67話 真層時代 8
ゾーエは、ビクトルが執事イサークに「お代わりは体に毒でございます」と諭され、口を尖らせている様子を微笑ましく眺めていた。
彼の少年のような反応には、どこか安心感すら覚える。
いつも世界を揺るがす存在でありながら、こうして単純なことで拗ねる姿は、彼女にとっては懐かしさと親しみを感じさせるものだった。
「まあ、なんだ。お前さんも七大権威から引退できて肩の荷が下りたんじゃないか?」
ビクトルの不器用な慰めが、場違いな軽さを持っていた。
「慰め方も下手なのねえ」
ゾーエは冷静に答えつつ、お茶を飲み終え、庭の木々に目をやった。
風が優しく葉を揺らす音が、心を少しだけ落ち着かせる。
だが、心の底には依然としてくすぶる感情があった。
「……あなたもわかっているはずでしょ。降ろされたのよ。あの男に」
声には微かな怒りが含まれていた。
単に七大権威を退任したわけではない。
降ろされた。それが彼女の心を深く抉っていた。
「あなたも同じように降ろされるかと思っていたら、今回の邪神退治でしょ? おかしかったわ。あなたが七大権威を追われることなんて、もうあり得なくなってしまったんだから」
ビクトルはまるで冗談を言うように軽く言うが、事実は重く、複雑だった。
「お前の仇は私が討ってやるから安心せえ」
ビクトルが強気に言い放つ。
いつもの闘志むき出しの彼らしい言葉だった。
それはまるで少年が仲間を守るために拳を振り上げるようなものに感じられ、ゾーエは苦笑を浮かべた。
「またケンカ腰で。ガキ大将の思考回路はいい加減に卒業しなさいよ」
彼女の言葉には、どこか諦め混じりの優しさがあった。
「――ではどうすれば良い? 私は研究以外に取り柄などない男だぞ。器用に立ち回れと言われても困る。それこそ、そういう立ち回りならば、お前さんの得意ではないかね?」
ビクトルの問いに、ゾーエは少し思案する。
確かにビクトルに立ち回りを頼むのは自殺行為だ。
しかし、そうだとわかってはいても、どうにかしてこの混乱した状況を乗り越える道を模索しなければならない。
「それなのよねえ。どうすべきかしら……新しく任命されたレイ、セリア、私の新任の――」
「確か、モニク・バローとかいったか? 何者だ? 魔法使いの序列にそんな名前の者などいたか?」
ビクトルが疑問を投げかける。
眉間に皺が寄るのが見えた。
「ジョエル・ヴァルターの推薦に決まってるじゃない」
ゾーエが軽く答えたが、その裏には不安があった。
「――そうなると、あの噂は本当だったか」
「そうよ。前任のロメオが亡くなった件でしょ?」
彼女の声は少しだけ沈んでいた。
その死には不可解な点が多すぎた。
「遺体検分はしたんだろうな?」
「当然、むりやり参加したわ。キレイなもんだったわよ。おかしいくらい」
ゾーエの視線は遠く、彼女は何かを思い出しているようだった。
「どういう意味だ?」
ビクトルが問い詰めるように顔を寄せた。
「生きたまま葬られたみたいだったわ。まるで白魔法で昇天させられたみたいにね」
その言葉の重みが、まるで冷たい刃物のように空気を切り裂いた。
百戦錬磨のビクトルでさえ、一瞬、言葉を失うゾーエの怒りが見てとれた。
☆☆☆
ビクトルは、ゾーエの言葉をかみ締めるようにゆっくりと息を吐いた。
焦燥と苛立ちが入り混じり、胸の内をかき乱していた。
彼女が七大権威の座から降ろされたのは、それが個人的な打撃以上に重大な事態を意味していることを、彼自身がよく分かっていた。
「そうなると、お前さんが七大権威を降ろされたのは、致命的だぞ。保守派の要もなしに、どう戦う?」
言葉の裏にある危機感が、ゾーエの声色に色濃く滲んでいた。
「私でどうこう言ってたら始まらないわよ。あなたがいない隙に、王宮も議会も急いで改革派に塗り替えられていったんだから」
ゾーエの言葉に冷静さがあったが、その目には憂いが見て取れた。
どれほどの努力を尽くしても、変革の嵐は瞬く間に広がっていったのだ。
「どういうことだ?」
ビクトルの声には、怒りと困惑が交錯していた。
自分の不在が、これほどまでに状況を一変させたというのか。
「見なさい」
ゾーエは冷たい視線を配布資料に落とした。
「あなたが寝込んでいた半月で、七大権威のうちそれだけの人間が入れ替わってる」
☆☆☆
魔法教会からの重要資料には、勇退者や新任の七大権威の名前が列挙されていた。
その文面は、表面上は丁寧なものだったが、ビクトルには違和感しかなかった。
まず最初に、白魔法大権威、拝竜教会枢機卿ロメオ・アルバーニの訃報が記されている。
『謹んで彼に代わり、新任の白魔法大権威にはジョエル・ヴァルターが議会から推薦された』との文言が続き、彼の経歴が称賛を交えて詳述されていた。
幼少期の苦労や医学博士としての経歴が強調され、彼の人柄を飾り立てている。
ビクトルは眉をひそめて舌打ちし、読み飛ばす。
次に続くのは火魔法大権威、ゾーエ・バルリオス。
通称”火喰い鳥”の二つ名を持つ大魔法使い。
首都大学の総長を務める実績が示されている。
ビクトルはすぐに次へと目を移した。
「なんたること――次は……」
水魔法大権威、通称“水時計”フォマ・アウロフ。
彼の名は、魔法国家ルスガリアで随一の魔法使いとして名高い。
死人さえ生き返らせるとされる名医でもある。
「この男も辞めるのか」とビクトルは声を漏らした。
さらに、黒魔法大権威、ガヴィーノ・デル・テスタの名前が記載されていた。
彼は新任のレイ・トーレスの師匠でもあり、魔法剣士として活躍もした元冒険者である。
「おい、フォマにガヴィーノまで辞めるのか!」
ビクトルが声を荒げる。
「そうよ」
ゾーエは無表情で答えるが、その声には冷ややかな危機感が漂っていた。
「最重要なのはその後――」
地魔法大権威、エルマー・ベッシュ。
ドワーフ六部族の酋長であり、亜人族の相談役でもある彼の名が消えるというのは、非常に深刻な事態だった。
「これは……エルマーがクビになったら、誰に亜人やドワーフの取り纏めができる? 暴動が起こるぞ」
ビクトルの声は不安と憤りが入り混じる。
「お前がいなければ魔法使いの信頼を失い、フォマは医師会の代表でもある。ガヴィーノは冒険者ギルド会長。なにを考えているのだ」
「レイやセリナも研究者としては超一流だけど、政治の世界では、赤ん坊同然。いくら彼女たちが天才でも二十年早いわ」
ゾーエの指摘は辛辣だが、真実だ。
今の新任者たちに、この荒れ果てた状況を切り開く力はない。
「してやられた……」
ビクトルは口の中で低く呟いた。
☆☆☆
新任七大権威のリストには、黒魔法大権威レイ・トーレス、水魔法大権威セリナ・リベーラ、地魔法大権威ララ・ナイトメア、火魔法大権威モニク・バローの名が並んでいた。
だが、彼らの名前の横には簡潔な記述しかなく、その背景や実績はほとんど記されていない。
「おい、新任者の半分は知らない名前だぞ。誰だ。こいつら」
ビクトルの声には怒りが滲んでいた。
「官僚が選出したんだって。序列にも入っていなかったのが大権威って、誰もついてくるわけがない」
ゾーエの言葉は冷酷な現実を示していた。
”火喰い鳥”の通称通り、燃え上がるような怒りの目でビクトルをにらみ返す。
七大権威の座が、単なる政治的駆け引きの道具にされていることを暗示していたのだ。
「七大権威に保守勢力があなただけというのは致命的だわ――唯一、民衆の支持があるあなただけが残される形になってしまった」
ビクトルのこわばった表情に、不安が浮かび上がる。
「大学、医師会、冒険者ギルド、亜人の意見は通らなくなって、教会は乗っ取られた――おい! 王宮は大丈夫なのか?!」
「危ないわ」
ゾーエは静かに首を振った。
その姿は、もはや安堵の余地がないことを示していた。
ビクトルは目頭を掌で覆い、無言で天を仰いだ。
希望が失われつつある現実に、彼は無力さを痛感せずにはいられなかった。
「待て……風魔法大権威の席は、まだ空席のままか?」
ビクトル・マッコーガンが問いかける。
「それがどうしたというの?」
ゾーエが軽く眉をひそめる。
「一発、喰らわせる好機かもしれん」
ビクトルの目が一瞬、獰猛な光を宿した。
猛獣が獲物を狙うかのように、鋭く力強い輝きが戻ってきたのだ。
ゾーエはその変化に気づき、ふっと笑みを浮かべた。
「やっぱりあなたは、そうでなくちゃね」
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