73話 いちばん昏い夜 5
朝の黒街スラムは、夜の喧騒が残る独特の雰囲気を漂わせていた。
通りにはまだ薄暗さが残り、街灯の明かりがぼんやりとした光を投げかけている。
路上には昨夜の宴の残骸が散らばり、空の酒瓶や食べかけの食べ物が所々に転がっていた。
狭く入り組んだ路地からは、まだ営業を続ける飲み屋のかすかな音楽や笑い声が漏れてくる。
店先で腰を下ろしている店主は、疲れた表情で掃除をしているが、その手元はどこかのんびりとしていた。
通りを歩く人々のほとんどは酔っ払っているか、徹夜明けの大学生で、朝の冷気に震えながらも楽しげに語り合っている。
奥まったバーの入口に近づくと、酒の匂いが一層濃くなる。
扉の向こうの空気には魔煙草を使った水タバコの煙が重たく漂い、カウンターに並ぶ酒瓶が朝日を浴びてぼんやりと光っていた。
壁には色褪せたポスターがいくつも貼られており、何年も前のコンサートの告知や、政治運動のスローガンが時の流れに埋もれてたままになっていた。
ダニエル・マッコーガンはカウンターに肘をつきながら、グラスを手に取って酒をゆっくりと揺らしている。
薄暗い店内で一人飲む彼の姿は、朝の静けさと夜の名残をつなぐように見えた。
「だいたい、高レベルの魔法使いなんてのは、みんな魔法の使える猛獣なんだよ。わかる?」
酔いにまかせた声が響く。
「もう看板だよ、ダニエル」
カウンター越しにマスターが呆れ顔で溜め息をついた。
明け方の風が冷たく、店内のアルコール臭を吹き飛ばしていく。
「はいはい、帰りますよ。ごめんなさいね、深酒しちゃって」
ダニエルはふらつきながら立ち上がり、マスターに軽く手を振る。
「気をつけて帰りなさいよ」
マスターの声が背後で薄れていく。
扉を開けると、夜明け前の空気が澄んで冷たい。
黒街スラムといえども、明け方には街並みに薄青い光が差し込み、まるで洗い流されたかのように静かだ。
朝の黒街スラムは、夜の名残を微かに漂わせながらも、新しい一日を迎え入れようとしていた。
冷えた空気が頬を刺し、夜の喧騒で溜まった埃が舞い上がるが、遠くの空が薄紅色に染まり始めると、通りにもどこかしら柔らかな明るさが滲んできた。
舗装が不十分な石畳の上には、昨夜の騒ぎで散乱したゴミがちらほらと転がり、路地裏の影がまだ濃く残っている。
歩きながら見上げると、くたびれた建物の屋根には錆びた看板が垂れ下がり、途切れとぎれの文字が微かに光っていた。
遠くからはパン屋の炉から立ち上る香ばしい匂いが漂ってきて、魔獣のモツ煮やスパイスの匂いと混ざり合い、ダニエルの鼻腔をくすぐった。
いつも顔を出す屋台の親父が片付けをしている横を通り過ぎると、目をやっただけで軽く会釈を交わすのが、もはや習慣となっていた。
ダニエルは肩をすくめ、朝の冷気を吸い込みながら、今しがた出てきたバーを振り返る。
扉は閉ざされ、店内の灯りも消えていたが、その向こうに広がる喧噪の余韻が、まだ耳の奥で響いているようだった。
足音だけが石畳に反響する中で、道端に眠る酔客や、薄汚れた路地裏に隠れる猫たちの影がちらちらと見え隠れする。
通りには昨夜の喧騒の名残があり、道端に散らばったガラスの破片や、酔いつぶれて眠る者たちがまばらに転がっていた。
薄明かりの下で、崩れた建物の影が長く伸び、スラムの雑踏もまるで夢の中のようにぼんやりと映る。
所々から立ち上る魔獣の臭い――焼きたての肉の香ばしさと腐ったものの悪臭が混じり合っている。
ダニエルはゆっくりと歩き出す。
近頃は、魔獣のモツ煮をつまみに呑み、顔なじみに挨拶しながらバーをはしごしては、寝るためだけに借りている激安アパートへ戻る日々だ。
軋む木の階段を上り、湿っぽい空気の漂う部屋のドアを押し開ける。
激安アパートに着いた頃には、街はさらに白み始めており、ぼろぼろの木製階段を軋ませながら上ると、湿っぽい空気が染み付いた部屋の扉が出迎えた。
中に入ると、薄暗い室内にかすかな朝日が差し込み、乱雑に積まれた本や書類がぼんやりと浮かび上がった。
雷撃で起こされることなく、平穏な眠りにつけることの喜びよ。
寝返りを打つたびに湿ったベッドシーツが冷たく肌に触れ、ダニエルは自嘲するように微笑む。
かつては魔法学院で将来を嘱望された身だが、今や安酒と魔獣の臭いに染まったこの暮らしが日常となってしまった。
☆☆☆
「お帰り」
ダニエルが寝返りを打つと、真横で親父――ビクトル・マッコーガンが寝転んでいた。
「ぎゃあああああああああああああああああああああ!!!」
「昨日から待っておれば、朝帰りとはどういう了見だ。貴様」
ビクトルは寝転んだまま、冷ややかな眼差しでダニエルを睨みつけた。
「どうも雷撃の手応えがないと思っていたら、黒街スラムで遊び呆けていたとはな」
「ど、どうしてここが…?」
「暁月剣禅に忍者軍団を紹介してもろうたんじゃ。探索だけで済んだのは親心だと思え。場合によっては、忍者は暗殺も引き受けるからの」
「ほほう、彼が高学歴引きニートですか」
突然現れた声にダニエルは目を見開いた。
振り返ると、見たこともないほどの美少女が微笑んで、こちらを見下ろしている。
「うむ。煮るなり焼くなり好きにせえ。なに。魔力耐性は常人の軽く百倍はある。ほとんどの天変地異でも耐えられるように育てた」
ビクトルは平然と言い放った。
(育てたじゃねえ! それは一般的に”バケモノ”というんだ!)
「実験動物のご提供、ありがとうございました」
その瞬間、ダニエルの視界がぼやけ、意識が遠のいていく。
(死ぬ前に、天使と出会えてよかったな)
性懲りもなく、ダニエルはそんなことを考えながら酩酊する。
「ようやく、私の“電流爆破子育て”が実を結んだと見える」
ビクトルの声が遠くで聞こえた。
(実なんてどこにもねえよ!)
心の中で反抗したが、すぐにダニエルは意識を手放してしまった。
☆☆☆
「――うん……妻が――お邪魔するよ」
薄暗く冷たい空気が漂い、周囲には魔獣の荒い息遣いが響いている。
近くの試験管の中で、魔虫がカリカリと音を立てて這い回っているのが聞こえてきた。
ここはどこだ?
――妻?
「先生――?」
微かに聞こえてくる会話にダニエルは耳を傾けた。
だが、頭はまだぼんやりとしていて、一服盛られたような感じは否めない。
妻? お邪魔? 先生?
頭の中でその言葉が回る。
混乱する意識を整理しようとした瞬間、美しい女性の声が耳に入ってきた。
「ああ。気がついたんですね。もうちょっと待ってて下さい」
暗闇の中から現れたのは、信じられないほど美しい少女だった。
彼女は檻の上からダニエルを見下ろして微笑んでいる。
(ん? 見下ろして?)
ダニエルははっとして、自分の状況を確認する。
視界が低い。異様に低い。
周りを見渡すと、俺は檻に閉じ込められていることに気づいた。
「やれやれ――君は相変わらずだな」
部屋の奥から灯りが漏れ、シルエットが浮かび上がる。
長髪のかなりイケメンの横顔が見えた。
ソファに深く座って、物憂げに美少女と談笑しているのが見えた。
会話の内容を整理してみよう。
――妻。お邪魔。先生。君は相変わらずだな……
ダニエルの混乱した頭に一つの結論が浮かんだ。
これは不倫現場に間違いない、と。
(まさか、俺が不倫現場で目を覚ますことになるとは!)
だが、何かがおかしい。
なぜ自分は檻に入れられている?
視界の低さ、身体の違和感……
(こ、これはまさか……噂に聞く視姦プレイというやつなのでは?)
痴女がイケメン先生と不倫し、檻に閉じ込められた俺にその一部始終を見て貰おうと――
馬鹿な!
檻にさえ閉じ込められていなければ!!
しかし――望むところだ!!!
ダニエルはその状況に興奮し、檻の中で身を乗り出した。
☆☆☆
可愛らしい声が響いてくる。
「うふふ。先生。私が先生を毒殺でもするような口ぶりじゃないですか」
なんて愛らしい声だろう――
ん?
気のせいかな?
毒殺?
今、毒殺って言わなかったか?
物騒な言葉が聞こえたような気がする。
「いや。君は本当に毒殺しようとしてるじゃないか」
イケメン先生の声が返ってくる。
なんだ。冗談か。先生もわかっている。
そんなことより。さ。早く、おっぱじめてくれて構わないんだぞ?
冗談を言っているだけだろうとダニエルは安堵した。
耳を澄ますと、二人はなにやら難しい話を始めている。
アレ?
話の内容が、俺が思っていたのと何やら違う。
痴女とイケメン先生の激しい遣り取りが聞こえてきた。
なにか揉めているのか。
痴情のもつれ。
なんてことだ。
そんなものにも付き合えと?
あの痴女め!
どこまで変態なんだ!
ちくしょう!
檻さえなければ!!
☆☆☆
殺し。妻。奥さま……しばらくすると、なにか非常に危険な単語が飛び交い始めた。
「……アレは戦乱期の暗殺に使われたものだ」
ん?
んん??
ちょっと待って。
おかしくないか?
この会話……不倫カップルが妻の殺害を企てていないか!?
馬鹿な!
俺は視姦プレイがやりたかっただけなのに!!
なんで暗殺計画を聞かなきゃいけないんだ!
それとも、危険な三角関係までプレイ内容に含まれているとでも言うつもりなのか!
ちくしょう!!
こんな時なのに、ちょっと興奮している俺が憎い!!
「君と話していると……できて有意義だよ」
「まあ嬉しい」
「喜んだらいけないトコだぞ」
うふふ、と痴女が妖艶に笑う。
あはは、とイケメン先生が返す。
ダニエルの心臓はどんどん速くなる。
これはマズい。絶対にマズい。
「ところで先生」
「なんだね?」
「しびれ毒サソリ茶、試してみませんか?」
(くそ、聞こえづらい。どうして痴女は、俺にこんな計画を話しているんだ?)
ダニエルは焦って、檻の中で周りを見渡した。
ダメだ。
脱出するには高出力の魔法が必要だが、ドアを開けて痴女は俺の動向を見張っている!
(これが痴女か……彼女は――興奮しているのだろう。なんてこった。間違いない。そして、彼女は俺を怖がらせて愉しんでいるのだ。恐るべし、痴女の手腕)
「毒を飲ませてやろうと思って」
エラいことを言った。
聞いてしまった。
ヤバい。
これは、愉しんだ後に口封じされるパターンだ。
「さ。先生」
「……帰りたい」
突然、バタンと何かが倒れる音がした。
イケメンが床に倒れている。
(え? は?? な、なぜ?? 共犯者じゃなかったのか?)
混乱の渦中にいるダニエル。
殺した。
今、イケメン先生を殺したぞ。この女。
檻の向こうで痴女がゆっくりとこちらに近づいてくる。
(待て――待て! 待て!!)
そして、少女の美しい微笑みを最後に、ダニエルは意識を失った。
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