69話 いちばん昏い夜 1
首都ルナベスの外れに位置する首都大学は、壮大な渓谷を抱える特殊な環境に建っている。
その歴史は四百年に及び、三百年前の近世魔王時代には無理やり渓谷へと移動させられたが、そこから独自の発展を遂げた。
かつて魔王が脅威とみなし迫害した魔法使いたちは、厳しい環境を逆手に取り、その地を学びと研究の楽園へと変えてみせたのである。
険しい岩山や渓流が流れ、起伏に富んだ敷地内には、あらゆる魔法の実験が行われている。
周囲には時折魔獣が跋扈するが、それもまた魔法学の絶好の素材として活用された。
首都大学は、こうした過酷な自然を生かした研究と実験を行うことで、広大な魔法の実験場としての地位を確立してきたのである。
今では、ルナベス首都大学は世界より一世紀進んだ未来都市とさえ呼ばれる学園都市となっていた。
大学内の魔法研究施設は七つの区域に分かれ、それぞれが特定の専門分野を研究する独立した都市のような様相を呈している。
民間企業との提携によって潤沢な研究資金が流れ込み、研究成果が新たな産業の基盤となって好循環を生んでいる。
卒業生は企業に就職し、そこで培った技術や知識を再び大学へと還元する仕組みが、大学全体の発展を支えているのである。
ただし、大権威の不在が続く風魔法の研究エリアは例外であり、そこだけは他の区域とは異なる停滞感が漂っていた。
これに対して、白魔法研究エリアは特に人気が高く、拝竜教会の本部が敷地内にあるほか、王が宿泊するための豪華なホテルまで併設されている。
まさに白魔法の研究エリアは魔法学会の中心地と呼べるほどの繁栄を見せていた。
一方で、対抗する黒魔法研究エリアは地下施設を中心とした召喚魔法の研究と実験を主軸にしており、その成果は地底深くに隠されていることも多い。
黒魔法の研究者たちは、しばしば「地底人」などと揶揄されたが、その優れた研究、開発は極めて重要な役割を果たしている。
☆☆☆
セリナは切り立った崖の上を軽やかに歩いていた。
眼下には、黒魔法研究エリアが渓谷の地形を活かして広がり、乱雑に配置された施設群が見渡せる。
研究施設だけでなく、研究員の宿泊施設や雑然とした商店街が、狭い空間を縫うように建ち並んでいた。
この混沌とした街並みには、どこか独自の秩序が漂っているかのようだった。
黒魔法研究エリアは、過去三百年にわたり無計画に開発され続け、その結果、まるで都市が渓谷の中に飲み込まれているかのような不思議な風景が生まれることになったのである。
一方で、白魔法研究エリアとは対照的に、このエリアにはどこか泥臭い魅力があった。
白魔法研究エリアの洗練された清潔さと異なり、ここ”黒街”は雑然としていて、塵ひとつ許されない潔癖さとは無縁だ。セリナにはその無造作さが心地良い。
学生たちは自由奔放に過ごし、規律や礼儀に縛られない生活を楽しんでいる。
そんな場所での生活がもたらす風通しの良さが、セリナにとってはたまらなく好きだった。
確かに、黒街には危険な側面もある。
数年前には、学生たちが無許可の違法サークルを結成し、不法な召喚術を試みる事件も報告された。
このような問題から、エリアの再開発を求める声も上がってはいるが、黒街は依然として拡大を続け、規制の届かない混沌の中にあるのが現状だ。
セリナにとって、この黒街は懐かしい場所でもあった。
学生時代には何度もこの街に足を運び、様々な経験をした。
時には、自分が人の道を踏み外しそうになるほど夢中になったこともある。
危なっかしい治外法権感が、今も昔も変わらず、彼女の胸に複雑な感情を呼び起こす。
自由で、乱雑で、それでいて妙に居心地の良いこの街に、セリナは堪らない愛着を抱いていた。
☆☆☆
黒魔法研究所の本部建物は、まるで異世界への入り口のようだった。
地下世界に広がる広大な研究エリアは、厳重に管理された迷宮であり、幾重にも張り巡らされた防御魔法があらゆる侵入者を拒んでいる。
通称””黒街ダンジョン”。
この場所の真の姿を知る者は限られており、立ち入るには特別な許可が必要とされている。
セリナが足を踏み入れると、空気が一変した。
冷たく重苦しい地下の空気が肺にしみ込み、異様な静けさと圧力が全身を包み込んだ。
遥か遠くの通路からは、魔獣の叫び声や召喚獣の雄叫びが低く響き、それがまるでこの場所の心臓の鼓動のように感じられる。
音は絶えず反響し、方向感覚を狂わせるようだったが、セリナは一向に動じることもなく、むしろ楽しげに歩いて行く。
ここはただの研究所ではない。
禁術の実験が行われるこの地下施設は、魔法障壁によって無数の区画に分けられており、それぞれに凶悪な魔物や危険な召喚獣が封じられていた。
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大権威とは、各研究施設における事実上の「町長」のような存在であり、首都大学全体を束ねる総長は市長にも匹敵するほどの権力を持っている。
この場所の前責任者である黒魔法大権威ガヴィーノ・デル・テスタは、またの名を”黒街魔王”として畏れられ、尊敬されてもいた。
彼が去った後でも、ここでは危険な召喚術や禁断の儀式が行われ、黒街ダンジョンは日夜進化を続けている。
きっちりと隔離された魔法障壁の囲いのなかには、禁術階層に棲まう魔物や魔獣の実験体が至るところで吠えている。
素人が入れば、あまりの光景に腰を抜かすことだろう。
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透明な魔法障壁の奥、虎人が閉じ込められた研究室のドアを押し開けると、薄暗い室内には独特な静寂が漂っていた。
隔離されたエリアの空気は張り詰めており、機器の微かな電子音と虎人の重々しい息遣いが聞こえている。
虎人の目は正気が失われており、焦点の定まらない虚ろな視線が彷徨っていた。
室内の一角には幾重にも設置された魔法結界が青白く輝き、虎人の動きを封じている。
透明障壁越しに見るその姿は、かつて人間であった頃の面影をわずかに残しながらも、今や邪神に呑み込まれた獣の様相を呈していた。
周囲には魔法陣が刻まれた制御装置がいくつも設置され、監視のための水晶画面が整然と並んでいる。
どの画面も虎人の脳波や魔力の状態を絶え間なく映し出しており、その数値は不安定で危険な兆候を示していた。
セリナは障壁の前に立ち、僅かに眉をひそめながら虎人を見つめた。
異様な静けさの中、彼女の耳には依然として遠くから響く召喚獣の咆哮が微かに届いている。
それでも、セリナはため息をつきつつも特に臆する様子はなく、虎人の状態を確認するためにさらに部屋の奥へと足を踏み入れた。
透明障壁の向こうで、白衣姿のレイ・トーレスが黙々と作業をしていた。
レイはセリナが前に会ったときよりも髪が伸びていて、その艶やかな黒髪は小さなリボンで愛らしくまとめられている。
実験室の冷たい光の下でも、彼女の肌は透き通るように白く、まるで輝いているかのように見えた。
細身で華奢な体つきが白衣の下で一層際立ち、可憐な雰囲気を漂わせている。
「レイレ~~イ!! 寂しかった~!!」
セリナが勢いよく入ってきた瞬間、室内の研究員たちはギョッとして振り向いた。
いきなりレイをハグして無邪気に笑うセリナに、研究員たちは唖然として声も出せない。
「ちょっと離れなさい――なに? また歩いて来たの? 瞬間移動してきなさいよ。時間かかるでしょ?」
「散歩ッスよ。歩く度にどこかが変わってて面白いんですよね。黒街は」
そんな会話をしながら、セリナはレイから離れようとしない。
「ねえ。レイレイも私に会えなくて寂しかったですか?」
「……そうね。寂しくて死にそうだったわ」
レイは感情を込めずに答えた。
「あ! そうだ! お土産があるんスよ!!」
「ひょっとして、海賊魔王の魔具かなにか?」
そんな会話が聞こえてくれば、当然ながら研究員たちも興味が湧く。
彼らは自然に耳を欹てて、彼女たちの会話を聞き漏らすまいと待機した。
「ううん。違います。魔具商人のスパイが売ってた東国の禁具です。つまりはこの人ですね」
セリナは制御装置のなかにいる虎人を指して言う。
「東国では先祖返りの禁具でして、それをビクトル爺ちゃんがバキバキに魔改造して、パワーアップした魔具で~す!」
「まあ。完全にイカレてるわね――いただくわ」
「所有者の階層レベルにもよるんですけど、正気を失ったら魔力爆発するようにしてますから!」
それを聞いた瞬間、研究員たちは背筋が凍るような思いをした。
「ほぼ爆弾じゃないか」と。
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