147話 魔界紀行 4
青白い甲冑に身を包んだ未練の幽霊騎士――イレヴン・ナイトがそこに佇んでいた。
だが、その姿はゆっくりと変質し始める。
レイが黒魔法の詠唱を続けるたび、周囲の空気は歪み、冷たく禍々しい瘴気が広がっていく。
レイの手が虚空を裂くと、地獄から引きずり出された無数の魂が、イレヴン・ナイトの甲冑に吸い込まれていった。
甲冑は徐々に黒く染まり始める。
鎧の表面に現れる無数の裂け目から、血のような深紅の光が漏れ出し、盾には憤怒と怨念が形を成す。
かつて「聖盾」の英雄と呼ばれたその騎士の名残は、すでに失われていた。
イレヴン・ナイトは、新たな名を得た―― ”暗黒の守護者”
その盾は、守護ではなく破滅を象徴するものへと変貌していた。
周囲の瘴気が重なり合い、まるで全てを拒絶する壁のように広がり、仲間たちの背後に無言の威圧感を漂わせる。
一方、フロルの視界は暗闇と閃光の狭間で揺れていた。
記憶の中で響き渡るのは、かつて彼が裏切り、地獄に堕とした者たちの叫び声。
そして、塔の底から響いてくる低く不気味な唸り声は、彼の思考を次第に崩壊させていく。
「これが……俺の……罪か――」
しかし彼の口から言葉が紡がれることはなく、心の中で呟いたその想いは、次第に怯えと狂気に変わっていった。
フロルはふと自身が握りしめていたものに気付いた。
かつて彼が盗み、手にした魔界の宝――「憤怒の弓」。
だが、その力に魅入られた彼は、すでにその力を制御することができない状態に陥っていた。
焦燥感と恐怖に駆られた彼は、己の手を震わせながら、その弓を塔の闇へ向けて振りかざし――そのまま放り投げた。
弓は闇の中に吸い込まれ、消える瞬間、眩い閃光と耳を裂くような咆哮が塔全体を揺るがした。
フロルはその衝撃に膝を突き、息を荒げた。
その身にはすでに変化が訪れていた。
黒い霧が彼の全身にまとわりつき、甲冑が捩じれながら形を変え始める。
かつての「聖盾の勇者」の面影は、霧と共に失われ、暗黒の騎士――恐れと憎悪に塗り固められた存在へと堕ちていった。
やがて彼は完全に沈黙した。
人間だった頃の感情や理性は完全に奪われ、残されたのは業そのものが形を成した闇の巨人騎士。
フロルの意志はもはやこの地に存在していなかった。
全身は異様な冷気に覆われ、甲冑の表面には数百年の戦いを刻む無数の傷が縦横に走り、腐食した錆が瘴気のように滲み出していた。
その甲冑は、重力すら歪めそうな圧を放ちながら、暗闇の中に佇んでいる。
盾の表面には、幾百もの怨霊が取り憑いているのが目視できる。
透けた無数の顔が縦横無尽に這い回り、ひしゃげた口からは途切れることのない嘆きと叫び声が漏れ続けている。
盾が動くたび、怨霊たちの呻きが一際大きく響き、周囲の空気が震えた。
その音は敵味方問わず、聞く者の心を締め付け、何か底知れない恐怖を植え付ける。
未練と怒りが絡み合ったこの怨念の大盾は、ただ守るための道具ではない。
それはあらゆる希望を打ち砕き、近づく者を破滅へと導くための絶望の象徴となっていた。
☆☆☆
「巨人騎士の背後で隙を見て!」
レイの叫びに、前衛の三人は即座に物陰へ飛び込んだ。
その直後、大盾に激しい衝撃音が立て続けに響く。
甲高い音と重低音が混ざり合い、耳をつんざくような余韻が空間を満たす。
だが、何が起きているのか、その場にいる誰一人として状況を理解できなかった。
「クルルカンが巨人騎士に攻撃してる……」
レイの視線は白い羽毛に覆われた巨大な蛇神に向けられていた。
クルルカンは蜷局を巻いたまま、冷静に地獄の騎士を見下ろしている。
その動きには焦りの色はなく、むしろその冷徹な観察眼が、不気味さを一層際立たせていた。
だが、見えない何かが盾に容赦ない攻撃を加え続けているのは明らかだった。
衝撃のたびに巨人騎士の周囲に粉塵が舞い、地面が微かに震える。
「な、何だあ?」
カイが硬い声で訊ねた。
その視線は恐怖と警戒で揺れている。
答えを知っているのは、唯一、クルルカンと戦闘経験のあるガヴィーノだけだった。
「……尻尾だな。やつは、あの巨大な体をほとんど動かさずに、尻尾の先を超高速で振るっている」
ガヴィーノの声は低く、緊張でかすかに震えていた。
その表情には、かつて味わった死線の記憶が色濃く滲んでいる。
「尻尾なんて全然見えねえぞ……!」
カイが息を呑む。
確かに、クルルカンの尾がどこにあるのかさえ視覚的には捉えられない。
「当たり前だ。目で追える速度じゃない。顔を出すなよ。一瞬で首がなくなるぞ」
ガヴィーノは鋭く言い放ち、低く身を屈めた。
その言葉に、カイもモニクも息を詰め、より物陰へと身を潜めた。
一方で、巨人騎士は微動だにしない。
禍々しい瘴気を放ちながら、クルルカンの攻撃を受け続けている。
盾に宿る怨念の呻きが徐々に増幅し、音として漏れ出していた。
白い空蛇と暗黒の騎士――二つの異形の戦闘は、激しさを増していく。
☆☆☆
「視認できれば、なんとかなる?」
「やってくれ!」
ララの提案にモニクが即座に応じた。
ララは両手を地面に突き、深く集中する。
魔力が地面を揺るがし、周囲の塵や埃が一斉に空中へと浮き上がった。
――地魔法第八階層術 軌道法則 砂塵追跡。
浮遊する塵が緩やかな風に乗り、クルルカンの尻尾を取り囲むように纏わりついていく。
その瞬間、不可視だった高速の尻尾の動きが、塵の軌道として空間に浮かび上がった。
前衛が呆然と見つめる中、空間に描かれた軌道は複雑に絡み合い、まるで乱舞する鞭のようだった。
セリナは炎角獣の燻製肉を囓りながら、呪文を詠唱する。
――水魔法第十七階層禁術 魔翔刃魚。
空中を跳びはねる無数の魔力を帯びたトビウオが、鋭い嘴を構え、視認でき始めたクルルカンの尻尾へ次々と飛びかかっていく。
しかし、凄まじい速度でトビウオたちは撃ち落とされ、宙へと散った。
「アンタ、なに食べてんのよ?!」
レイが呆れながらセリナに問いかけると、セリナは口元を拭いながら答えた。
「亜空間収納に小さい燻製室造っているんですよ。保存が利くし、魔法で時短することもできますから。食べます?」
「本当、よくわからない人ねえ」
レイが溜め息をつくと、ララが興味津々で手を伸ばす。
「ふうん。ちょっとちょうだい」
ララが燻製肉を一口食べると、目を見開いて感激したように言った。
「え? これ時短で作ったの? マジいいよ! イケる。イケる」
親指を立てて称賛するララに、セリナは得意気に笑う。
「おおい! 補助が止まってんだが!!」
カイが戦場の向こうから怒鳴り声を上げると、さらにこう付け加えた。
「その燻製で一杯やりたいから残しとけよ!」
「ほいほい」
セリナはモグモグと咀嚼しながら、トビウオの数をさらに増やしていく。
その圧倒的な数量に、前衛三人はセリナの狙いがわかった。
彼女はクルルカンを苛立たせ、その攻撃の隙を作り出そうとしているのだ。
無数のトビウオによる弾幕に業を煮やしたクルルカンは、巨大な羽毛に覆われた体を揺らし始めた。
そして、口の奥で膨大な魔力を溜め込み、次の攻撃の準備をしている様子を見せた。
「大きいのが来ます!」
セリナが警告を発する。
同時に、ララが地魔法を発動した。
――第十六階層禁術 巨腕創塊。
大地が轟音を立て、巨大な岩の腕が地面からせり上がった。
まるで空を掴もうとするかのように伸び上がるそれは、クルルカンの口元を狙って一気に襲いかかった。
パーティ全員が理解していた――このカウンターでクルルカンの出鼻をくじけば、一気に優位に立てる。
いくら最強クラスの魔獣といえど、寝ていた魔獣が、戦い慣れている現役世代の勘働きには追いつけない。
クルルカンは、怒りに満ちた眼差しで巨大な羽毛を広げ、必死に自分の体を翻し、逃れようとする。
その巨大な手から抜け出すために、羽毛を一層大きく広げ、空気を切り裂くように動く。
風を巻き起こす羽ばたきが、塔全体を震わせる。
その時、ガヴィーノの叫び声が響いた。
「いくぞ!!」
亜空間収納から手槍を掴み取る。
黒魔法が手槍にまとわりつき、ガヴィーノは全身全霊で投げた。
飛ぶような勢いで手槍はクルルカンに向かって放たれる。
手槍がクルルカンに直撃し、その巨大な体に小さな傷をつけた。
クルルカンがうめき声を上げ、猛烈な怒りが高まっていく。
その咆哮が辺りを震わせると同時に、長く鋭い尾が大地を切り裂くように動いた。
先頭のカイの膝がカクンと落ちると、三半規管が狂わされていることを悟る。
たちまち、立っていられなくなった。
その直後、カイ自身が声を上げた。
「かまわず行け!」
カイはフラつきながらも、視界を整えた。
次に見えたのは、クルルカンの尾が襲い来る姿。
「セリナ! カイの回復して!」
「は~い」
セリナは、トビウオの数匹に回復魔力を込めて跳ばす。
「カイさん! 回復魔法です! トビウオに、当たってください!」
「なに?? 当たれ??」
訊くが早いかカイの背中に、回復魔法が込められたトビウオがブスリと刺さった。
「ぎゃああ!」
たちまちカイの体力が充実して目が冴え渡ってくる。
目を凝らし、一瞬だけ砂塵のなかに見える尾を平剣で受け流した。
恐ろしい速度のなかで行われた超高速剣術に、誰かが驚嘆の声を漏らす。
クルルカンの尾を見切るカイも凄まじいが、それを認識できた者の技量もとてつもない。
カイはバトルアックスを握りしめ、クルルカンの巨大な体に向かって斬り込んで行く。
だが、何かが異様なことに気づいた。
「下になにかある! クルルカンの巣の中だ!」
その言葉に、全員が目を凝らすと、巨大な巣の中に異様に輝く魔具が一つ、そこに鎮座しているのが見えた。
巣の中にはいくつもの魔具らしきものが散乱しているが、その一つだけが不自然に輝きを放っていた。
モニクがそれを見逃さず、素早く走り込むと、手に取った瞬間、魔力がその物に流れ込む。
突然、その魔具が光を放ち始め、周囲の空気が一変するのが感じられた。
☆☆☆
巣の中へモニクが入った瞬間、クルルカンが怒り狂って叫びだす。
モニクとクルルカンの間に入った巨人騎士が怨霊の大盾で立ち塞がった。
クルルカンの巨体が一歩踏み込むたびに、地面が震え、空気が重くなる。
空中の温度が急激に下がり、周囲の者たちが冷気を感じ取るのを覚えた。
大盾を構えた巨人騎士は、その重厚な鎧に身を包んで堂々と立っていた。
だが、どんなに強固な防御でも、クルルカンの一撃には敵わなかった。
クルルカンの口から、鋭く歪んだ怪音波が放たれる。
音波は周囲の空気を震わせ、巨人騎士の体を直撃した。
耳をつんざくような音に、平衡感覚が狂い、巨人騎士はその場に膝をついた。
盾を支える力が抜け、巨大な盾の裏に隠されたモーニングスターもその支えを失っていく。
その瞬間、クルルカンの尾が一閃し、巨大な体をそのまま横切った。
超高速で打ち出された尾が、盾を突き破り、鋼鉄のように硬い鎧に激しく食い込んでいく。
巨人騎士はその衝撃に思わず盾を放し、よろめきながら何とか姿勢を立て直すが、クルルカンは容赦なく次の攻撃を繰り出す。
羽毛がふわりと広がり、その一片一片が魔力を宿しているかのように不規則に飛び散る。
魔力羽が無数に空を切り裂き、巨人騎士の周囲を飛び交う。
羽が触れたところで、鎧が次々に裂けていく。
巨人騎士の大盾も、羽根による魔力の衝撃を受け、ガタガタと音を立てながら破壊されていった。
必死に盾を持ち直し、背後に隠された巨大なモーニングスターを掴み取る。
だが、その攻撃すらも、クルルカンの支配する空間では無力だ。
再度放たれる怪音波が、その鉄球を捉え、激しく砕け散る。
棘のついた鉄球は粉々に砕け、無数の破片が飛び散った。
巨人騎士はその衝撃で背を打ちつけられ、息を呑む暇もなく、身動きが取れなくなった。
攻撃を繰り出すごとに、クルルカンの圧倒的な力が巨人騎士を打ちのめしていく。
その盾は、もはや防御の役目を果たすことはできず、巨人騎士の体力は削られ、ついには完全に力尽きて倒れ伏した。
☆☆☆
モニクは急激に高まる魔力に身を震わせながら、その魔具を握りしめる。
彼女の体の中で、途方もないエネルギーが渦巻き、魔具からも凄まじい光が放たれた。
それは、まるで古の力が目覚めるような、重々しい光だった。
――余を起こすのは誰か?
その声は、空間が震えるかのように、モニクの頭に響き渡った。
彼女は瞬時にその威厳ある声の主を理解する。
「……畏れながらダンテ・ベルゼブル陛下でございましょうか?」
――いかにも。何用か?
「私の真名はカサンドラ・ベルゼブル。陛下の五代後の子孫、現当主です」
その言葉に、魔具の中から何かが反応するのがわかる。
魔力の流れが変わり、モニクの手に持つ魔具がさらに激しく反応を始めた。
――間違いない。余の血族。おお。我が娘。我が孫よ。
その声に、モニクの胸はほんの少しだけ温かくなった。
「御意」と彼女は静かに応じる。
魔具がさらに反応し、モニクの魔力を探るように波動を送る。
今、その魔具は彼女の力を確かめ、何かを感じ取っているのだ。
――この歓びを詩にて吟じたい。そうだな……
「それが陛下。ただいま、交戦中でして。なんとかなにませんか?」
モニクの眼前では、怒り狂ったクルルカンが猛然と迫ってきている。
彼女は必死にその攻撃をいなしながら、焦る心を落ち着けている。
交渉を続けるために、必死で言葉を紡いだ。
――近くに七本の矢はないか?
「捜す暇もございません」
――仕様のない話だの。では、奥義を授けよう。
「は。どうすれば?」
モニクは少し戸惑いながらも、その声に耳を傾ける。
――なんのことはない。お前が稽古をしてきたのであれば、矢などなくとも弓のみで撃てる。
「そ、それはちょっと……」
流石にモニクも、突然そんな神技を発揮できるとは思えなかった。
しかし、古の魔王はそんな言い訳など聞く耳持たない。
――やれ。できる。我が血族なら意地を見せい。
「わかりました」
モニクは、渾身の力を込めて魔具に魔力を通した。
瞬間、魔具が鈍く光り、全身を包み込むように力が溢れ出していく。
ハンドルの上下からリムが伸び、弓の形状が現れた。
漆黒の弓が、まるで星々のように輝きを放つ装飾とともに姿を現す。
その光景を目にしたモニクの胸中に、ひときわ強い決意が芽生える。
――わかる! わかるぞ! カサンドラ! 憤怒の弓よ! 魔界を統べる王者たる証!
「いざ! 参る!!」
クルルカンが迫り来る。
その尾が再び振り下ろされ、モニクに死を告げる威圧が迫って来た。
刹那、モニクは魔力で矢をつがえ、振り向きざまに放った。
存在しないはずの魔力の矢が空気を引き裂き、音もなくクルルカンへ向かって飛んでいく。
――憤怒の弓 奥義 魔王孔。
できていなければ確実に死ぬ。
モニクは死を覚悟した。
故に――奇跡は発動する。
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