70話 いちばん昏い夜 2
「で? どうッスか? 進捗は?」
「李――いや、実験体、虎人一号の正気を取り戻すことは困難だと結論付けたわ」
レイの声はいつも通り冷淡だった。
「どうも脳まで邪神に乗っ取られたみたい。策士が策に溺れたのね」
「あちゃあ。やっぱダメでしたか」
セリナは少し肩を落としながら、実験室に漂う重い空気を感じ取っていた。
「ちょっと休憩にしましょうか」
レイが実験室から自ら出ると言い出すのは珍しい。
セリナはもちろん快諾した。
☆☆☆
「大権威になると序列を弄れるのね。そんな裏技があるとは意外だったわ」
「いえ。それ知らなかったのは、レイレイくらいなもんですよ?」
「……そうなの?」
「ええ。序列を弄るというか、その系統魔法のトップチームに入れるのならば、とんでもない駆け引きが行われるのが常です」
「駆け引き? 私の時はなかったわよ?」
「――いや、ですから……」
セリナが言いよどむと、研究員たちはお互いに視線を交わしながら、さりげなく二人のやり取りに耳を傾けた。
レイ・トーレス大権威の一挙手一投足は、彼らにとって極度の緊張を強いるものであり、彼女の親友ともいえるセリナが気軽に接する様子に驚愕していた。
普通なら恐れ多くてできないことだ。
だがセリナだけは、遠慮もなくハグしたり、軽口を叩いたりする。
そんな彼女の無邪気な態度が、張り詰めた空気を少しずつ和らげているのがわかった。
ここ数日、レイと接した研究員の誰もが「この人は天才なのだ」と心の中で呟いていた。
序列をひとつ上げるために、凡人たちは上司に媚びを売り、夜も眠らずに何本もの論文を提出する。
だが、レイは休暇で魔女と対峙した後、即座に論文を書き上げ、それが国家レベルの大騒ぎになったのだ。
しかも、魔王の遺物「強欲のレイピア」の分析結果をも発表し、その功績でいきなり序列一位を獲得してしまった。
その後も、魔力を吸い取る「欲望のレイピア」に対抗するため、物理攻撃力を最大化する魔王の遺物「暴食の槍」を奪取し、竜人やその召喚した邪竜さえも退治した。
彼女が大権威に推薦されない方がむしろおかしいほどの異常ともいえる功績だった。
研究員たちはそんなレイの天才性に圧倒され、まるで別世界の存在のように思っていた。
「政治がわからない小娘が大権威になったと学会の長老たちは笑っていたが、それは彼女の真の実力を知らないからだ」――心の中でそう呟いた者もいた。
フィールドワーク、分析、実験、その直後に命懸けで実践する。
そんな研究者など、レイ・トーレス以外にはいない。
彼女の存在が常人を超越していることに、今や、ここに務めている者で疑っている者など一人もいない。
☆☆☆
「大権威になるにあたってリカルド将軍にも言われたんだけど――」
レイが研究所の簡易な椅子に座るや、セリナに言った。
「私ね、よくよく考えてみたら、人望とか全然、意味がわからないことに気がついたの。人情とか具体性のないことを要求されても困るのよ。人付き合いを上手くやれってこと? あなたはどうしているの?」
レイが珍しく、弱気であった。
もはや一介の研究者ではなくなり、彼女なりに苦悩しているのであろう。
「みんなと仲良しになったらイイんスよ。簡単かんたん♪」
セリナはお茶を飲みながら微笑んで答えた。
「普通にしてたらイイんですよ? レイレイはどうしてます?」
「いや、普通に致死量ギリギリの仕事をやらせているだけよ」
「ちょ……ダメッスよ! レイレイみたいにできる人ばかりじゃないんだから! せめて自己申告のノルマと目標くらいは訊いてからやんないと!」
セリナの説得に、研究員たちは内心で拍手喝采を送っていた。
「よく言ってくれた!」と。
だがレイの答えが続くと、緊張が再び戻ってきた。
「そうなの? 私の場合、仕事なんて刺し違える覚悟でやってるから、できないことなんてないのに」
「できないことがないなんて、おかしいですよお」
セリナが抗議の声を上げるのに合わせて、研究員たちも心の中で同意した。
「その通りだ、アンタだけだ」と。
「おかしくないわ。できないくらいなら、死んだらいいのよ」
その言葉に、研究員たちは顔を見合わせた。
「おいおいおいおい。この人、俺たちに死ねって言ってないか?」
そのとき、セリナが「死んじゃダメええええええええええ!!」と叫びながらレイに抱きつき、彼女の顔に激しく擦り付けた。
「ああ! そうだ! セリナちゃん、超ナイスなアイデアオが降ってきましたよ! うちで、お風呂の研究もしているし、皆で行っちゃいましょうよ。疲れなんて吹っ飛んじゃいますから! ね?」
セリナが言ったとき、研究員たちの心には少しの希望が湧いてきた。
「今から?」
レイは目を丸くする。
「お風呂入りたい人、挙手してくださ~い!」
その言葉が響くと、研究員たちは迷いなく全員が手を挙げた。
「ちょっと待ちなさい」
レイの静かな声が場の空気を引き締める。
「――そうね。セリナが指摘した通りだわ。私のペースに皆を巻き込むのは上司として失格ね。世間知らずな人間がいきなり上に立ってごめんなさい。私も実は困っていたの」
レイが研究員に向かって頭を下げた。
信じられないという顔で研究員たちは、レイを見ている。
「権力を持つということは、ある種の怪物になるのと同じだわ。セリナ。気付かせてくれてありがとう。自分の足下で踏み潰される人を無視するなんて愚行は、直ちに改善されるべきだと思う」
彼女が素直に謝罪する姿に、研究員たちは驚きを隠せなかった。
「各自の目標と計画書を今週中に提出して。話し合って、それぞれノルマを決めていきましょう。それで、どうかしら?」
研究員たちは感謝の気持ちを込めて「……ありがとうございます」と涙ながらに声を揃えた。
さらに「今やっている仕事の手を一旦止めて、水魔法研究エリアへ行って、スパに入ること」を命令されたとき、彼らはついに歓声を上げた。
セリナの無邪気な提案とレイの計らいにより、研究員たちは思いもよらぬ休息の機会を手に入れたのだった。
☆☆☆
首都大学総長ゾーエ・バルリオスの執務室は、広々とした空間に上質な家具が並べられ、重厚な書棚が両側の壁を覆っている。
窓からは柔らかな陽光が差し込み、部屋全体を穏やかな光で包んでいた。
深紅の絨毯が床一面を覆い、天井には豪奢なシャンデリアが輝きを放っている。
ここには学問の中心にふさわしい威厳と、魔法の力が静かに漂っているように感じられた。
レイが扉をノックして入ると、ゾーエ・バルリオスは応接中にもかかわらず、すぐに招き入れてくれた。
レイが執務室の扉を開けると、赤い癖っ毛の女性がソファに座っていた。
後ろ向きだが、高身長で堂々としており、褐色の肌に首元から覗く部族特有のタトゥーが覗いている。
「お呼びでしょうか? 総長」
レイが丁寧に声をかけると、赤髪の女性が張りのある調子で後ろを向いたまま言う。
「ここで我が同胞に出会えるとは感激だね!」
よく通る声だった。
単に大声というわけではなく、滑舌がすこぶる良い。
「ああ! 僕のことは気にしないで!」
その声はまるで舞台役者のセリフのようで、片手をクルクルと回し「どうぞ続けて」と促している。
「――彼女はモニク・バロー。新任の火魔法大権威と言った方が良かったかしら」
ゾーエが紹介すると、レイは一瞬戸惑った。
首都大学総長の座と兼任していたとはいえ、職を追われたゾーエの手前、どう反応するべきかレイは困惑した。
「ははははは! ゾーエ、君は時々イジワルだ。彼女が困っているよ!」
モニクは立ち上がり、爽やかに笑った。
彼女はレイよりも遥かに背が高く、堂々とした立ち居振る舞いは、不思議と威圧感を感じさせない。
「よろしく。こう見えて、ゾーエとは同級生だ。大昔の話だけどね」
その言葉を聞いて、レイは驚いた。
どう見ても二十代にしか見えない。
そうなれば、確実に亜人種族であろう。
「昔とほとんど変わらない姿で偽名まで使うんだもの。誰の差し金か、こっちは必死で調べたのに」
ゾーエが皮肉混じりに言うと、モニクは軽く笑って応じた。
「それで、レイ。大権威になってみて感想はどう?」
ゾーエが席に着きながらレイに訊ねた。
「ええ、つい先ほどセリナに誘われて、研究員全員とスパに行ってきたところです。水着になるのは恥ずかしかったですが……」
レイは肩をすくめて笑顔を見せた。
「あら? いいじゃない。心配いらなかったかしら?」
ゾーエも笑顔をみせた。
「今は、研究員の全員が熟睡してしまいまして。今日はもう仕事になりそうにありません」
「……たった二週間で全員ダウンするなんて――」
最後に付け加えられたレイの言葉に、ゾーエが椅子からひっくり返りそうになりながら反応した。
「ちょっ……レイ――待ちなさい。あなた、研究員に休みはちゃんと出しているのよね? 休ませずに働かせてたら違法なのよ? わかってる?」
ゾーエの厳しい言葉に、レイは目を丸くした。
「ええ?! そうなんですか?」
驚くレイにゾーエは掌で目頭を覆った。
「あははははは! イケイケ姉ちゃんだったゾーエが、今やすっかり上司らしくなったな! いや失礼。続けてくれ」
モニクが大声で笑う。
「とにかく、今週は休みを取りなさい。これは総長命令よ」
「……はい」レイは肩を落としてしょんぼりと答えた。
「週に一度は休日を設けるのよ。繁忙期でも例外はなし。これは守ること」
「わかりました」レイは真面目な表情で頷いた。
☆☆☆
「ああ。すいません。話の途中でしたね――モニクさん。私のことを、同胞と仰いませんでしたか?」
一瞬の静寂が流れる中、レイはモニクの深紅の瞳をじっと見つめ、真意を探ろうとするかのように目を細めた。
モニクは長い足を組み、ソファに腰掛けたままお茶を飲む姿が、絵画のように麗しい。
異国情緒あふれる民族衣装と派手な装飾品は、明らかに異なる文化圏から来たことを物語っていた。
どこかで見たような光景――思い出したのは、村にやってきた人形劇団が演じていた勇者のような振る舞いだった。
ああ、そうか。
この人から受ける印象は、まるでお芝居の中の勇者さま、そのものなのだとレイは思い至った。
「うん。緑の黒髪と、興奮した時に浮かび上がる紅瞳。透き通るような白亜の肌に、闇魔法の潜在的な才能……レイくんはカリギュラ王族の出身だろ?」
モニクは確信めいた声で言い放つ。
レイは戸惑いを見せ、一瞬の後に首を振った。
「いえ。私は拾い児だったもので。幼少期の記憶はありません」
モニクはその返答にわずかに眉をひそめ、表情を曇らせた。
「それは――悪いことを訊いたね」
彼女の声には真摯な謝意が込められていたが、その裏には不可解な興味がうかがえる。
ゾーエは二人のやり取りを黙って見守り、微笑みを浮かべていた。
その眼差しには、何か意味深なものが含まれているようだった。
「あの――モニク・バローさんで良かったでしょうか? あなたは――」
レイが言いかけるのを、モニクは緩やかな動きで止めて笑顔をつくった。
「ああ。ご覧の通り、どこにでもいる悪魔だよ」
深紅の瞳がレイを捉えたまま、まるで試すような笑みを浮かべる。
その軽やかな口調の奥には、挑発的な光がちらついていた。
お読みいただきありがとうございました。
ブクマ、いいねボタン、評価、感想など、お気軽に。
カクヨムでも書いております。宜しくどうぞ。