた商才によって、一気に成り上がった。


 その頃から、有力貴族との縁談がいくつも浮上したが、リリーシアは一向に頷かない。

 何故ならリリーシアは、この期に及んでもまだ、夢を捨てきれていなかったからだ。


 両親はなんとしてでも諦めさせたかった。



 だがしかし、リリーシアはもっていた。


 自らの望みを手に入れるための強運を。



 3年前、王妃が病気を患った。


 病の治療には、半鎖国状態の国家のみで自生するとある植物を使用する薬が必要だった。

 なんとまあリリーシア、世界に数名しかいないその国との貿易許可証を持つ人間だったのである。


 この時リリーシアは、持つべきはあらゆる国の貿易許可証だと確信した。

 身も蓋もない気づきである。


 そんなこんなで、王妃の薬作りに大いに貢献したリリーシアは、もちろん国王夫妻にいたく気に入られ、とんとん拍子でルカーシュの隣を手に入れた。


 両親は唖然とし、そして、苦笑しながらも祝福した。

 この子ならばやりかねないと思っていたが、本当にやるとはなという呟きを、リリーシアは聞かなかったことにした。



「リリー?」


 愛おしい人の呼びかけに、リリーシアの意識は浮上する。

 心配そうな表情をしたルカーシュの腕の中に囚われているリリーシアは、微笑んだ。



「なんでもありませんわ」



 現実を叩きつけられ、しばらく呆然としていたテオドールの腕の中から、下品な服を身につけた可愛らしい女の子ベリーラが、怯えるようにして飛び出す。



「わ、わたしは関係ないんだからっ!!」



「いや、関係大ありでしょ」



 久々に真顔でノリツッコミをしてしまったリリーシアに、ルカーシュも苦笑しながら頷いた。


「そうだね。ここまで巻き込まれてたら、『わたしは無関係ですぅ、助けてくださぁい』なんて言っても、誰も助けないよねぇ。まあ、ここで助けちゃったら不倫やら浮気やらがバレバレになっちゃうからね。身から出た錆だよ」


 からからと笑ったルカーシュの小さな声に、周囲にいた人間はドン引く。

 普通、分かっていても、事実であっても、こんなネタは心の中に潜めておくものだ。



 ぎいぃっ、



 空気をぶち壊すような扉が開けられる音がした。


「?………??」


 白髪の混じり始めたブロンドに空色の瞳を持つ初老の男性が、首を傾げながらやってくる。


「テオドール?何があったのかね」


 国王に挨拶することもなくいけしゃあしゃあと言ってのけたのはクロイツ侯爵、テオドールの父であった。


「ぱぱっ!!助けてくれ!!俺、冤罪で殺されそうなんだっ!!」



 会場の中にいる皆が思ったことだろう。

 冤罪でもなんでもない、自分の行いのせいで投獄されそうになっているだけだ、と。


 しかし、息子のことを妄信的に溺愛しているクロイツ侯爵は、当然のごとく息子を疑うということをしない。

 故に、今この場で最も行ってはいけない、愚かな行為をした。


 罪を、犯した………。



「リリーシア、お前、何をしている。早くテオドールを助けなさい。格下の伯爵家のでしゃばり娘であるお前を引き取ってやるんだ、こういう場で命を犠牲にせずしてどう生きるというのだね」



 嘲るような声音、侮蔑の表情、だがしかし、そんな表情と声音は一瞬で吹き飛ぶこととなった。


「今、貴様はなんと言った」



 クロイツ侯爵の身体が宙に浮いている。

 彼の首元には、剣タコやペンタコの目立つ美しい手。



「私の愛おしい婚約者に対し、なんと言ったと聞いているんだ!!」



 激昂したルカーシュの声に、視線に、ゾクゾクとした喜びが背筋を駆け巡ったリリーシアは、うっとりと微笑む。


「はぁ、ルカさまが素敵すぎますわ」



 背筋が凍るような殺気の中で唯一頬を赤く染め上げているリリーシアは、商人として幾多の困難を乗り越えてきたが故に、危険や突発的な出来事に対する反応が大らかだ。


 だからこそ、今このカオスと化しつつある現状を最もよく理解していると言っても過言ではない。



(クロイツ侯爵家並びにフィアリア男爵家はもう終わりましたわね。王の御前でピーチクパーチク騒ぐなんて、愚かさに拍車をかけるとはまさにこのことですわね)




 今にも窒息死しそうな顔色になり始めたクロイツ侯爵をぼーっと見つめながら、リリーシアは頭を回転させる。


(………クロイツ侯爵はどうでもいいけれど、フィアリア男爵が消えるのは少し惜しいですわね。彼の持つ販路は相当に良いものですし………。たった1代で我がリーラー家に並ぶ商会を築き上げた手腕は尊敬に値いたしますわ。ここは1つ、大取りを致しましょうか)


 オロオロとしながら出てきたフィアリア男爵ににっこりと微笑みかけたリリーシアは、ルカーシュの腕に自らのそれを絡める。



「ルカさま」



 血走った目でにっこり笑ったままクロイツ侯爵を殺さんとしているルカーシュには、リリーシアの声が届かない。



「………無反応、ですか………。………では、ルカさま、お約束を破ったのですから、失礼致しますわね」



 にこっと笑ったリリーシアは、扇子を武器のように構え、そして———、


 バチンッ!!


 ルカーシュの頬を思いっきり叩いた。



 瞬間、びっくりしたルカーシュの腕から、クロイツ侯爵がボトっと落ちる。

 いきなり落とされた故に受け身を取ることが叶わず、顔面から大理石の床に突っ込み、ご自慢の高いお鼻がボキっといったようだ。

 痛みに悶え、顔面を床に突っ伏したまま尻を左右に振る姿は、滑稽以外に言い表す言葉がない。



「ルカさま」

「り、リリー………、」


「わたくし、前に申しましたわよね?『わたくしが名をお呼びしたら、3秒以内に振り向き、わたくしのお話を聞いてください』と」



 今にも泣きそうな表情でリリーシアを見つめるルカーシュに、リリーシアは怒りの色に染めたルビーの瞳を向ける。

 仔犬のようにしゅんとしてしまったルカーシュに対する、リリーシアの温情はもちろん存在しない。


「この舞踏会終了から1週間はお口聞きません」

「そん、な………!!許してよ、リリー!!私が悪かったっ!!次回からは絶対このようなことがないようにする!君をもっと大事にする!!ぐちゃぐちゃに甘やかして、いっぱいキスをして、君がドロドロになって動けないようにするから!だから!1週間口を聞かないとか言わないでくれっ!!」


 あんまりにもな言い方に、リリーシアは我を忘れて顔を真っ赤に染め上げる。



「貴方さまは馬鹿なのですか!?こ、こんな公衆の面前でそのようなことをっ!!」


「父上と母上はいつもそうだ!!」


 うむうむと頷くルフェーブルを横目に、リリーシアが怒鳴る。



「ヤンデレ溺愛熱愛カップルと名高い陛下方と同じことをしないでくださいっ!!わたくしの、わたくしの身体がいくつあっても持ちませんわ!!」



 半泣きで叫ぶリリーシアに、一部の、愛されすぎる女性陣からの不憫そうな視線が刺さったのだった———。




 とんでもない宣言を受けたリリーシアであったが、クロイツ侯爵が地面から復活したのを皮切りに、普段の仕事出来過ぎ令嬢へとその表情を変化させる。



「あら、お目覚めのようですわね、クロイツ侯爵」

「ひぃっ!!」


 ルカーシュの脅しが効きすぎているようで、クロイツ侯爵の怯えようは半端ない。



「陛下、衛兵をお借りしても?」


「リリーシアは未来の王子妃だ。好きにするが良い」


「まぁ!ありがとう存じますわ。このお礼は王妃さまへの献上品に」


「うむ」



 国王ルフェーブルは、王妃のことが絡むと基本的にチョロい。

 それで良いのかと問い掛けたいほどにチョロい。


 それをよく分かっているリリーシアは、国王ではなく王妃にお礼の品物を購入する。

 グルメな王妃に対し、次はどんな美味しいものを持参しようか思考をフルに回転させながら、リリーシアは衛兵に対し、テオドールとベリーラを王家への反逆罪で捕縛するよう命じる。



「お、おいっ!貴様ら誰に触っていると思っているんだ!!というか、俺に触るな!!」

「きゃっ!!やめてっ、痛いわ!!なんでわたしがこんな目にっ!!」


(いや、王子であるルカさまに殺人予告したのですから、捕まって当然でしょうに)


 暴れ回る2人を、衛兵は手こずることなく押さえつける。


「くそっ!離せっ!!悪いのは全部その女だっ!!その女だけを捕縛しろっ!」


「はぁ!?何言ってんの!?元はと言えば、あんたが蒔いた種でしょうがっ!!あんた1人が裁かれなさいよ!!」


「はぁ!?俺のせいなわけないだろっ?そもそも!お前がリリーシアに虐められたなんて言わなければこんなことにはならなかったんだ!!」


(そうですわね。一応理に適っておりますわね。ですが、それを信用し、過激な行動に出たのは他ならぬ貴方ですわよ)


 お縄につけられたテオドールがギャンギャン喚くために、衛兵が嫌そうな顔をする。


「そ、それは!………あんたがリリーシア・ソフィア・リーラーと婚約してるなんて言ったかじゃないの!!わたし、悪くないっ!!嘘つきのあんたが悪い!!」



 耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言に、リリーシアは思考を放棄し、冷めた視線を向ける。

 あんなにお互い『愛している』なんて安っぽいセリフと雰囲気で甘々だったのに、たった数分でなんという頽落だろうか。


 全くの無関係な人間関係にあるのにもかかわらず、なんだかリリーシアの方が恥ずかしくなってくる。


 愛おしいルカーシュが度々仕掛けんとしてくる抱きつき攻撃を扇子で叩き落としながら、リリーシアは衛兵によって捕縛された2人を横目に、衛兵に用意してもらった紙とペンで5枚の紙を仕上げる。


「うふふっ、」


「な、なんだか楽しそうだね。リリー」

「えぇ、とっても」


 ご機嫌に書類を仕上げたリリーシアは、国王ルフェーブルに直接紙を渡す。


「被害者であるわたくしからの望みですわ。王家への叛逆を含めたとしても妥当な罰だと思いますが、いかがでしょうか」



 人外の速さで全ての書類に目を通したルフェーブルは、途端、楽しげな声を上げた。


「ははっ!良いねぇ。性格が悪いと太鼓判を押されている僕ですら、身慄いしてわくわくするような契約書だ」


 ひとしきり頷いた後に、王の顔となったルフェーブルは命じる。



「うむ、リリーシアよ。この書類を罪人全てにサインさせよ」


「承知いたしましたわ、陛下」


 契約書サインのための机を用意させ書類を並べたリリーシアは、満面の笑みで両手を広げる。



「テオドール・ライリッヒ・クロイツ侯爵令息、ライト・グルーエル・クロイツ侯爵、ベリーラ・ミュリエル・フィアリア男爵令嬢、リュディガー・ルーベル・フィアリア男爵、そして、―――ルカーシュ・セオドア・リオネル殿下」



 純真無垢な笑みからは考えられない契約書を愛おしそうに見つめたリリーシアは、首を愛らしくこてんと傾け、歌うように断罪の声を紡ぐ。



「この契約書にサインしていただけますわよね?」



 一瞬、会場中全てから音が消え去った。



「え、はえ?」



 次に聞こえた音は、ルカーシュの腑抜けた声。

 そして、テオドール、ベリーラ、ライトの怒声に罵声だった。



「はぁ!?俺がなんでそんなことをしないといけないんだ!!」


「そうよっ!テオドールさまはともかく!わたし関係ないわ!!」


「何故侯爵であるこの儂が伯爵令嬢如きの言うことを聞かねばならぬ」



 わんわん喚く愚か者に、リリーシアは不満そうに満面の笑みを浮かべる。



「構いませんわよ。この契約書にサインしなくとも。そうなれば、王家に謀反を起こそうとした者として一族郎党晒し首になるだけですから。わたくし、これでもみなさまの命がしばらくの間助かるよう、動いておりますのよ?その良心を踏み躙るなんて………!!」



 途端、おいおいと泣くふりを始めたリリーシアを、ルカは優しく抱きしめる。

 そして、舞踏会の会場中に殺気をばら撒く。



「貴様ら、よくも私の可愛いリリーシアを泣かしたな?」



 ゆらっとゆらめく陽炎のような酷い怒りに、契約を求められた者たちがピシャッと背筋を伸ばす。

 そして、リュディガーとルカーシュを除く面子が契約書を読まずしてささっとサインしてしまった。


(………引っ掛かりましたわね。わたくし、許すとは一言も言っておりませんし、殺さないとも一言も言っておりませんのに、そんなにも安堵したお顔をなさって………、お可愛いこと)



 他の面子とは違い真っ青な顔で、娘のやらかしのせいで何もしていないにもかかわらず契約書を読んでいるリュディガーは、契約書の内容に涙をこぼし始めた。

 そして、契約書に丁寧にサインをした。



「ご温情、感謝申し上げます。リーラー伯爵令嬢、いいえ、クロエ商会商会長」


「しっかりと励んでくださいまし」



 契約書記載後わんわん喚いていた3名は、涙を流すリュディガーの横で衛兵に蹴られながら別室へと連行される。

 この先の未来に待つ地獄の世界を知らないからこそ、こんなにも騒がしくできるのだろう。

 そう思うと、リリーシアは彼らが可愛くてたまらなくなった。


(バカドール、軟弱者の貴方が大っ嫌いな泥に塗れて鉱山で石を掘るなんて、本当にできるのですかね?出来なかったら鞭打ちっていう文章もありますのに………、ふふふっ、先が楽しみだわ)


 こぼれかけた笑みを抑え、愛らしい少女に視線を向ける。



(ベリーラ、貴方の大好きな男の人がいっぱいのところに送ってあげますわ。パパ活でいっぱいドレスを買っていただいていた貴方なら、絶対にナンバーワンの婦人になれますわ。頑張ってくださいまし)


 今日ベリーラが身につけていたネックレスが、クロイツ侯爵家の当主のみが知る部屋に隠されている家宝であることに気づいているリリーシアは、親子仲良く同じ少女を愛した侯爵に侮蔑の視線を投げかける。


(ひとまわり以上も小さな女の子たちへの恋は、さぞ楽しかったことでしょうね、侯爵。貴方のせいで自殺した可哀想な下級貴族の少女たちの分まで、せいぜい苦しんでくださいましね?ご安心ください、何度手足をぶった切られても、内臓を引き摺り出されても、新作の回復薬の実験で治していただけますわ。まぁ、新薬の治験ですので、正しく治る保証はどこにもございませんけど)



 強く握りしめた拳が僅かに震えたことを、愛おしいルカーシュはすぐに察知してくれた。



「リリー。優しい君は、あんな奴らが苦しむことでさえ心を痛めてしまうのだね。でも、」


「分かっておりますわ、ルカさま。断罪は当然の結果ですわ」




 公衆の面前にあるにも拘わらず、ぎゅっと全身抱きしめてきたルカーシュの暖かさにひとしきり甘えたリリーシアは、満足した瞬間、ベリっと自らの身体からルカーシュを剥がした。


「さて、お次はルカさまの番ですわね。愛おしい婚約者から贈られた契約書。勿論、サインしてくださいますわよね?」


 花が綻ぶような美しい笑みにうっとりと頷いたルカーシュは、契約書に目を通して、そして固まった。



「えぇーっと、リリーさん?これ、嘘だよね?」


「嘘であるわけございませんでしょう?国王陛下にお認めいただいた公式文書ですわ」



 わざとらしく笑顔で首を傾げたリリーシアに、ルカーシュは身体をわなわなと震わせた。



「無理だぁー!!公衆の面前でハグ禁止に、キス禁止、愛の囁き禁止って何!?やったら罰として1週間口聞かない&別居とか耐えられるわけない!!というか、あり得なさすぎる!!それに浮気したら即死刑?そんなの当然じゃん!!というか、浮気する前提なのが許せないんだけど!?」


「えぇ、分かっておりますわ。貴方が公衆の面前で猥褻な行為を繰り返す愚か者でないことや、浮気をするような愚かで滑稽な男ではないと。ですが、わたくしは伯爵令嬢であると同時に商人なのです。契約書があった方が、どうしても安心できるのです。わたくしを愛しているルカさまは、ちゃんとサイン、してくださいますよね?」


 上目遣いに見つめてくるリリーシアに、ルカーシュは一瞬にして敗北した。



「あぁー分かったよ!!サインしてやる!こんな紙切れ1枚で愛おしいリリーが安心できるんならお安いご用だ!!」


 ババっとサインしたルカーシュに、リリーシアは満足げに頷いた。


「ありがとう存じます、ルカさま」



 可愛い微笑みに、仕草に、ルカーシュは、契約書をほっぽり出してぎゅーっとリリーシアを抱きしめる。


「あぁー、リリーが可愛過ぎて死にそう。お部屋に閉じ込めて永遠にお外に出したくない。あぁー、こんなとこで自分が、あの人間の問題をかき集めて煮込んで固めたような父上と同類だってわかるなんてなんて拷問なんだ………。ねぇリリー、傷心の私の頭を撫でてくれ」



「………………」



 笑顔で固まっているリリーシアは、彼がほっぽり出した契約書を手に、彼の身体をベリっと外す。


「リリー?」


「………契約書、書きましたわよね?」


「え、」



 契約書を彼の顔面に叩きつけたリリーシアは、恥ずかしさで真っ赤でありながら怒りによる青筋の浮かぶ顔に満面の笑顔を装うという器用なことをした上で、早口に捲し立てる。


「わたくしとのお約束を破った件も含めて、わたくし、ルカさまとは2週間お口を聞きませんわ」


「え、り、リリー、」

「………」

「リリー!リリー!!」

「………………」

「そ、そんな、——そんな殺生なぁ!!」



 こうして、長年隣国へと留学していた第2王子が帰還し、2つの家紋が消えた。


 驚くほどに甘々で奥方に尻を敷かれているという第1印象を残したルカーシュであったが、彼はとても優秀な男であり、王子として父親譲りの能力を遺憾なく発揮し、母親譲りの引き籠もりである兄王を支え続けた。


 そんな彼であるが、近い将来にはこの日リリーシアと結んだ契約を度々破り、奥方のドレスに縋り付いて号泣する姿がありとあらゆる場面で見られるようになり、いつしか、天才であるにも拘わらず、奥方の願いに関しては一切学習しない挙句、奥方に縋り付いて赤子のように号泣することから、『天才バブちゃん王子』という不名誉なあだ名で呼ばれるようになった。



 これより先、彼にはもう1つのあだ名が生まれる。



「パパっ!!」「ちちっ!!」


 白銀と漆黒、2人の小さなお姫さまが走る先には漆黒の美丈夫が佇んでいた。


「———!———!」


 愛おしいお姫さまを軽々と抱き上げた彼に寄り添うのは、彼は誰よりも愛する彼の女王。

 商人として、元伯爵令嬢として、王子妃として、ありとあらゆる場面に置いて彼を支え続ける強い女性。


「ルカ、あんまり甘やかしてはいけませんよ?」


「ははっ!リリー、残念ながら、私はその契約書にはサインしていないんだ」



 爽やかに笑う夫の腕に自らの身体を預けたリリーシアは仕方なさそうな笑みを浮かべ、『溺愛王子』の言葉に頷いたのだった——。




   fin.




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下記の部分が文字化け?していました。 「テオドール・ライリッヒ・クロイツ侯爵令息、ライト・グルーエル・クロイツ侯爵、ベリーラ・ミュリエル・フィアリア男爵令嬢、リュディガー・ルーベル・フィアリア男爵、…
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