58話 怪物たちの海 16
暁月剣禅は静かに愛刀・大典太蒼雷を抜刀した。
その刀身が蒼い輝きを湛えていた。
鏡水は跪いて鞘を受け取りながら、その美しさに圧倒されて目を潤ませた。
刀を仰ぎ見て、思わず言葉が漏れる。
「なんと、なんという美しさよ……」
「左近」と剣禅が声をかける。
傍らに控えていた大柄な老侍、鷹松左近は白い髭を揺らしながら微笑んでいた。
さきほど剣禅から授与された潮騒の剣を堂々と構え、戦意を燃やしている。
「上様! 拙者も共に参りたく存じます!」
鏡水は、強い決意で剣禅に申し出た。
しかし、剣禅は燃えるような笑みを浮かべながら、言い放つ。
「たわけ。足手まといじゃ」
その一言に込められた殺気は尋常ではなく、鏡水は思わず一歩後退った。
剣禅の圧倒的な力に、ただ息を飲むしかなかった。
左近はそれを見て、腹の底から大笑いした。
「諦めろ! 鏡水!」と豪快に言い放つ。
「沖では最強の魔法使いと、最厄の邪神が雌雄を決しようとしておる! これほど血を滾らせる合戦を前にして黙っておるような男に、この左近、お育てした覚えはないわ!!」
左近はその言葉と共に、剣を握り締めた。
鏡水もまた戦の高揚感を感じ始めていた。
「雷ジイさんが掃き散らしたのは、まあ、眷属が精々だろう。そうじゃなけりゃ半世紀前に、あの化け物ジジイが負けるわけないわな……」
左近が髭を撫でながら、呑気に言葉を発した。
「魔法耐性、防御……いや、すべての魔法を弾き返すやもしれませんな」
剣禅は眉一つ動かさず、続けて言う。
「雷ジイさん曰く、奴さんが出てきたらよお――この大典太でぶった斬れだとさ。いい気なもんだぜ……だが、最高だあ」
剣禅の目は輝き、その視線の先には、遠くで展開する壮絶な戦いの光景が広がっている。
もはや剣禅の興奮は抑えられないところまできていた。
「最強が雁首揃えて大喧嘩するなんて、六百年前の魔王乱立時代みてえじゃねえか……くはははは! 退屈だと思っていたが、捨てたもんじゃねえな! この時代もよ!」
剣禅の体からは殺気が溢れ出し、まるでその筋肉が今にもはち切れそうになっていた。
剣禅の戦意は最高潮に達している。
「若さま。ビクトル殿と邪神の間合い、もはや階層レベルは三十以上になるは必定」
左近は剣禅を見上げ、重々しい声で告げた。
鏡水はその言葉に思わずごくりと喉を鳴らす。
「つまり――魔王階層の戦い……」
鏡水の声には恐れが滲んでいた。
目の前で繰り広げられる戦いが、普通の人間なら一瞬で蒸発するような魔力の渦巻く領域であることを理解していたのだ。
それでも、剣禅は動じなかった。
左近は逞しく育った若侍を見つめながら、深く息を吸い込んだ。
「若さま――五騎士最強など、通過点。天下無双の剣士にお育てするのが、この左近の悲願。叶えてくだされよ」
剣禅は自信満々に笑い、大声で答えた。
「おお! 任せておけい!」
その瞬間、遠くから何か巨大な力が蠢き始めた。
邪神が顔を出そうとしていた。
剣禅はその気配を感じ取り、口元に笑みを浮かべながら叫ぶ。
「そろそろ、邪神が顔を出すぞ! 左近! やれい!」
灰のように崩れ落ちた巨大な眷属どもを蹴散らしながら、禍々しい角が海中から出てきた。
その姿は、まさに死を体現するかのごとき禍々しさだった。
心の弱った者が見れば、ただ一瞥するだけで魂を奪われ、即死してしまいかねない。
ノクスは生ける呪い――その存在そのものが、世界に対する絶望の具現化である。
水平線の彼方まで続く海には、信じがたいほど巨大な触手が波をかき分けながら蠢いていた。
その触手は、一つ一つが山のような質量を持ち、まるで世界を支配しようとするかのごとく、全方位に広がっていた。
そして、まるで空に向かってそびえる塔のように、二本の巨大な角が頭上にそびえ立つ。
触手の合間から覗くその角は、雷鳴に打たれようとも揺らぐことのない不動の象徴であり、恐怖の頂点に立つ存在の印であった。
だが、最も恐ろしいのは、その眼光であった。
ノクスの目は、ただそこにあるだけで、あらゆる生き物にとっての死刑宣告となる。
見つめられた瞬間、時間すらも止まるかのように感じられるほどの圧倒的な支配力がそこにはあった。
強靭な意志を持つ者であろうと、その目に映れば心臓が凍りつき、恐怖に支配されてしまうだろう。
その姿は、まるで大悪魔ですら小蠅に等しいかのような存在感で、邪神ノクスはついにその全貌を現したのだった。
恐怖が空気を震わせ、海も大地も、その禍々しい力の前では無力に打ち震えた。
まさに絶望の具現、神々ですら恐れをなす究極の存在が目の前に迫っていた。
「うはははははは!! 来たゾ! 来たゾ! 邪神じゃああ!!」
剣禅の歓声が轟く。
左近は潮騒の剣を握りしめ、その大剣に風の魔力を最大限に乗せて、一振りで周囲の空気を切り裂くように凪いだ。
剣から放たれた風圧は波打つように周囲を吹き飛ばし、その力は凄まじかった。
剣禅はその風の力に乗って、一瞬で沖へと辿り着く。
その速度は尋常ではなく、海面を切り裂くような勢いだった。
潮騒の剣が作り出した風の力に導かれ、剣禅の体はまるで矢のように空を駆けて行く。
その時、沖の海面を軽々と歩いていたビクトルが、剣禅が通り過ぎる瞬間を見逃さず、咄嗟に防御魔法と、電雷の加護を施した。
黄金の稲妻が剣禅の体を包み込み、全身に雷の防護が宿る。
それは雷の力で覆われた盾であり、電雷の加護を同時に得ることで海面に立つことをも可能にする。
「行けい! 剣禅!」
ビクトルはその稲妻の魔法を完璧に施し、最強の侍が邪神ノクスへと向かっていくのを見送った。
剣禅は稲妻に包まれ、まるで一筋の黄金の矢となって海上を突き抜ける。
稲妻と化した剣禅は、待ち構える最強の邪神ノクスへと一直線に突き進んでいった。
彼はただ独り、恐るべき邪神へと向かっていく。
最強同士の戦いの火蓋が切られたのである。
☆☆☆
「――小虫が」
ノクスは、忌々しげに呟きながら、触手の先をひょいと振って剣禅を叩き払おうとした――はずだった。
次の瞬間、その触手がどこにも存在しないことに気づく。
斬られ、灼かれ、そして再生が効かない。
自らの一部が失われているという事実に、邪神ノクスともあろう者が、戦いの最中に思考を一瞬停止させてしまった。
それほどの斬撃、圧倒的な一閃であった。
「よお、強えんだって?」
剣禅はニヤリと笑いながら、青白い電撃をまとった大典太を軽々と振るう。
太刀には、蒼い雷が宿り、今にも爆発的な力を解き放とうとしていた。
その姿は、まさに一撃で何もかもを打ち砕く力を象徴していた。
ノクスはその恐怖を感じ取り「これはマズい……」と心の奥底で焦燥感が広がる。
なんとか避けようとするが、彼の巨体はあまりにも大きすぎた。
動き出すには時間がかかりすぎる。
まるで重圧に縛られたように、その場から逃げ出すことすら叶わない。
「そりゃそうだろうな」と、剣禅は太刀を構え、悠然と一歩を踏み出す。
「三枚に下ろしてやらあ!」と叫びながら、その鋭い一振りが空を裂き、雷鳴が轟く。
ノクスの巨体に向けて、決して逃れることのできない死の一撃が迫る。
――雷神円舞。
剣禅が低く呟いた瞬間、蒼い雷が刀身を包み、太刀を中心に円を描くように回転し始める。
稲妻が空中に浮かび上がり、まるで命を宿したかのように踊り狂う。
斬撃の余波が周囲に響き渡り、雷刃が次々と空間を裂いていく。
ノクスの頭部を囲い込むように、無数の雷が円を描いて狭まり、彼の巨体を狙って迫っていく。
「グオオオオオオオオオオ……!」
ノクスはその異常な気配を察知し、咆哮を上げた。
遅い。
雷刃は既に空を支配し、巨大な邪神の頭部を取り囲んでいた。
触手を振りかざすが、雷の刃に触れるたびに切り裂かれ、灼かれていく。
まるで空が怒り狂ったかのように、雷が次々と襲いかかり、ノクスの肉体に深い傷を刻んでいった。
――雷光烈破。
剣禅が叫ぶと同時に、太刀に溜め込まれた雷が爆発的に放たれる。
蒼い光が一瞬にして視界を染め、稲妻が奔るようにノクスの頭部を貫いた。
その雷撃はまるで天空から降り注ぐ雷神の怒りそのものであり、ノクスの頭部に直撃するや否や、巨大な角を砕き、表皮を引き裂いていく。
「ギヤアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
ノクスの絶叫が響き渡るが、その声もまた雷に掻き消される。
雷光烈破の斬撃は幾重にも重なり、ノクスの頭部を引き裂き、焦げた肉片が飛び散った。
剣禅の太刀が振り下ろされるたび、ノクスの体は灼かれ、焼け爛れ、再生を許さぬほどに破壊されていった。
最後の一撃――雷光が最も強く輝いた瞬間、ノクスの頭部は完全に崩壊し、巨大な邪神の体はそのまま海へと沈み、静寂が訪れた。
剣禅は勝利の笑みを浮かべながら、なおも蒼い電撃を纏う太刀を見つめ、息を整える。
「まだだ!」
ビクトルの大声が響き渡った。
「そこまでは、半世紀前にもいった! 再生するぞ!」
邪神ノクスの巨体が海へと沈み込み、剣禅は警戒しながらその動向を追った。
だが、次の瞬間――海面が波立ち、ノクスがまるで何事もなかったかのように浮上してきた。
「なんだと?! 無傷??」
剣禅の目に驚愕が浮かぶ。
先ほどの雷光烈破で頭部を引き裂かれ、致命傷を負ったはずのノクスが、まるでなんでもなかったかのように戻ってきたのだ。
その触手は健在、巨体も揺るぎない。
そして、その禍々しい眼光が剣禅に突き刺さる。
「雷撃と斬撃か……覚えた。まあ、すこしは褒めておこうか。悪くなかったぞ。小虫」
ノクスが冷笑を浮かべる。
その言葉は、圧倒的な力を誇示する邪神の余裕そのものだった。
ノクスはその無数の触手を悠然と振るいながら、剣禅に向けてゆっくりと迫る。
「――では、死に失せろ」
その声が放たれるや否や、ノクスの巨体から暗黒のオーラが放たれ、周囲の空気が重苦しく変わる。
触手が光を吸い込むように黒く染まり、その動きはこれまで以上に速く、そして鋭くなった。
剣禅は一瞬、身構えたが、その圧倒的な力の前に動けなくなりそうな感覚が襲う。
「こりゃあ、参ったのう」
剣禅は太刀を握り直し、再び蒼い稲妻を宿しながら迎え撃つ決意を固めた。
だが、その目の前に立つノクスは、明らかに先ほどとは違う――邪神としての真の力を解放した、絶対的な存在であった。
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