46話 怪物たちの海 4
夜の浜辺は静寂とともに広がり、波が穏やかに岸へと打ち寄せている。
月明かりが水面に淡い光を投げかけ、海は銀色に輝いていた。
波音が心地よいリズムで響き、遠くから聞こえる宴会のざわめきが夜風に乗ってかすかに耳へ届く。
砂は冷たく、足元に微かに沈む感触が心地よい。
海岸線に沿って並ぶ焚き火の灯りが暖かさを放ち、その明かりに照らされた人々が笑い声を上げながら酒を酌み交わしている。
火の粉が夜空へと舞い上がり、星のように瞬く。
夜の浜辺で、剣禅は一人静かに波打ち際に立っていた。
宴会の騒がしい笑い声が遠くから響いてくるが、彼はその喧騒から少し離れ、夜風に吹かれながら星空を見上げている。ふと、暗闇に向かって声をかけた。
「烏丸」
闇の中から、すぐに返事が返ってきた。
「ここに」
その瞬間、夜に溶けこんでいたような人影が現れた。
烏丸鏡水は、まるで風のように現れ、いつの間にか剣禅の前に控えている。
「首尾は?」
剣禅の声は、宴会で笑っていた時とは全く異なる冷静さを帯び、低く響いた。
鏡水が即答する。
「鷹松左近殿が間もなく到着される模様です」
剣禅は短く笑い、肩をすくめた。
「息子の方に来いと言ったんだが、なんで親父が来るんだ?」
その呟きに、少し皮肉の混じった調子が漂っている。
剣禅は遠くの波を見つめ、ため息をつくように言葉を続けた。
「どうしたもんか……わしのトコロには頑固ジジイばかり集まるのう――竹熊の進捗は?」
「は。高台の砦がもうすぐ完成するとの由」
剣禅が静かに頷き、鏡水に視線を向けた。
「地元の役人がなにか言うて来たか?」
「いえ、直接の動きはありません。砦の件は手はず通りでしたが、ただ、海図や折衝で、何人か袖の下を要求された者がいた模様」
「応じた者は?」
剣禅が厳しい目を向ける。
「首都に帰して免職にする手配を済ませました」
鏡水が答えると、剣禅は顎に手をやり、無精髭を撫でた。
「では、撥ね付けた者はいるか?」
「ラモン・カサドに何度も詰め寄られましたが、動じなかった者が数名おります。特にカトリーナ・オルトマン。この者はなかなか見所があるかと」
剣禅が少し意外そうに眉を上げた。
「――ああ。あの娘か。いつも剣呑な顔をして、ふて腐れているように見えたがの」
鏡水は微かに微笑んだ。
「少し堅物ですが、鍛え方を間違えねばものになるかと」
剣禅はしばし考え込み「近くに置く。手配せよ」と命じた。
続けて「地元の役人がこれ以上、絡むようなら――構わん。斬れ」と剣禅が冷徹に言い放つと、鏡水は「御意」と答えて深々と頭を下げた。
しばらく会話が途切れ、静寂が支配する。
潮の香りが濃く漂い、海鳥たちは波間で静かに休んでいた。
遠くには、いくつかの船が浮かび、かすかな明かりが揺れている。
その光景は、時間が止まったかのように穏やかで、美しい。
「おう。そうだ。ところで、雷オヤジが来たぞ」と、剣禅が突然言い放つ。
鏡水は目を細めて、わずかに驚きを見せた。
「それは予想外でございました。しかし、あの御仁、どうやら若い頃、とある魔物に手酷くやられたようで」
さすがの剣禅も驚きの色を隠せなかった。
「あの雷オヤジがか? 雷神ビクトル・マッコーガンが負けるとは……」
「はい。魔物の名は邪神ノクス。現在、考えられる限り最強の魔物でございます」
剣禅は静かに考え込むように海を見つめた。
邪神ノクス。
ただの魔物ではないくらいの認識だったが、あの雷オヤジが若き日に敗北を喫していたとなると、大幅に考えを改めざるを得ない。
「ノクスか……」剣禅は呟くようにその名を口にした。
「まさか、そんな因縁があったとはな」
剣禅は決断を下し、鏡水に静かに命じた。
「数日中に地元住民に避難命令を出す。取り零しのないようにな。砦には食料と武器を十分に用意せよと竹熊に伝えおけ」
鏡水は無言で深く頭を下げ、命令を受けた。
「御意」と短く返答する。
「以上だ。休め」
鏡水は「は」と短く応じ、そのまま夜の闇に紛れるように姿を消していった。
剣禅はしばしの間、静かに波打つ海を見つめ続けた後、宴会の喧騒へと歩き出した。
☆☆☆
剣禅が浜辺の宴会に戻ると、すでに宴は最高潮に達していた。
海風に乗って、セリナの甲高い声が響く。
「変な顔したまま呑み続ける選手権、優勝! ビクトルじいちゃん!」
「元々の顔じゃあ!」
酔いが回ったビクトルが、席で暴れながら叫んでいる。
その姿に周りは大爆笑し、セリナも楽しそうに手を叩いて笑い転げている。
彼女は宴会の中心で、まるで嵐のように盛り上げていた。
そんな中、剣禅がゆっくりと近づくと、セリナが彼に気づき、すぐさま声をかけた。
「ああ! どこ行ってたんスか?」
剣禅は笑顔で、のんびりと応じる。
「やあ、ご機嫌さんじゃのう」
その場の空気が一瞬緩み、剣禅の余裕ある態度がみんなに安心感を与える。
ビクトルが暴れている様子さえ、宴の一部となり、夜はますます賑やかに続いていった。
☆☆☆
カトリーナは直接の上司であるルイス・ロペスに呼び出され、彼のオフィスへ向かった。
扉を開けると、いつも困ったような顔をしているルイスが、机の向こうで書類に目を通していた。
ルイスのオフィスはまるで戦場のような忙しさだった。
机の上には山積みの書類が所狭しと並び、要件が山のように溜まっていることが一目で分かる。
部屋の四方には、各地から届いた報告書や依頼書が無造作に積まれており、それらは整然とは程遠い状態だ。
オフィス内では、数名の部下たちが慌ただしく動き回り、次々と指示を飛ばしながら処理を進めている。
書類のチェックやデータの入力に追われ、互いに確認や調整を行う姿が絶えない。
部屋中に広がるインクの匂いと、ペンが走る音が混ざり合い、せわしない雰囲気が漂っていた。
窓際の一角には地図や統計資料が貼られ、現地での交渉や折衝を記録するボードもぎっしりと埋められている。
毎日、地元の役人や経営者たちとの折衝が続き、ルイスの部署は後発組の中でも最も忙しい部署と言っても過言ではない。
まるでこのオフィスだけが常に時間が足りないかのように感じられた。
部下たちが次々と報告を持ち込み、ルイスはその度に迅速に指示を出しながらも、次々と届く新たな問題に追われていた。
彼の顔には疲労の色が濃く浮かんでいるが、なんとかその場を切り盛りし続けている。
彼はカトリーナの姿に気づくと、ほっとしたように顔を上げ、深く息を吐く。
「カトリーナ、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
カトリーナは眉をひそめ、嫌な予感に内心穏やかではいられなかった。
「――私が暁月司令の秘書ですか?」
ルイスは苦笑いを浮かべながら、いつものように眉根を寄せた表情で頷く。
「うん、頼むよ。総司令官殿が必要としているのは、君みたいにしっかりした人なんだ。どうにかしてくれ」
「いや、どうにかって言われましても――」
カトリーナは内心でため息をつきながら、目の前のルイスを見た。
彼の困った表情はおなじみだが、今回ばかりは少し懇願の色が強い。
「じゃあ、頼んだよ。カトリーナくん。あの人についていけるなんて、君くらいしかいないんだから」
☆☆☆
カトリーナがルイスのオフィスを後にした直後、ラモン・カサドがすぐに入れ替わるように入ってきた。
ノックもなしに勢いよく扉を開けるその様子は、いかにも彼の居丈高な態度を物語っている。
まるでこの場の主人であるかのように、胸を張ってルイスに近づくと、その鋭い視線が室内を支配した。
「総司令官殿に繋いでほしいのだがね」とラモンは何の前置きもなく言い放つ。
その声には頼み事をしているというより、権威を振りかざしている雰囲気が漂っていた。
ルイスは少し顔をしかめながらも、落ち着いて椅子から立ち上がった。
「誰を紹介しろと仰るのですか?」
ルイスが尋ねると、ラモンは後ろに控えていた男を手招きする。
入室してきた男は、ラモンの強圧的な雰囲気とは対照的に、静かで柔らかな存在感を持った人物がゆっくりと現れた。
中華風の上品な衣服に身を包んだ細面の東洋人で、その刺繍の施された衣装は洗練された優雅さを持っていた。
彼は優雅な所作で一歩前に進み、軽く頭を下げると、控えめな微笑を浮かべた。
「ハジメマシテ。魔具商人、趙と申しマス」と、穏やかで丁寧な言葉で挨拶をする。
彼の発音は少しぎこちないが、礼儀正しいその態度はラモンとはまるで異なる印象を与えている。
ラモンはなおも威圧的な態度を崩さず、ルイスに目を向けた。
「司令に会わせてほしいんだ。悪いようにはしない。私の紹介だ。怪しい者ではないのは保証する」と再度要求するが、その一方で、趙は礼儀正しく控えめな様子を保っている。
彼の落ち着いた仕草と静かな笑みは、ラモンの押しつけがましさとは対照的で、この場に不釣り合いなほどの調和を保っているようだった。
ルイスは、趙の柔らかな態度に関心したように頷くと「ええ。もちろん。結構ですよ」と笑顔で返答した。
☆☆☆
カトリーナは会議室の扉を開けた瞬間、目の前に広がった光景を見て立ちくらみがした。
中央のテーブルには、整理されるべき書類が山積みになり、あちらこちらに投げ出された測量機器や海図、さらには意味のわからない魔具までが無造作に散乱していた。
どこから手をつければよいのか見当もつかない。
ソファには、セリナが大の字になって高いびきをかいていた。
寝言まで呟いて、夢の中で何か楽しそうな様子である。
「ゆうしょう……おめでとう……おさかな――それ、食べる……ムニャムニャ」
彼女の無防備な寝顔とは対照的に、そのすぐ横でビクトルが雷を落としそうな勢いで怒鳴っていた。
「起きんか! 仕事せえ! それでも七大権威か!!」
怒鳴り声が響き渡るが、セリナはまるで聞こえていないかのように寝続けていた。
「おじいちゃん、うるさいッスよ」と犬でもあしらうように手を振って、再び夢の中へ。
ビクトルの顔は怒りで赤く染まり、今にも雷が落ちるのではないかというほど、静電気が周囲に漂い始めている。
部屋に、暁月総司令官の姿はない。どこかへ行ってしまったのか。
カトリーナはその場に立ち尽くし、目の前の状況に途方に暮れた。
「こんなの、どうまとめろっていうのよ」とカトリーナは絶望的な顔で呟いた。
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