94話 海獣リゾートへようこそ! 4
白煙の中に、片膝をつき、地面に手をついた全裸の男が蹲っていた。
彼の肌は濡れたように輝き、白煙に薄く包まれて蒸気が上がる。
肩を上下に揺らして息をつくたび、丸みを帯びた腹が軽く震える。
背中はやや丸まり、汗が肩甲骨から背中にかけて筋となって流れ、腰回りの柔らかな肉を伝う。
膝をついた姿勢の彼の体は、筋肉が消え去ったわけではないものの、時の流れに逆らえずに柔らかくなった肉付きが目立つ。
肩幅は広いが、腹はほんのりと丸みを帯び、ふくらはぎから太ももにかけてわずかに肉が揺れ、地面に手をついた腕の筋は緩やかに浮き上がっている。
胸を開くように深く息を吸うと、そのたびに肩が小刻みに揺れ、白煙が漂う中、彼の呼吸が白く混ざる。
ゆっくりと立ち上がり、少しよろけながらも、彼は力強く兄妹のほうへ歩みを進めた。
「え、嘘。まさか……」
シルビアが思わず口元を押さえる。
全裸の男は、肩幅は広いが、腹はどっしりと膨れ、年相応に重力に逆らいきれない柔らかさが漂っていた。
腰回りには肉がつき、かつての筋肉がやや名残惜しげに存在感を見せる一方、背中や腕にはわずかにたるみが見える。
「……だ、誰だ?」
ベルナルドが不安げに問いかける。
男は首をグキリと鳴らし、視線を兄妹に向ける。
何か決意を込めた鋭い目つき――のつもりだが、よく見ると目尻には笑い皺が刻まれていて、威厳というよりは親しみ深い顔立ちである。
「服とブーツ、そして馬をよこせ」
一瞬の沈黙の後、シルビアの手が反射的に動き、持っていた魔杖で男の頭を容赦なくぶん殴った。
「ふざけてんじゃないわよ! ルイス! わけわかんない変装して!」
「シルビア、違う!」
ベルナルドが素早く指摘した。
「それ、ルイスじゃない!」
シルビアは目を丸くして男を見つめた。
「え!? じゃあ、誰?」
☆☆☆
ルイスがゆっくりと起き上がると、洞窟の天井が見えた。
薄暗がりの中、響く怒声が耳に飛び込んできた。
「ふざけてんじゃないわよ! ルイス!」
まずい。
マジ切れしている時の姉貴の怒号だ。
はっきり覚えてはいないが、なにかエラいことをやらかした感覚だけはある。
嵐の過ぎるのを待つのが最善手とみた。
その時、ふと懐に手を入れてみると、いつもいるはずの雷獣、ダニエルがいない。
冷や汗が背筋を流れる。
雷獣ダニエルとは仮にではあるものの、眷属として魔法契約を結んでいる。
ダニエルは大権威レイの信頼のもと、預けられた魔獣だ。
逃げられました、では済まされない。
「どこだ! ダニエル! 居たら鳴いてくれ!」
そんなルイスの叫びに対して、なんとも不可解な声が返ってきた。
「誰か呼んだ?」
なぜだか生尻が見える。
馬鹿な。
生尻が振り向き、色々見えた。
「ダ……ダニエル?」
姿形が変わろうとも、ルイスとダニエルは眷属契約で結ばれている。
ルイスは、目の前の全裸で佇んでいる中年男性が、懐に入っていた雷獣だと瞬時に見抜いた。
「ここはどこかな?」
全裸の中年男が首を捻る。
無言でシルビアが魔杖を振りかぶった。
「待て、待て! シルビア! ルイスがなにか言ってる!」
「知るもんですか!」
「謝れ! ルイス! 姉さんに謝りなさい!」
珍しくベルナルドも怒っているようだ。
ルイスは深呼吸して、渋々だが素直に頭を下げた。
「……ご、ごめん」
☆☆☆
「ああ。こいつ。新しい黒街の大権威から預かってさあ」
ルイスは涼しい顔でそう言ってのけ、ベルナルドの眉はピクリと動く。
「おじさんを?」と疑問を口にすると、ルイスがすかさず「ダニエルだぞ」と自信たっぷりに答える。
それに続いて、件の”おじさん”も真顔で「ダニエルです」と自己紹介を付け加えた。
シルビアは遠くからひょっこりと岩陰から顔を出し、警戒したまま訊ねる。
「ねえ! この人、ちっちゃな雷獣じゃなかった?」
シルビアは、中年に近寄る気配はまったくない。
ルイスが肩越しに「おじさん。雷獣なの?」と訊く。
ダニエルは少し悩みつつも「おじさんは、おじさんだよ?」と返した。
「それ普通に、おじさんじゃない!!」
シルビアがまたしても声を荒げるのを、ベルナルドが宥めようとする。
「待つんだ。シルビア。預かったものは仕方がない」
「お兄ちゃん!」
「やれやれだぜ。姉貴。大袈裟すぎ」とルイスは肩を竦めて笑い「ちょっとデカくなっただけだって」と言った。
「成長の仕方がおかしいでしょうが!」とシルビアは声を荒げる。
「さ。ダニエル。肩に乗れ」
ルイスは肩をすこし下げて、ダニエルを促す。
「絶対無理だから! 乗らないから!」
シルビアが遠くから叫んでいる。
「姉貴さあ。外見で判断するなって、いつも俺に言って来るじゃん」
「するわよ! どう見ても、おじさんでしょうが!」
「おじさんに見えるだけで、こいつはダニエルだ!」
「だからダニエルって名前のおじさんなのよ!」
ベルナルドは姉弟の言い合いに頭を抱え、どう収拾をつけたものかと腕を組んで困惑していた。
☆☆☆
洞窟の外へと出てきたルイスの姿に観衆が注目する中、解説者マリオンが実況でその様子を伝える。
「セリナ大権威が最注目していた――ルイス! ルイス・カザーロンが出てきまし……アレ?」
その視線が隣の全裸の中年男性に釘付けになる。
「ルイスと知らないおじさん! 裸のおじさんが隣りを走っています! そのすぐ後ろにベルナルドとシルビアのご兄妹も見えます!」
クローナが、少し混乱した様子でアナウンスを続けた。
「家族で試練を乗り越えたんですね。素晴しい光景です」とセリナは感動的に話す。
クローナは即座に「えっと……そうですかね? あの男性は誰でしょうか?」と疑問を投げかけた。
通信魔具を通じてクローナがルイスに訊ねると、ルイスは「ダニエルです」と明るく返答した。
「ダニエル? そういう参加者登録はありませんが?」
「俺の眷属です。なんか聖水掛けたら大きくなりました」
ルイスが元気に答える。
その時、ピイと甲高い笛の音が響き、水着姿の隊員たちが駆け寄って来た。
ルイスとダニエルを呼び止め、厳しくチェックしていく。
「おおっと! ブルー鯖! ここでライフセーバー隊”ブルー鯖”の検査が入ります!」
「揉めているようですね」
「ええ。パーティのなかに知らない全裸の中年男性が混じっているのは、すこし気になるところ!」
クローナも不安気にアナウンスした。
「結論が出たようです!」
「問題なし! 問題なしです! どうやら、ルイスくんと中年男性との契約が確認できました!」
「いやあ、良かったですね」
三人の解説者も安心したように話し始めた。
「ああっと! そんなことをしているうちにご覧下さい! 全裸のダニエル、太陽に当たったからでしょうか――みるみる小さくなっていきます!」
ダニエルがうめき声を漏らし、体がぎくしゃくと震え始めた。
ダニエルの肌がゆっくりと縮み、弛んでいた皮膚がピンと引き締まり、まるで濃い霧が立ち上がるかのように白煙が湧き上がった。
ダニエルの腕や足がぎゅっと凝縮され、顔つきも次第に柔らかく幼さを帯びていく。
「うげえ……」という呻きが響く。
ダニエルの声が次第に高く、小さく、か細くなり、まさに雷獣のものへと変わりだした。
その声とともに、毛並みがピリピリと立ち上がり、毛先から小さな電撃が散る。
中年男性が蹲っていた場所には、小さな雷獣の姿があった。
微かに立ち昇る白煙が晴れたあと、小さな雷獣が再びルイスの肩へ乗る瞬間を、スクリーンは映し出していた。
「心が温まりますね」とセリナが言う。
「そうですかね?」とクローナが怪訝な顔で応じた。
ルイスは大喜びで肩にダニエルを乗せ、鼻歌まで口ずさみ始めた。
「あ! ダニエルが元に戻った! ほら見て。怖くない。ランララ……」
「安心してください。乗ってますよ」
取って付けたようにベルナルドがフォローする。
「不安しかないわよ!」
そして、またシルビアが激怒した。
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