76話 いちばん昏い夜 8
――第十階層禁術 地獄回廊。
レイは背後から近付いてくるルイスに気付くと、振り向きざま瞬時に魔法を発動させた。
赤い瞳がルイスの目と交差し、その瞬間、ルイスは魔法に飲み込まれた。
目の前に広がったのは、恐ろしく深い大迷宮。
密林の中のダンジョンが、ぽっかりと口を開け、暗闇が底知れぬ深淵としてルイスを迎え入れようとしていた。
ジャングルの鬱蒼とした樹々が迷宮の入り口を取り囲み、絡みつく蔦や厚い葉が視界を遮る。
迷宮の壁は古びた石で覆われ、湿気を含んだ苔がびっしりと張り付いている。
石の隙間からは木の根が入り込んでおり、生い茂る植物が辺りを覆い尽くしていた。
迷宮の奥からはかすかな風が吹き抜け、腐葉土の湿った香りが鼻をつく。
その風が運んでくるのは、得体の知れない生物の唸り声と、遠くで響く水滴の音。
入り口をくぐると、光はほとんど届かず、迷宮の内部は暗黒そのものだった。
迷路のように続く無数の通路が、まるで獲物を誘い込むようにあちこちへと伸び、深淵の最深部へと続いている。
ルイスは無意識に一歩を踏み出した。
その足元がぐらつく感覚に襲われ、瞬時に気を引き締める。
迷宮は彼を飲み込むために待っている。
戦いを求めるルイスの本能が、この先に広がる地獄のような迷路に挑むことを望んでいた。
「うん? こいつは――」
ガヴィーノが怪訝そうにルイスを見つめた。
「ギルド長、お知り合い?」
レイが問いかけると、ウーゴは笑いを浮かべながら答えた。
「そりゃ、うち所属の冒険者ですからね。リカルド将軍の末息子で……まあ、これが手のつけられない悪ガキで」
「あら? そう。リカルド将軍の。手がつけられないのなら、つけなきゃ良いのよ。精神世界で大迷宮の中を迷子になってなさい」
禁術 "地獄回廊"――それはレイが黒魔法大権威として最初に手掛けた仕事であった。
超難関として名高い首都大学、黒魔法学部の入学試験の最終テストにて、自身の精神世界が創り出したこの大迷宮が受験者たちを待ち受ける。
その挑戦者たちに課されたのは、地獄回廊を突破せよという苛烈な試練であった。
迷宮は単なる空間ではなく、精神の奥深くを彷徨わせる罠に満ちている。
複雑に入り組んだ通路は、挑む者を惑わせ、抜け道のように見せかけて行き止まりに誘い、または深淵のごとき暗闇に突き落とす。
この試練を乗り越えるには、頭脳はもとより、体力、気力、そして何よりも精神力の強さが鍵となる。
試されるのはただの知識や技能ではなく、心の耐久力そのものだ。
地獄回廊を解き明かすには、人間の限界を超える覚悟が求められる。
それゆえ、そこらの悪ガキが一生かかっても解けるような代物ではない。
☆☆☆
精神世界へ渡航したルイスは白目を剥き、立ったまま口をパクパクさせていた。
まるで意識を失い、無言で魔法に支配されているかのようだった。
「大丈夫か?」
ガヴィーノが立ったままのルイスを心配そうに覗き込む。
「悪ガキ相手なら良い毒抜きになるでしょう。帰りには元に戻します」
レイはそう言い放つと、気にも留めずにさっさと応接室のドアをくぐって消えていった。
☆☆☆
「おやおや~?」
モニク・バローは、まるでバレエを踊るような軽やかな足取りで黒街ギルドの古びた階段を上がっていった。
階段の踊り場で目にしたのは、意識を失いながら時折微笑みを浮かべて立ち尽くす少年の姿だった。
ギルドのど真ん中で、違法ポーションを嗜んでいるわけでもあるまい。
それにしても、どういう状況なのか?
モニクは不思議そうに首を傾げた。
すると、近くにいた受付嬢が声をかけてきた。
「大丈夫です。皆さん、お二階の応接室にいらっしゃいますから」
「お嬢さん、ありがとう!」
モニクは長い足をしなやかに伸ばしてウインクを返すと、受付嬢はくらくらしたような表情で頬を赤らめた。
応接室のドアをノックし、モニクは明るい声で言った。
「ご機嫌よう! 皆さん!」
両手を広げて扉を開け放ち、颯爽と入室したのであった。
☆☆☆
「エリアダンジョンが異世界へ通じているということは、労せずして遠距離移動可能な”ゲート理論”が実戦できているってことでしょう? 後は調査研究を昼夜問わず行うべきです!」
レイが熱を帯びた声で言い放った直後、モニク・バローがまるで舞台に登場するかのように両手を広げて入きた。
モニクはその様子を目の端で捉えながら、優雅な足取りで部屋に入る。
レイが振り返り、驚いた表情を浮かべた。
「あら? モニクさん……どうなさったの?」
「いやね……ちょっと各研究エリアに謝罪行脚しているところさ! はっ!」
モニクはしなやかな動作でソファに腰掛け、ピンと伸ばした長い足を組み替えながら微笑んだ。
彼女の軽やかな口調に対し、ガヴィーノはどこか不安げに目を細める。
初めて目にする芝居がかった人物に、若干の警戒心を抱いたのだろう。
レイに目を向けて質問する。
「あの……レイ。この方は?」
「新任の火魔法大権威のモニク・バローさんです」
レイが紹介すると、モニクはにっこりと笑ってウインクを飛ばした。
「やあ! よろしく!」
☆☆☆
「養殖エリアに植生の違う生態系が出現していることだろうと思う」
「ああ! まさにそれについて話していたところです!」
ウーゴは手を叩いて納得したように頷いた。
「それ、実は私のせいなんだ。申し訳ない!」
モニクが肩をすくめて答えた。
「――というと?」
ガヴィーノが訝しげに問い返した。
モニクは真摯な表情を浮かべながらも、その目にはどこか楽しげな色があった。
「火魔法のエリアダンジョンでは、灼熱エリアをかなりリアルに再現しているんだけどね……魔界のダンジョンを再現してしまったんだよ。各エリアダンジョンが最深部で繋がっているとは知らなかったから、影響が出ているんだと思う」
「魔界のダンジョンの再現ですって?」
レイはその言葉に食いつくように反応し、声が少し上ずった。
「ああ……本当にすまないことを――」
「最高じゃないですか!」
歓喜の声がレイの口から弾けた瞬間、応接室のドアが突然勢いよく開いた。
そこには汗だくで顔を赤くしたルイスが立っていた。
「そのダンジョン――俺に潜らせてくれ!!」
力強い叫び声に、その場の空気が一瞬にして張り詰める。
「はあああああああ??!! なんなの、アンタは??!!」
レイは怒りを抑えきれず、額に青筋を立てたまま、ルイスを睨みつける。
部屋全体がレイの激昂した気迫に包まれた。
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