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安寧求むる君たちへ  作者: 形而上ロマンティスト
第二章:惑星イルシャー

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16/17

ルシャ

 嫌な記憶より、楽しかった記憶の方が圧倒的に多い。

 お父さんとお兄ちゃんと、家族全員が笑いに包まれていて、その中に私の存在も当然あった。


 私は四人家族だった。

 父と母、そして歳の離れたお兄ちゃん。

 それはありふれた、ごく普通の家族だったけど、それでも普通の幸せがそこにはあった。


 世界が歪み始めたのはちょうど10年前のこと。

 その日、ドーラムがドゥルバーに宣戦布告をした。

 ドゥルバーっていうのは隣星のことで、それまでは互いに仲良くしていたはずだったんだけど、唐突に対立関係となった。

 

 内情は詳しくは分からないけど、ドゥルバーの人たちは私たちを騙していたらしい。

 彼らはドーラムをそのまま乗っ取る計画だということで、長年培われた交友関係が一夜にして破られた。


 それから数年後。

 ちょうど私が10歳くらいの頃だったと思う。

 お父さんが徴兵に出ることになった。

 当時の私は徴兵の意味もちゃんと理解していなくて、それでもなんとなく不安だったのを覚えている。

 そんな私に対して、家族は誰一人それを表には出さなかった。


「お父さん、戦争に行っちゃうの…?」


「ああ、少しだけね。でも大丈夫だよ。お父さん、まだまだひよっこだからお勉強からスタートなんだ。だから心配はいらない。少しの間会えなくはなってしまうけれど、またすぐに会えるさ。次に会うときにはルシャは立派な科学者になってたりして…?」


「うん!お父さんが帰ってくる頃には私、ノベール賞とっちゃってるかも!」


「お!それは楽しみだな!その時はみんなでお祝いしなきゃだな!」


 そうしてお父さんが家からいなくなったちょうどその頃、お兄ちゃんは将来の進路を決めなきゃいけない重大な時期に差し掛かっていた。


 お兄ちゃんは軍事学校、つまり軍人を生むための学校に進学したいと言った。

 お母さんはそれに反対していたけど、お兄ちゃんの『人のためになりたい』という思いを本人から直接聞いて、渋々承諾することになった。

 今から思うと、きっとお兄ちゃんはお父さんに近づきたかったんだと思う。

 

 我が家ではある教えがあった。


「いいか、お前たち。人生はな、そう簡単に上手くいくもんでも無い。何かしらの障害にぶち当たることだってあるさ。そんな時、必ず力になってくれる魔法を教えてやる。人を尊敬するんだ。」


「尊敬…?」


「そうだルシャ。たとえばもし、お前が漢字を覚えるのに苦労しているとするだろ?面倒くさくてもう嫌だ!って思うかもしれん。でもそんな時はこう思うんだ。『漢字をいっぱい覚えている先生ってすごい!』ってな。」


「うん、私、いつもそう思ってるよ?」


「そうかそうか、それはいいことだな。人生はな、自分の力量じゃ手に負えないことなんていっぱいある。自分の無能に心がポキッと折れてしまうかもしれない。けれどそんな時思い出すんだ。それがこなせる人だってこの世界にはいっぱいいるんだってことをな。自分ができないことを見つけたら、それができる人を見つけろ。そして全力で憧れるんだ。」


「でもさ父さん、憧れるだけじゃダメなんじゃねぇの?」


「いや、それでいいんだ。憧れて尊敬する。自分よりすごい人を見つけてその人を追いかける。すると、直面していた困難や問題は途端に些細なことになるんだ。

 だってそうだろう?その時にはもう、俺たちの目標は目下の問題を解決することなんかに収まっていない。もっと壮大な、すごい人を追いかけるっていう目標になってる。そうするとな、元気が漲ってくるんだ。俺もあの人みたいに!この人のように!ってな。」


「ふ〜ん、そんなものかね〜?」


「はは、今はピンとこなくても大丈夫さ。いつか困難に遭遇して心が折れてしまいそうになった時、これがお前らの助けになってくれればお父さんは嬉しいよ。」


「ねぇねぇ、お父さんは誰か尊敬してる?」


「もちろん!お母さんとか、お前ら二人も尊敬してるさ。二人とも立派に育って、元気でいてくれるからな。お前らを見て、俺は毎日頑張ろうって思えるのさ。」


 なんの流れでこの話になったのかは覚えていない。

 ただ、この話をするお父さんの姿を今でもずっと覚えている。

 凄くキラキラしていて、活気に溢れたその顔。

 きっと、お父さんの本質的な何かだったんだろう。



 お兄ちゃんが進学先を軍事学校にしたとき、私は真っ先にこのことを思い出した。

 お兄ちゃんはきっと、お父さんを尊敬したんだなって。

 そんなお兄ちゃんを見て、私はお兄ちゃんを尊敬した。


 

 お兄ちゃんも寮生活になったから、家の中には私とお母さんだけになってしまった。

 二人がいなくなる以前も、みんな普段から仕事とか学校とかで家にはいなかったから特段静かさが増したわけではなかったんだけど、心のどこかで寂しさを覚えた。

 でも、そんな気分を吹き飛ばすくらいお母さんが私を見てくれた。

 構ってくれたし、遊んでくれた。

 私はそれでも幸せだった。


 崩壊は突如、なんの知らせも無しに訪れる。

 だから時々、崩壊していることに気付けないことだってあるんだ。

 

 ある日、二つの出来事が同時に発生した。

 

 一つ、ドーラムの対ドゥルバー大規模戦役。

 その日、ドーラム各地に支部を置く宇宙軍が一斉にドゥルバーを集中攻撃するという大型軍令が発動された。

 総動員数は万を超え、その大戦で長年に渡ってズルズルと長引いたこの戦争に終止符を打つ意気込みだったそうだ。


 二つ、ドーラム内での紛争。つまりは内乱。

 先に挙げた大規模軍令は在留ドゥルバー人の耳に漏れていた。

 大勢の兵が一挙にこの星から居なくなるという千載一遇の機会を逃すまいと、星に隠遁していたドゥルバー人やドーラム政府に反対の意を持つ謀反者らが一斉に攻撃を仕掛けたのだ。

 ドーラム内はあまりの人手不足に見習いの兵士すら稼働させて対処する事態にまでなったとかいう。



 その日、私が学校から帰るとお母さんは真っ青な顔をしてこう言った。


「ルシャ、ちょっと留守番頼むね…」


 ただ事ではないと一目でわかった。

 私はただ不安げに「うん。」とだけ答えた。


 家の中で一人。

 不安で不安で。

 一人でいるのも寂しくて。

 次第にお腹も空いてきた。

 それでもお母さんは帰ってこない。

 

 私は家にあったインスタント麺で夜を過ごした。

 何度も、電話しようかと思った。

 一体何があったのか、変なことに巻き込まれていないか心配になった。

 けれど、今我儘で電話したらお母さんの面倒になるかもしれない。

 だから私は明日まで待つことにした。

 いつお母さんが帰ってきてもいいように玄関の電気はつけっぱなしにして、私はひとりぼっち布団に潜った。


 

 翌朝、お母さんはいつも通りそこにいた。

 私は心底安心すると共に、昨晩のことが夢だったんじゃ無いかとも思った。


「お母さん、帰ってたんだね!昨日は大丈夫だった…?遅くまで仕事あったの…?」


 お母さんはニコっと笑ってこう言った。


「昨日はごめんね。うん、昨日の午後、急なお仕事入っちゃったの。今日も長くなりそうだけど、夜ご飯までには帰ってくるからね。」


「分かった!頑張ってね!」


 いつも通り優しいお母さん。

 だからこそ私は心配だった。

 昨日家を出る時に見せたあの顔が頭から離れない。

 でも、私にできることはただ「頑張ってね」とエールを送ることだけだった。

 

 それから長いことお母さんは夜遅くまで仕事に出ることが多かった。

 私が寝ちゃうまで帰ってこない日もあった。

 それでも、どんなに帰ってくる時間が遅くとも、毎朝私の目が覚めるとお母さんはそこにいて、朝ごはんと一緒に『いってらっしゃい』って学校に送り出してくれた。

 

 私はずっと祈ることしかできなかった。

 お母さんのお仕事が早く終わりますように。

 今日はお母さんと一緒に夜ご飯を食べられますように。


 

 ある日私が学校から戻るとリビングにお母さんが座っていた。

 一枚のチラシを手に持ちながら。


「ねぇルシャ、私ね?ルシャって最高に可愛いと思うの。だからね?こーゆーの興味ないかなって思って。」


 それはアイドルオーディションのチラシだった。

 私はお母さんの言っている意味が全く分からなかった。


 私はとてもアイドルになるような子じゃない。

 地味でメガネかけてて、自分でもそういうのは端から諦めてた。

 もちろん女の子だしいずれはおめかしもしてみたいと思ってはいたけど、今はまだ。そう思っていた。

 なのにどうして急にアイドルなのか。

 歌もダンスもできない私に、どうして急に。


 でも私は言った。


「アイドル?私のために…?ありがとお母さん!私やってみたい!!」


 私はただお母さんを喜ばせたかった。

 毎日毎日忙しそうで、それでも愚痴ひとつこぼさないお母さんに楽をさせたかった。

 そんなお母さんが持ってきてくれたせっかくの提案を私が断る訳もなかった。


「ほんと!?お母さん嬉しいわ!じゃあ早速、オーディションに向けて対策を始めなくちゃ!まずはダンスとお歌のレッスン、二つとも体験の予約しておいたから準備して!」


「え、今から…?」


「ええ、もちろん。オーディションまではあと二ヶ月しかないから、今すぐにでも準備始めないと!」


「う…うん!分かった!」


 私は困惑した。

 どうしてお母さんが突然アイドル熱心になったのか。

 どうして急に私にアイドルになって欲しいのか。

 

 でもそれ以上に私は嬉しかった。

 久しぶりにお母さんと話せたから。

 お母さんが私のために何かを持ってきてくれたから。

 お母さんが私を見てくれたから。



 現実は夢より辛く地獄より温い。

 私は二ヶ月の間多忙なスケジュールを乗り切った。

 午前と午後の半分は学校、その後ボイストレーニングに2時間通い、そこから30分かけて辿り着いたダンススクールで3時間みっちりレッスンを受けた。

 家に帰ってからは宿題とシャワー、歯磨き等の雑用で埋め尽くされ、趣味嗜好の時間などもってのほかだった。


 それは肉体的にも精神的にも辛く、何度も何度も泣き出してしまいそうになった。


 それでも私は耐えた。

 そこではお父さんの教えが支えになった。

 

 ボイストレーニングの先生を尊敬する。ビブラートとかしゃくりとか、ウィスパーとかミックスとか。色々な声の出し方ができて、音に表現を自由に乗せられる先生を尊敬した。


 ダンスのコーチを尊敬する。 リズムにピッタリと同期したダイナミックな動きと軸のブレない強靭な体幹を長時間稼働させられるコーチを尊敬した。


 周囲の生徒を尊敬する。私のいた教室はアイドルとかダンサーとか、ダンスに魅了された生徒しかいなかった。何年間も一つのことに熱を込め、熱心にコーチの動きを分析するみんなを尊敬した。


 

 尊敬は私を発起させた。だけど、それだけではダメだった。

 きっと、そもそもの体の作りが私とみんなとで違うんだ。

 そりゃあそう。だって私、この瞬間までダンスとかしたことなかったもん。歌も練習したことなかったもん。 

 いくら理論で理解しようとも行動として現れる現実は想像の半分にも到達しておらず、日が経つに連れもはや何を改善せねばいけないのか分からなかった。


 結果、二ヶ月の集大成をぶつけたオーディション。

 私は見事一次審査を突破したものの、二次審査であっけなく落選した。



「そんな…なんで…どうしよう……」


 不採用の通知を読んだお母さんは台所で静かに呟いた。


 あぁ、私はお母さんの期待に応えられなかったのだ。

 その日の夕飯は二人とも一言も発さなかった。


 

 翌日、昨日のことにまだ気分は晴れ切らない中、それでも一日を縮小させる二つの習い事から解放されて足取り軽やかに帰宅すると、お母さんがリビングで私の帰りを待っていた。


「ルシャ、アイドルのことは残念だったけど私はルシャが頑張ってくれたのを知ってるし、しょうがないと思っているわ。そこで何だけど、今度は…」


 お母さんの手元にはまた違うチラシが握られていた。


 私には、お母さんがお母さんじゃなくなってしまったように思えた。

 何が何だか分からない。

 お母さんは私に何をやらせたいのだろうか。

 お母さんは私に何を求めているのだろうか。


 いくら考えてもその答えには辿り着けなかった。

 困惑する中、それでも私はまたお母さんの提案に乗った。

 そうすることでお母さんが少しでも喜ぶのなら。少しでもお母さんのためになるのなら。


 そうしてこなした習い事はひとつも長続きしなかった。

 そもそもやる気があまり無く、やっていることに興味が湧かなかった。


 それでも、ひとつが無理なら次に。それが無理ならまた次に。

 お母さんが私に習い事の提案を止めることはなかった。


 次第に私はこう考えるようになった。

 きっと、これはお母さんが仕事で家に居ない間、私が退屈しないようにしてくれているのだ。

 たとえ夜ご飯を一人で食べないといけなくなっても、自分が忙しくしてさえいればその寂しさを感じる隙すら生まれない。

 これはお母さんからの一種の愛情なのだ、と。

 多忙な中私のことも見てくれる。

 そんなお母さんのことを私は尊敬した。


 スポーツに楽器に体操にプログラミングに水泳に書道に大道芸に声楽に。

 この世に存在する娯楽とカテゴライズされるあらゆる技能を習い、そしてその全てを努力半ばで挫折した。


 それでもお母さんは私に対して絶対に怒りを見せず、できない私を優しく慰めた。

 ただ、少しずつ、ほんの少しずつ、お母さんの笑顔が作り物のように表面的になっていくようで怖かった。



 またひとつ習い事を辞めた次の日。


「ねぇルシャ。あなたもそろそろ進路を決めなくちゃいけない時期だけど…私に提案があって。」


「うんお母さん。その提案、何?」


「お医者さんの道に進むっていうのはどうかな…?ルシャは子供の頃から化学図鑑大好きだったし、勉強は他の子よりできると思うの。」


「うん。分かった。今度こそ頑張るね、お母さん。」


「本当?ありがとうね、ルシャ。ルシャは私の唯一の宝物よ。私、ルシャがお医者さんになるの楽しみだわ。」


 こうして、私はこれまでの中で一番長い期間、半年という歳月を一つの目標に捧げることになった。

 ドーラムでは、お医者さんになるには難しい試験をいくつもクリアしなければいけない。

 それは10教科に及ぶ壮大な試験範囲で、言語や論理的思考はもちろん、速筆、暗記力、心理、経済、哲学など包括的な学習が必要だった。


 それから私は毎日学習塾に通い、朝から晩まであらゆる技能を叩き込まされた。

 それは過去一番に辛かった。

 周囲のレベルが高すぎて、自分の存在が豆粒のように小さく感じる。

 そんなみんなに追いつくために、必死に必死に、私は日々を消費した。



 ある日、悪夢にうなされて朝方早くに起きてしまった。

 

 二度寝をする気にもなれず、トイレに行こうと部屋を出た時、声が聞こえた。

 お母さんの声だった。


「どうしようどうしようどうしようどうしよう…」


 お母さんは呪言のように小さな声でブツブツと、朝ごはんの卵焼きを作りながら唱えていた。

 声からも顔からも、お母さんから発される全てのオーラが負に満ちており、その時やっと私はお母さんの危機的状況を察知した。


「お母さん…?だ…大丈夫…?」


 お母さんはギョッとしたようにこちらを振り向いた。

 そしてほんの少しだけ長い瞬きののち、口角をあげニコリと笑った。


「あら、ごめんね、今私怖い顔してたわよね〜?大丈夫よ、ルシャ。昨日お仕事でちょっと失敗しちゃって、そのこと考えてたのよ。そうだ、ルシャは学校どう?勉強とか…」


「お母さん!何か困っていることがあったら私に言ってね?きっとなんの役にも立たないけど、それでも話を聞くことぐらいはできるから…」


「ありがとうね、ルシャ。でも大丈夫。あなたはここに存在してくれるだけでお母さんの助けになっているのよ?」


「私でダメならお父さんに聞こうよ!軍に所属しててもお母さんのことなら帰ってきてくてるかも!それかお兄ちゃんも、私で力になれないなら他の…誰かを……」


 私がそう言ったほんの一瞬、お母さんの目は焦点を失った。

 その目はこの世の何も見てはおらず、その表情は何を示しているのか私には分からなかった。

 それでも私は勘付いた。

 お母さんが私から隠していることの、その端っこを。


「ルシャ、お母さんそんなに落ち込んでいるように見えた?いや〜、私ったらダメね!心配してくれてありがとうね。お母さんは大丈夫!ルシャはルシャのことを考えていたらいいのよ?」


 

 その日、私は学校をサボった。

 学校に行くふりをして近所の公衆トイレで服を着替え、お母さんが家から出るのをこっそり待った。


 家の扉が開いてお化粧をしたお母さんが出てくる。

 そのまま駅の方に向かったから、私もその後を追った。

 


 お母さんは職場に着いた。

 お母さんが建物に入ってから長いこと、お母さんは出てこなかった。


 私はずっと、向かいのカフェに入って勉強をした。

 夜遅くまでここで粘る覚悟はできていた。

 それでもチラチラと外を見ながら、いつ来るかいつ来るかとお母さんが出てくるのを待った。



 ちょうど学校が終わるくらいの時間。

 塾にも欠席連絡をしようかと思っていると、正面のビルから女性が出てきた。

 お母さんだ。


 私は急いで勉強道具を片付け、飛び出すように店を出た。


 幸い、お母さんはまだ駅に向かって歩いていたため、見失わずに済んだ。

 お母さんはそのまま駅につき、来た方向とは反対側、家に帰る路線の電車に乗った。


 それを見てホッとする自分がいた。

 別にお母さんを疑っていたわけではない。

 だけど少しだけ、何かを隠しているような気がしたのだ。

 

 そんなもの、私の勘違いだ。

 そう思い直し、私は塾に行こうかと思った。


 そう。まだ塾に間に合う時間。

 まだ午後5時になったばかりという時間だ。

 この調子だと、お母さんは家に6時までには着いていることになる。

 今日はたまたま早かったのだろうか、あるいは。


 結局、お母さんが家に帰るまでそのままこっそり追尾することにした。

 たった数駅間だし、お母さんの無事を見送った後でも塾にはそこまで遅刻しない。

 そのはずだった。



 家の最寄りの駅に電車が止まった。

 しかしお母さんが立ち上がる気配はない。

 電車のドアが開き、数人の出入りを見送る。


 それでも、お母さんは陣取った席から動かなかった。



 そのまま電車は遠く遠くへと進んだ。


 お母さんはただボーッとしている。

 スマホをいじる訳でも何か読んだりする訳でもなく、ただ席に座って虚空を見つめていた。


 その間、私はずっと怖かった。

 この電車がどこへ向かっているのか。

 お母さんはどこへ向かおうとしているのか。

 怖くて怖くて、心臓が痛いくらい早く脈打った。


 

 あれから何駅分逃しただろう。

 ある駅に電車が着いた時、お母さんが立ち上がった。

 それを見て慌てて私も席を立ち、お母さんの少し後ろでこっそりと尾行した。


 その駅は比較的大きな駅で、人の混み合いが激しかった。

 お母さんを見失わないよう、必死に着いていった。

 

 構内から外に出たお母さんは脇目もくれずただ一直線に目的地へと足を進める。

 少しずつ早くなるお母さんの足に追いつこうと私もだんだん小走りになった。


 お母さんは花屋に寄った。

 少しばかりするとお母さんは出てきて、その右手には綺麗な赤い花が4、5輪、包紙にまとめられて握られていた。


 笑顔で店員さんに会釈をしたお母さんは次の瞬間にはもうあの暗い顔つきに戻っていて、足早にその場を去った。


 それから真っ直ぐ歩いて右に曲がり、信号待ちをしてまた直進。

 それを左に曲がったその先に聳え立っていたのは、大きな大きな白い建物。


 それは大学病院だった。



 心臓の鼓動が加速する。

 まるでシリアスな映画を見ているようで吐き気がする。

 日は翳り始め、赤色に染まる空と長い影を纏ったお母さんが巨大な白い建造物に吸い込まれていく。


 私は何とか着いていった。

 もう自分が尾行していたことも忘れて、堂々とお母さんの後を追っていた。


 2枚の自動ドアをくぐりお母さんはエントランスに会釈する。

 そのままカウンターからはなんの情報も貰わずに病院内へ進んでいく。

 まるで何度も何度も同じことをしてきたように、そこには一切の澱みもなかった。

 私もそれに続こうとした。


「あ、ちょっと君ごめんね?一人でどこにいくの?お見舞いかな?」

 

「あ、えっと、あの、今、お母さんが…」


「あら、サンマーナさんの娘さん?お兄さんはそこの突き当たりを左に曲がったところのお部屋ですよ。」


「え…お兄…ちゃん…?」


「え、あら、もしかしてサンマーナさんじゃなかった?ごめんね、お名前、教えてくれるか…あ、ちょっと、院内では走らないでー」


 私は走り出していた。

 カウンターのお姉さんには申し訳ないけど、もう誰とも会話したくなかった。

 もう何も知りたくなかった。


 嫌な想像で脳がはち切れそうだ。

 きっと大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせているのに、頭の片隅には最悪の妄想が存在を主張する。

 なるべく意識を思考から遠ざけるため、私は今この瞬間に集中した。


 異様に長い廊下を小走りで駆け抜け、何度も人にぶつかりそうになるところをギリギリのところで避けた。

 その先の突き当たり。

 左に曲がるとそこには病室がズラッと並んでいた。


 速度を早歩きに落として一つ一つ見て回る。

 一つの部屋には二名の患者が収容されているらしく、入り口の左右に一つづつネームプレートが付いていた。

 

 ない。ない。ない。

 お兄ちゃんの名前はまだこない。

 まだ。

 もういっそのこと、このままずっと…



 私はある扉の前に立っていた。

 音が鳴らないよう、静かにそれを横にずらす。

 中は電気がついていて、右と左に縦にベッドが並んでいる。

 それらはパーティションで仕切られていて、右側のそれには人影が映っていた。

 それは椅子に座っているようで、背を丸めながら何か小さく呟いている。


 私は中を覗いた。

 お母さんと、お兄ちゃん。


 お兄ちゃんの姿は記憶の中のものとは違った。

 布団から出ている部分は全体的に痩せていて、頬が別人のように痩けている。

 体や顔にはいくつものパイプが繋がれており、後ろに仰々しい機械がいくつか積んであった。

 それでも寝顔はとても心地良さそうで、無表情なのに何故か安心する。


 お母さんはただ椅子の上で座っていた。

 お兄ちゃんの手を膝の上に持って、ただじっとその手を見つめている。

 私の存在にすら気づいていないようだった。


「お…にいちゃん…」


 意図していない声が漏れた。

 私じゃない誰かが言ったように聞こえた。 

 それが聞こえたものなのか、頭の中で発したものなのか区別できなかった。


「ッ!ルシャ…?ど…どうしてこんなとこに…」

 

 残念ながら、その声はまさしく私が発したものらしい。

 私の声を聞いたお母さんはびっくりしたようにこちらを振り向いた。


「あんた塾はどうしたの…今頃授業じゃ…」


 私は答えられなかった。

 私はただ情けなく無言で突っ立っていた。


「どうやってここまで来たの…?何で?何でよ…?!」


 お母さんの声が少し荒くなった。

 少し苛立ちを含んだその声を久々に聞いた。


「お母さんが…苦しそうだったから…」


「…私のせい…?」


「いや…ちが…」


「そうよね、私のせいなのよ…あなたに母親らしからぬ顔を見せたから…。私のせいよ…」


「あのねお母さん…そうじゃなくて…」


「全部私のせいなのよ…もっと選択肢があったはずなの。ジェシュタだってそう。私が止めればよかった。そしたらお父さんだけで済んだのに…」


「え…?お兄ちゃんが…?お父さん…?」


「ルシャ、あなたはこんなことしてる余裕ないはずよ…楽そうな道は全てダメだったじゃない。お医者さんになるなんて、残り時間1秒残らず勉強しないと間に合わないわよ…」


「楽…?何のこと…」


「そーやって!!あんたも私を置いていくの!?!?どうしてこんなところ来たのよ!!何が不満だったの!?!?私の何がダメだったのよ!!!」


 何が何だか分からなかった。

 お母さんの怒号も、目に映る景色も、放たれた言葉の意味も、何一つ意味がわからない。

 ただ一つ分かることは私だけが世界から取り残されていたということ。

 お母さんがこんなになるまで、私は何も気づけなかったということ。



 騒ぎを聞きつけた病院の人数人が次々と病室にやってきて、お母さんを落ち着かせた。

 私は別のとこに連れてかれ、私につまらない慰めの言葉を投げかけた。



 お兄ちゃんは今から一年以上前、ここにやってきたらしい。

 病状は脳死。

 生物的な機能は存続しているが、肝心の脳が動いていない状態だという。


 お兄ちゃんは例の内乱に巻き込まれていた。

 軍事学校3年生という立場で後輩と共に謀反者らと対峙した際、右足を失い戦線離脱。それだけでは収まらず、彼らの持つ軍事兵器で脳を壊されたんだって。

 病院のお姉さん曰く、多くの人が死亡したその混乱の中、命を保ったまま帰って来れたお兄ちゃんは奇跡にも近いらしい。それだけお兄ちゃんの意思が強かったんだよ、とか適当なことを言われた。


 お母さんはお兄ちゃんのことを知って以降、毎日毎日この病院に訪れてはお見舞いしていたという。

 その精神的ストレスがメンタルの安定を損ない、たった今、私が介入することでそれが爆発してしまった。


 お父さんは死んでいた。

 大規模戦役の一部として、とっくの昔に死んでいた。

 私まだノベール賞取ってないのに。まだ研究とか大学すら行ってないのに。


 知らない間に、私は世界に置き去りにされていた。

 意図的に隔離されていたんだ。

 お母さんはずっと私からそれを隠してた。

 私のためを思って。


 お母さんはずっと耐えていた。

 たった一人で。誰にも頼らずに。誰にも頼れずに。

 家族が一人、また一人と消えていく様をただ一人で受け止めていた。



 私はお母さんを病院に残して家に帰ることにした。

 塾はサボることにした。

 帰りの電車の中、ずっと考えていた。

 お母さんのこと。お父さんのこと。お兄ちゃんのこと。


 家についてそのままベッドに倒れた。

 お腹は空いていなかった。

 枕に顔を埋めて暫く泣いた。

 もう2度と触れない幸せを思って、暫く泣いた。

〜イルシャー豆知識その5〜

 ルシャは現在16歳、メガネをかけたちょっと地味な女の子だ!

 エーカンテに入ってからまだ2年も経っていないから、シャンティ含む男の子組とはちょっと距離があるぞ!本人曰く、アシュが一番怖いらしい…

 実は、あと数ヶ月で17歳の誕生日を迎えるんだ!誕生日パーティー、できるといいね!

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