64話 真層時代 5
邪神――いや、混沌の王よ。
お前はなにもわかっていない。
魂断の鎖が、不死身の肉体と魂を分断するのは第一段階。
ただの分離作業だ。
お前はまだ喰えると言ったな。
それは、そうだろう。
神話級の怪物とは、すべてを喰らい、すべてを崩壊させる存在を指すのだから。
過去に現れた同類、不死身の邪竜王、超変異体ヒュドラもそうだった。
豪傑女帝ベアトリス・ベルフェゴールは、奴の不死を乗り越え、止めを刺した。
それは極限まで高めた身体強化による、槍での一突き。
剥き出しになった心臓への一撃――だったとされている。
この一撃は迅速で、正確で、そして極めて強力なものでなくてはならぬ。
どんな隙も許されない、瞬時に全てを終わらせる究極の一撃。
そう、僕の槍は――雷鳴の侍、暁月剣禅だ。
彼こそが、この一撃を担う者。
その稲妻の如き速さと、神をも貫く雷の一閃が、今こそ神殺しを完成させる。
これが、真の神殺し。
究極の魔法だ。
☆☆☆
剣禅の全身に凄まじい雷が集まり、包み込む。
稲妻は激しく輝き、空間が一瞬、大きく歪んだ。
空気がビリビリと震え、耳鳴りが海上中に鳴り響く。
ビクトルはその光景を冷静に見据え、大時化のなかでも猛虎の目で戦況を見ていた。
「――今じゃ!! 行けい!! 剣禅!!」
剣禅が一瞬で姿を消す。
次の瞬間、剣禅はノクスの眼前に現れていた。
その速さは目では追えない。
たとえ、ノクスの超感覚を持ってしても。
ノクスがその動きを捉える前に、雷鳴と共に剣禅の刃が振り下ろされる。
ノクスの瞳が僅かに見開く。
しかし、その瞳に映るのは、迫りくる剣禅の稲妻の刃のみ。
神話級の怪物ですら、反応できない速さであった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
ノクスが声を上げるが、すでに遅い。
剣禅の一撃は雷そのものが具現化したかのように、鋭く、強烈、そして正確だった。
剣禅の愛刀、大典太蒼雷はノクスの心臓――その生命の源へと深々と突き刺さっていた。
ノクスの巨大な身体が揺らぎ、天をも震わせるような怒りの咆哮が響いた。
しかし、魂断の鎖によって既に肉体と魂との繋がりは断たれている。
その存在を支える邪悪な魔力は途絶え、超生物としての生命力も失われていた。
――僕の権能は”豪運”。この一撃にすべてを賭けた。これで――終わりだ。
ラザロが静かに呟く。
雷鳴と共に放たれた一撃はノクスの生命を完全に断ち切り、その超大な身体が遂に崩れ始めた。
「――これよりは……勇者を……名乗るがいい……」
混沌の王、邪神ノクスの最後の言葉は、黒い霧と共に消え去り、虚空に散っていく。
真っ黒な闇に覆われていた世界は次第に静まり返り、やがて現実の光景が戻ってきた。
空は晴れ渡り、海に再び穏やかな風が吹き始める。
黄金のような太陽が、水平線の向こうへ沈もうとしていた。
世界は変わらず美しかった。
剣禅は荒い息をつき、両膝をつけたまま、疲れた顔を上げてビクトルの方を見やる。
「おう。爺さん。奴さん、わしを勇者だってよお……」
剣禅が低く笑う。
ビクトルは微笑みながら、穏やかに頷いた。
「誰憚らず名乗るがいい。七大権威の名において文句は言わせん。暁月剣禅を勇者と認める」
ビクトルは胸を張って言った。
――僕も賛成だ。君は――いや、君たち二人は、間違いなく勇者だよ。
ラザロの心からの声が静かに響く。
剣禅は肩をゆっくりと上下させながら「柄じゃねえなあ」と微笑んだ。
☆☆☆
「――ああ。そうじゃ。ところで、ラザロよ……お前、遺物になって初めて目覚めたんだったな?」
剣禅が頭の上にある怠惰な王冠を突いて言った。
――うん。そうだよ。
「言いにくいがな……お前が心の中で考えていること――全部、聞こえとるぞ」
それから、しばらくの沈黙が支配した。
浪の音がやけに耳につく。
――え? は? いやいや……え? なんて??
「じゃから、セリナが可愛いとか、梅鶴も捨てがたいとか、飯が食いたいとか――」
――ちょっと待って! やめて!!
「ふふふ。女に飯か。男よな」
ビクトルが頭を光らせ、ニヤリと笑う。
――嘘でしょ!! 嘘でしょ!! 先に言えよ! ぬはああああああ!!!
ラザロ・リヴァイアサン。
六百年振りの雄叫びである。
☆☆☆
悪夢であれば、どれほど幸せだったかわからない。
暗雲が垂れ込め、海上中を覆うほどの大海獣が迫り来る光景を目の当たりにした時、誰もが逃れられない死を覚悟せざるを得なかった。
それは絶対的捕食者と対峙した、生物としての本能的な反応と恐怖であった。
その時、海の邪悪そのものともいえる大海獣に立ち向かい、雷雲を従え、たった独りで戦う小さな老人がいることに気づいたのは、赤ん坊を抱いた若い母親だった。
彼女が震える指で差す先には、ボロボロになりながらも戦い続ける勇者がいた。
たとえ無謀な足掻きだとしても、人々は声を枯らし、その老人に向けて声援を送った。
老人は弾き返され、立ち上がる。
押しつぶされ、立ち上がる。
跳ね飛ばされ、立ち上がる。
死ぬほど叩きのめされて尚、小さな老人は立ち上がった。
しかし、やがて暗雲は雷雲を呑み込み、その小さな光すら消し去ろうとしていた。
人々は下を向き、言葉を失い、別れの涙を流すしかなかった――その時だった。
突如として、暗雲が裂けた。
稲妻が暗雲を、真っ二つに斬り裂いていく。
凄まじい断末魔が轟き、大海獣が一瞬のうちに霧散した。
暗雲が去り、大海獣が塵と化し、偉大なる太陽が大海原へと沈んでいく。
その光景を目の当たりにして、人々が胸にこみ上げるものを、どうして我慢することなどできようか。
抑え切れない喜びに、誰もが抱き合い、叫び、涙を流しながら走り出した。
屋上や窓辺からも、彼らは精一杯に手を振って、海辺へと駆け出して行く。
砦から溢れ出た人々は浜辺へ出て、感謝と敬愛と喜びを海へ向かって絶叫した。
泣きながら、嗚咽しながら、声を詰まらせて叫ぶ。
二人の名を。
英雄の名を。
浜辺は忽ち、人々でいっぱいになった。
人々は精一杯に手を振り、声の限りに叫んだ。
生きているぞと叫び続けた。
ビクトル・マッコーガン。
暁月剣禅。
この地に生きる人々の記憶から、二人の勇者の名が消えることは永遠にない。
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