72話 いちばん昏い夜 4
黒街一丁目は、黒魔法研究エリアの中でも屈指の閑静な高級住宅地だ。
石畳の通りが広がり、街灯には魔法の灯りが柔らかな光を放つ。
街路樹は深い緑をたたえ、その葉は風にそよぐたびにかすかな魔力の光を纏う。
立ち並ぶ屋敷はそれぞれに個性的でありながら、全体として洗練された調和を感じさせた。
邸宅の多くは、魔力を増幅する特殊な鉱石が使われた石材で建てられており、外壁は豪華な意匠が施されていた。
高台に位置するため、渓谷を一望することができ、朝夕には壮大な風景が展開する。
眼下に広がる深い渓谷は、魔界の息吹を感じさせるような神秘的な霧で包まれ、遠くにぼんやりと見える街並みが一層幻想的に映えていた。
一際立派な邸宅の玄関に立つ元黒魔法大権威、ガヴィーノ・デル・テスタは、まさに堂々たる佇まいを見せていた。
細身で長身、四十代後半に差しかかってもなお、鋭い眼差しは衰えることなく、挑発的な輝きを宿している。
黒髪は肩にかかる長さで自然な流れを保ちながら、風が吹くたびに軽やかに揺れる。
その端正な顔立ちは、鋭角的な輪郭と冷ややかに引き締まった口元が際立ち、ただそこに立つだけで威圧感を放っていた。
魔法剣士としての彼の気質は全身に漂い、魔力がほのかに皮膚から立ち昇るように感じられる。
黒のマントは大きく広げられ、内側には魔法陣が縫い込まれているのが見え隠れしていた。
左腰には鞘から微かに黒光りする剣の柄が覗いており、その位置が彼の無骨でいて優雅な立ち居振る舞いを際立たせている。
☆☆☆
室内から現れたレイは、ゆるめのシルエットが可愛らしいカジュアルな服装に身を包んでいた。
淡い色合いのオーバーサイズのスウェットが、彼女の華奢な体に程よくフィットし、袖口が少し手を覆うように垂れ下がっている。
ボトムスは柔らかな素材のスウェットパンツで、リラックスした印象を与えつつ、彼女の自然な可愛らしさを引き立てていた。
髪はポニーテールにまとめられ、弾むように揺れるその姿が無邪気さを感じさせる。
額にかかる前髪が軽く揺れ、ポニーテールから漏れる幾束かの髪が首筋にふんわりと落ちる。
さらに、レイは丸いフレームの眼鏡をかけており、その透き通ったレンズ越しに見える大きな瞳が、知的でありながらもどこか柔らかな印象を与えていた。
「先生。お呼び立てして申し訳ありません。どうぞ、お上がりください」
「うん。妻が君のことを怖がって――いや、なんでもない。お邪魔するよ」
さすがに白衣は着てないな、と変に安心するガヴィーノ。
家に一歩入って、安心するのは早すぎたと後悔することになった。
ガヴィーノはレイの家に一歩足を踏み入れた瞬間、冒険者時代の危険なダンジョンに踏み入った空気と同じものを感じ取っていた。
玄関から続く廊下には、魔法の書物や錬金道具が所狭しと並んでおり、その光景はまるで実験室そのものだった。
棚には魔法薬の瓶が整然と並べられ、それぞれに手書きのラベルが貼られている。
香草のような不思議な匂いが漂い、薄暗い照明がその異様さを際立たせていた。
「ここは、昔のダンジョン――いや、下宿を思い出すな……」
「ええ。黒街の」
レイは微笑み、ガヴィーノは心の中で爆発物はないかと警戒しながら足を進めた。
「ここはちょっとした趣味のスペースなんです。先生には、懐かしいでしょう?」
大権威に提供された豪奢な邸宅は、期待された優雅さとはほど遠かった。
室内には大量の資料や論文が無造作に積み上げられ、檻の中には魔物や召喚獣が鎮座し、不穏な気配を漂わせている。
ガヴィーノは部屋の奥へと進むにつれて、その印象がさらに悪化していくのを感じていた。
壁際には乱雑に積み上げられた魔法書があり、床には魔法陣が描かれた敷物が敷かれている。
奥からは、何かが不気味に蠢く音が響いてきて、檻の中で魔物が動き回っているのが見えた。
召喚獣のうなり声が時折響き渡り、家中に漂う異様な緊張感は、自宅というよりもまるで実験施設のようだ。
「やれやれ……レイ、君は相変わらずだな」
ガヴィーノは苦笑しつつも、学生時代の彼女を思い出した。
昔から研究熱心で、興味の赴くままに様々な魔法を試していた彼女だが、ここまで徹底的にやっていたとは思わなかった。
指導していた頃はまだ制御されていたが、今やその好奇心は誰にも止められないようだ。
「レイ。セリナのように派手にしろとは言わないが……もう少し、普通の生活を楽しんではどうだ?」
ガヴィーノは内心、レイの友人であるセリナが持つ華やかさとは対照的なこの暗い空間を眺めながら、彼女をもっと外へ連れ出していればと後悔していた。
誰かと過ごす楽しみや、普段の生活の小さな喜びを教えるべきだったのではないか、と。
「ああ。そうだ――緊急の話とはなにかね?」
気を取り直してガヴィーノは問いかけたが、どこか緊張が抜けきらない。
レイは台所に立ち、なにやら呪文を唱えながら飲み物を準備している。
彼女の背中は、淡々とした動作に反して、どこか異様な雰囲気を漂わせていた。
「なにかお飲みになります?」
軽やかに振り返るレイの声に、ガヴィーノはつい口元を歪めた。
「人間の飲食用でいいんだよな?」
半ば冗談、半ば本気でそう問いかけると、レイは小さく笑みを浮かべた。
「先生は毒耐性はおありでしたよね?」
その一言に、ガヴィーノの眉がピクリと動いた。
「それは君、お茶淹れる時に絶対訊いたらいけないやつだぞ」
真顔で言い返した彼の声には、どこか不安の色が含まれていた。
「うふふ。先生。私が先生を毒殺でもするような口ぶりじゃないですか」
レイは笑い声をあげ、冗談めかした表情を浮かべた。
その無邪気な笑顔を見て、ガヴィーノは少しほっとした。
学生時代から彼女は孤独を選び、他者との関わりを避けてきたが、今も変わらずひとりでいる姿に心配していたのだ。
「君が元気そうで良かったよ」
そう声をかけると、レイは「色々、反省することも多い毎日です」と、どこか真面目な口調で応じた。
その言葉に、ガヴィーノは少し驚いたが、同時に喜びも覚えた。
担当教授として長年見守ってきた彼女に、やっと人間らしい感情が芽生えたように感じたからだ。
「さ、先生。しびれ毒サソリのお茶が入りましたよ」
そう言ってレイが茶器を差し出すと、その中身を見たガヴィーノの表情は一瞬にして強張った。
「いや。毒殺しようとしてるじゃないか。君」
頼んでもいないお茶を持ってきたレイを見て、やはり彼女は人間の暮らしには遠いのかもしれないとガヴィーノは思った。
☆☆☆
あまりの才能に魅了され、禁術階層まで惜しみなく教え込んでしまったことが、結果としてレイを魔法の深みに嵌めてしまったのではないかと、ガヴィーノは反省していた。
彼女の才能を伸ばすことに夢中になるあまり、まずは一般常識や社会との関わり方を教えるべきだったのだ。
あの頃のレイは、とにかく学びに対して貪欲で、禁術の探求にも一切の迷いを見せなかった。
教えたことは瞬く間に吸収し、その限界をも超えていく姿に、指導者としての誇りと恐れを感じたものだった。
しかしその代償として、彼女の人間らしい感覚はいつの間にか薄れていったのかもしれない。
「そういえば、巨竜と戦った時のレポートは読んでいただけましたか?」
レイが問いかけると、ガヴィーノは小さく頷いた。
「ああ。確か、召喚禁術十九階層の巨人を呼び出して戦わせたとあったね。あれは確かなのか?」
「ええ、確かです。ただし、巨竜のレベルを少し低く見積もっていたかもしれません。竜人をひと呑みにするような巨竜が、二十足らずなわけがないですから」
レイは人差し指を小さな顎に当てて考え込むような素振りをみせる。
――黙っていれば可愛いらしいんだがなあ。
ガヴィーノはレイを見てそう思った。
「先生は昔から、階層レベルに対して懐疑的でしたね」
レイの質問にガヴィーノは即座に応じる。
「リカルド将軍が振る剣が、一般兵と同じ威力だと思うか? 同系統の技術だとして、それを同じ階層に分類するのは大雑把すぎる。階層レベルというものは、あくまで魔法使いたちの一つの目安に過ぎんのだよ」
「まさにその通りですね。先日の先生の論文も、非常に興味深く拝読しました」
レイの称賛に、ガヴィーノは軽く頷きながらも手厳しい指摘を続けた。
「私が思うに竜人が召喚した巨竜のレベルは、少なくとも二十五以上が妥当だろう。巨人を召喚した時、君は竜化していたのか?」
「はい。しておりました」
「よろしい。ならば、階層レベルに三~五ほどプラスするべきだ。そうでなければ、竜と取っ組み合いなどできるわけがない」
レイはその指摘に思いを巡らせ、再び口を開いた。
「そういえば、奈落の巨人の大きさも実際は三倍ほどありましたね」
「それを書きなさい、それを。どうも君は階層レベルを低めに見積もる傾向があるね。竜殺しの論文が完成するのは、まだ少し時間が掛かりそうだな」
「はい。実戦を経験して思いましたが、確かに階層レベルにとらわれるのは危険かもしれません。そもそも、そのレベルを設定した現在の魔法使い自身に、ほとんど実戦経験がないのですから」
ガヴィーノは、少し考えるような仕草を見せた。
「荒れていた時代には禁術階層も今より五つは上に設定されていたらしい。だが、それはそれで危険だぞ。簡単に人どころか魔物までも殺せる魔法が合法だったのだから」
「一長一短ということですね」
「そういうことだ」
師弟の久しぶりの会話は思いのほか弾んだ。
テーブルに蠢く毒サソリのお茶さえなければ、もっと弾んだとガヴィーノは思った。
☆☆☆
豪奢な家具に囲まれた室内は、どこか異様な雰囲気を漂わせていた。
最高級のソファに、絵画が飾られた壁。
時折響く実験魔獣のうなり声や、魔虫が這いずる音が、この場の静けさをかき乱す。
そんな中、レイはまるで何事もないかのように、ゆるめの服装でポニーテールを揺らしながら、首都大学総長室でのやりとりをガヴィーノに説明していた。
「魔界。コキュートスか――いや、つい先月まで大権威を務めていたから、代理をするのは構わないんだが。実は、私はもう教職も辞任しようかと考えていたんだよ」
「そうですの?」
「ああ。一介の冒険者にでも戻ろうかと。立場が上になるほど、しがらみは多くなる。もっとシンプルに暮らしたいと妻とも相談して」
「奥さまはお元気ですか?」
「ああ。君が初めて家に来た時、地獄の食人植物を持って来て以来だな」
「奥さま、あんなに喜ばれて」
「あれは腰抜かして、ひっくり返ったんだ」
「でも綺麗だったでしょ?」
「そう思わせて人を誘う食性だからね」
「こんなものを貰うのは初めてだと」
「ああ。あれを貰った人間は、ほぼ確実に人生の最期だからな」
ガヴィーノは、レイのちぐはぐな振る舞いに思わず苦笑いを浮かべた。
「……ひょっとしてアレは手土産に不向きだったのでは?」
「うん。アレは手土産じゃなく、戦乱期、暗殺に使われたものだ」
「平和な時代になって良かったですわ」
「君と話していると、自分が正気なのか確認できて有意義だよ」
「まあ嬉しい」
「喜んだらいけないトコだぞ」
☆☆☆
「トコロで先生」
「なんだね?」
「しびれ毒サソリ茶は飲まれないのですか? 高レベル毒耐性がどれくらいのものか早く見たいのですが」
「うん。なぜ君はいつも私を実験に巻き込もうとするのかね?」
「実は高レベル耐性持ちが致死性の特殊攻撃を受けると、魔力が一時的に爆上がりするという論文を読みまして」
「ええと――その実証実験のために、君は私に毒を飲めと言っているのか?」
「そうなんです。私も竜化した時にイチかバチかで自分に呪術をかけたんですけど、かえって同化が進んだんですよ。それで先生にも毒飲ましてやろうと」
「毒って言っちゃうんだな」
「さ。先生」
「……帰りたい」とガヴィーノは正直に言った。
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