雨音(あまおと)【夏のホラー2025】
その女が最初に現れたのは、雨の夜だった。
窓に濡れた額を押しつけ、狂ったように見開いた赤い目で、部屋の中を覗き込んでいた。まるで般若の面のように歪んだ女の顔──皮膚は青黒く、唇は引き裂かれ、赤い目だけが異様に爛々と光っていた。
その日から、淳の生活は崩れていった。
淳は三十八歳。離婚して三年。都内の中古マンションで一人暮らしをしている。昼間は清掃会社に勤め、夜は缶チューハイとテレビの音で孤独を紛らわせる──そんな、どこにでもいる男だった。
女が窓に現れるのは、決まって雨の夜だ。
ピシャリ、ピシャリと窓ガラスに叩きつける雨音が耳につきはじめる頃、女は姿を見せる。声は発さない。ただ、目を剥き、窓の向こうから淳を睨み続けるだけだ。
だが、あれは“視ている”のではない。
“思い出してほしい”のだ。
淳には思い当たる節がない。──いや、正確には思い出したくない記憶がある。
あのアパートの一室。濡れた玄関。閉じたままの風呂場。女の名前を、もう思い出したくない。
──「鈴村梓」。
二十六年前、淳がまだ大学生だった頃、住んでいたボロアパートの隣室に住んでいた女だ。地味で目立たず、どこか陰のある女。淳はある時、軽い気持ちで彼女と関係を持った。就職も決まらず、未来に怯えていた自分に優しくしてくれた彼女を──都合よく、使い捨てた。
梓は妊娠していた。
しかし、淳は責任を取らなかった。
「本当に俺の子かも分からないし」
その一言を最後に、彼女は姿を消した。
警察の話では、数日後にアパートの風呂場で彼女の腐乱死体が発見されたという。溢れた風呂の水で階下に漏水が起きて発覚した。死後三日。遺書もなかった。
それ以降、淳はこの出来事を心の奥底に封印していた。
心の中に閉じ込めた雨音が、今、現実に溢れ出してきた。
女の幽霊は日に日に強くなった。
夜中の二時、目を覚ますと窓の外に赤い目が光っている。
寝ている背中にじっと冷たい気配が張り付く。
電源を切ったテレビに、風呂場で水に沈んだ女の顔が映っていた。
排水口から滴る水音が「お・ぼ・え・て・る?」と呟いているように聞こえる。
そして、決定的だったのは──雨の中、女の遺影を持った老女が淳の部屋を訪ねてきた日のことだ。
「娘がね、死んだ風呂場の写真、あなたが撮ったんでしょう」
唖然とする淳に、老女は血の気の引くような目で告げた。
「死ぬ前の晩、娘があなたの部屋にいたって、他の住人が言ってた。
あの子はね、あんたの子どもを抱いたまま風呂に沈んだのよ。わかる?」
淳の頭に、一滴の水が落ちた。天井からではない。頭の中からだ。
その夜、風呂場のドアが勝手に開いた。
濁った水が溢れ、床を這い、ベッドの足元まで流れてくる。
中には誰もいない──はずだった。
だが、そこにいた。
髪を濡らし、裂けた唇から水を垂らす女。
抱いている赤黒い塊。目が、三つあった。
「ねぇ、パパ──」
女の幽霊が、初めて口を開いた。
翌朝、淳の部屋は水浸しだった。
警察は漏水と過労死と判断した。風呂場の水は止まっていたが、なぜか壁に大量の手形が浮き上がっていた。
その手形は、すべて小さかった。
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読後余韻
人間の愚かさとは、忘れようとすることだ。
記憶は消せても、因果は消えない。
雨音は、ただの音ではない。誰かの怨嗟の囁きかもしれないのだ。
#ホラー小説 #短編