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聖剣悪女  作者: 河田 真臣
第四章 怠惰な王冠
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44話 怪物たちの海 2

 応接室に差し込む薄暗い光が、ラモン・カサドの汗ばんだ顔を照らし出していた。

 彼は手元の書類をいじりながら、カトリーナに向かって半笑いを浮かべている。

 陽気を装ったその態度は、明らかに別の意図を含んでいた。


 カトリーナは、汗ばむラモンを目の前にして、ますます嫌悪感が募っていた。

 彼の脂ぎった顔や、湿った手がテーブルに触れるたび、心の中で静かな怒りが膨れ上がる。


「……あんたも、子供じゃないんだ。もう少し柔軟に考えたらどうだ? 物事を円滑に進めるためには――まあ、皆まで言わずとも……わかるでしょ?」


 ラモンの汗で光る額が不気味に見えた。

 彼はまた一歩近づき、彼女に暗に賄賂を求めるような言い回しで話を続ける。


 あからさまな賄賂の要求に、カトリーナは眉をひそめ、自然と体が硬直した。

 嫌悪感が胸の奥から押し寄せ、彼女は必死にその表情を隠す。


 首都から派遣された自分が、この田舎町の役人にこんな扱いを受けるとは。

 カトリーナにしてみれば、ラモンは邪悪な怪物にしか見えなかった。


「首都ではそのような『柔軟な考え』は通用しません」とカトリーナは冷たく返す。

 ラモンの笑みが一瞬消えたが、すぐにまた余裕を取り戻したかのように笑みを浮かべた。


「まあまあ、そう堅いことを言わずに」と彼は軽く手を振り、余計に汗が飛び散るのをカトリーナは感じて、心の中で悲鳴をあげる。


 生理的にどうしても受け付けない。

 彼の馴れ馴れしい態度に、彼女の不快感はピークに達していた。


 ラモンはこの地域社会で力を持つ上級役人だという自負を持っているが、その背後にある腐敗した構造が、カトリーナの目には明白だった。


 会議が長引くたびに、彼の「協力」を得るためにどうしても必要だと言わんばかりに、賄賂をほのめかしてくる。

 首都で育ち、品位を重んじるカトリーナには、到底受け入れられるものではなかった。


 一方で、前線に出ている先発組の態度も彼女の苛立ちを募らせていた。

 暁月剣禅に率いられた先発組は、戦闘に特化し、目の前の遺物の捜索に集中している。


 彼らが前線で命を懸けているのはわかる。

 だが、だからと言って、後発組の負担を全て押し付けるその姿勢が許せなかった。


「役割分担だよ」と、彼らは軽く言う。


 確かに前線での戦闘に比べれば、交渉や補給は目立たないかもしれないが、それでも戦いを支える重要な仕事だ。

 それをまるで軽視するかのように、先発組は戦場での自分たちの功績を誇示している。


 特に剣禅の飄々とした振る舞いに、カトリーナは無言の苛立ちを覚えていた。


 カトリーナは疲れがどんどん重くなっていくのを感じながら、ふとセリナのことを思い出す。

 彼女はまるで別次元にいるかのように、突然、遺物の捜索に没頭し始めた。


 セリナの天才的な魔法の腕前は誰もが認めるところだが、彼女の行動は理解できない。

 まるで周囲の状況などお構いなしに、自分の世界に入り込んでしまったかのように感じる。

 それが一層、カトリーナの中にある不安と焦燥感を煽っていた。


 挙げ句の果てには、ここ数日間、何も説明もなしに彼女は行方をくらましてしまっていた。

 カトリーナにはその行動の理由が全く理解できない。


 自分たちが地域社会との折衝や供給問題に苦しんでいる間、セリナは一人でどこかに消えていく。

 魔法の天才なのかどうか知ったことではないが、一般常識が著しく欠けた人間だと言わざるを得ない。これは一体、どういう人選なのか。


 ☆☆☆


 一瞬、考え事をしている間に、ラモンの脂ぎった顔が更に近付いていた。


「これからも、協力的にいこうじゃないか」


 カトリーナは、吐き気を催しながら、冷たく視線を逸らす。

「協力というなら、お互いにきちんとした役割を果たすことが前提でしょう」と、表情を変えずに答える。その一言が、彼女の中で渦巻く怒りをわずかに解放した。


 ただ、それでもラモンの汗ばむ姿を見るたびに、彼女は無意識に拳を握りしめていた。


 ☆☆☆


 会議室に広げられた海図を見て、カトリーナを含む全員が息を飲んだ。

 細かく描かれた海域の詳細、未踏の島々の位置、海流の動きまで完璧に記載されている。

 先ほどまでのラモン・カサドとの煩雑なやり取りを思い出すと、これはまさに奇跡のように思えた。


「この海図、どこから……?」

 カトリーナは驚きを隠せず呟いた。


 首都から来た自分がラモンに頼み込んで、賄賂をほのめかされながらやっとの思いで少しの情報を得たばかりだ。


「どうやって」と他の後発組の者も口々に疑問を投げかけるが、カトリーナの目はすぐに一人の人物に向けられた。セリナだ。


 彼女は会議室の隅に設置されたソファで、まるで他人事のようにひっくり返っていた。

 腕を頭の後ろに置き、無頓着な様子で天井を見つめている。

 彼女が海図を手に入れた人物であることは明らかだが、その方法を考えると、カトリーナは呆然とするしかなかった。


「まさか、セリナさんがこれを?」

 カトリーナの言葉は感嘆半分、困惑半分だった。


 彼女がどうやってラモンのような腐敗した役人を介さずに、いや、賄賂なしでこの詳細な海図を手に入れたのか、全く理解できない。


 セリナは部屋のソファの上でひっくり返って「うん。そうだよお」と軽く答えた。


 周囲が驚きで声を失う中、剣禅が一歩前に出た。

 彼は海図をじっくりと見つめ、その精巧さに感心しながら、「大したもんじゃ」とぽつりと呟いた。

 その言葉には、軽さの中にも彼なりの敬意が込められている。


 カトリーナは唖然としていた。

 彼女が苦労して賄賂まで要求されたというのに、セリナはまるで散歩でもしたかのような感覚で手に入れた。


 それだけでなく、剣禅までがその結果に感心している。

 カトリーナの中で何かが揺らぎ始めた。


 自分が常識だと思っているものが、この場所ではまったく通用しないのではないかという不安と戸惑いが、次第に大きくなっていく。


 ラモンも、この状況に完全に面食らっていた。

 彼の小さな目が忙しく海図とセリナを行き来している。


「そんな馬鹿な。どうしてそんな簡単に……」と何か言いかけたが、セリナの無頓着な態度に言葉が詰まった。


 海図を手にしたまま、カトリーナはしばらく言葉を失っていた。

 セリナの背後で、一部の後発組の者たちが動き始めた。

 彼らは説明を始め、カトリーナは少しずつ事の成り行きを理解していった。


「セリナさんの指示で、漁師や周辺の村々への聞き込みを進めていました」と一人が口火を切る。


「漁師たちは古い伝承や、危険な海域について詳しく知っていました。それをもとに、地元の地図職人と協力してこの海図を作成しました」


 もう一人が続けて「細かい情報を集めるのには、かなりの時間がかかりましたが、セリナさんはここら辺で人気者ですからね。おかげでスムーズに進められました」と報告した。


 カトリーナは驚きを隠せなかった。

 あの無頓着そうなセリナが、背後でこれほど精密に計画を進めていたとは思いもよらなかった。

 彼女は自分がラモンと腐敗した交渉に時間を浪費している間、セリナは独自の方法で動いていたのだ。


「つまり、地方自治体を頼らずに済んだってこと?」

 カトリーナは、驚きを隠せず問いかけた。


「そうですね。地域の方々との信頼関係を築くことができていたので、特に協力の必要はありませんでした」と、報告者は答えた。


 その瞬間、会議室の隅で立っていたラモンが目に見えて不機嫌になった。

 彼の顔はみるみるうちに赤く染まり、汗がさらに滴り落ちる。

 自分の権威を完全に無視されたことに、怒りを抑えきれなかったのだ。


「何を! なにを勝手なことを!」

 ラモンは怒りに満ちた声で言い放ち、椅子を乱暴に押し退けると、そのまま会議室から出て行ってしまった。

 ドアが閉まる音が、彼の怒りを強調するように響き渡った。


 カトリーナは、ラモンの背中を見送りながらため息をついた。

 彼女が費やした時間と労力は無駄になったが、今やそれもどうでもよく思えた。


 セリナの一見無関心な態度と、彼女が裏で動かしていた少数精鋭の働きが、結果的に自分たちをラモンの腐敗した手から解放してくれたのだ。


 セリナはソファでひっくり返ったまま、少しも動かず天井を見つめている。

 周囲の騒動には全く興味がなさそうだが、彼女の背後で繰り広げられていた計画が今こうして結実しているのだと、カトリーナはようやく理解した。


「まさか――信じられない」

 カトリーナは小さく呟いたが、その声は部屋の誰にも聞こえなかった。


 ☆☆☆ 


 ラモンが怒りにまかせて出て行った瞬間、会議室には一瞬の沈黙が訪れた。


 その後、剣禅が突然腹を抱えて笑い始めた。

 その大きな笑い声は、部屋中に響き渡る。


「いや――あの顔!」

 剣禅は息も絶え絶えに言いながら、さらに笑いの波に呑まれていく。


 その姿に触発されたのか、周りの兵士や後発組のメンバーたちも次第に笑い出した。

 ラモンの滑稽な怒りと、彼が屈辱にまみれて帰って行った様子を思い出すと、彼らはもう止まらなかった。


「どうしてあんなに怒ったんだろうな!」

「いや、あれは本気で自分が頼りにされると思ってたんだろう!」


 部屋中が笑いに包まれる。

 セリナですら、ソファの上で微かに口元を緩めているように見えた。


 しかし、カトリーナだけはその中で一人、険しい表情を浮かべていた。

 周囲の笑い声が耳に届くたびに、彼女の中で不快感が増していく。


 ラモンの滑稽さに笑うのは理解できるが、自分が感じていた屈辱感や、彼に時間を取られたことが無駄になったという思いがどうしても消えなかった。


 自分はラモンに振り回されている間に、セリナは着々と事を進めていた。

 その現実が、彼女の心を重く押しつぶしていたのだ。

 笑っている剣禅たちの姿を見ながら、カトリーナはただ憮然とした表情を崩さなかった。


「私は何のためにここにいるのか」

 カトリーナは冷静さを保とうと自分を律していたが、周囲の笑い声がますます自分を孤立させていくように感じていた。

 お読みいただきありがとうございました。

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