144話 魔界紀行 1
ヤマト風の屋敷の庭はいつ見ても見事であった。
寝室の障子を静かに開けると、目の前に広がる庭園が視界を埋め尽くした。
苔むした石畳が静かに蛇行し、緩やかな曲線を描いている。
その脇には、色鮮やかな花が四季折々の表情を見せ、控えめながらも凛とした存在感を放っていた。
手入れの行き届いた松の枝が緻密に剪定され、自然の力と人の技が織り成す調和を語っている。
中央には池が広がり、水面には風に揺れる季節の花びらが浮かぶ。
その奥では、竹林がさらさらと音を立て、庭全体に落ち着いたリズムを与えている。
静寂を支配するその光景には、遠くから聞こえる水琴窟のかすかな音が調和していた。
夜の帳が降りれば、石灯籠が柔らかい光を放ち、庭園全体を幻想的な景色へと変貌させる。
昼と夜、それぞれ異なる魅力を宿すこの庭は、どこを切り取っても一幅の絵画のようであり、その全てが計算し尽くされているのに、どこか無作為な自然の美しさをも感じさせた。
寝室の窓枠越しに眺めるこの庭園は、ただの景色ではなかった。
そこには時を忘れさせる静寂と、過ぎ去りし日の記憶を呼び起こすような力が秘められていた。
畳の上に敷かれた布団には、エルマー・ベッシュが横たわっている。
その名が響き渡るドワーフ六部族の酋長であり、亜人連盟の会長、さらに地魔法の大権威――数え切れないほどの肩書きを持つ大親分であった。
しかし、今の彼の姿は往年の覇気とは遠くかけ離れている。
かつて巌のように力強かった顔はすっかり痩せこけ、か細い呼吸を繰り返していた。
隣室では医師が待機し、状況の緊迫感を漂わせている。
その病床のそばにはビクトル・マッコーガンと、魔工機人ゴル七号が正座していた。
ゴル七号の無骨な顔はどこか憂いを帯びているようにも見える。
そんな中、ビクトルが声をかけた。
「それが――若い頃の俺か?」
エルマーが震える口を開いて呟くように話す。
「ああ。似とるだろう」
ビクトルが誇らしげに答える。
「どうだ? マサ?」
その問いに応えたのは、部屋の隅で控えていた中年のドワーフ、マサだ。
「へえ。若い時分の親分に瓜二つで。お見事でございます」
マサの声には懐かしさと、少しばかりの哀愁が混じっていた。
「お前が俺の舎弟になったのは、この頃だったなあ」
エルマーは過去の記憶を掘り起こすようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「へえ」
「いや、お前さんが子分になった頃は、もう一家を構えていただろ? ゴルはずっと若い頃だ」
「若いって……いつだよ?」
エルマーの声は弱々しくも楽しげだ。
「お前が酒場で用心棒やってた頃だ。初めてケンカした時だな」
エルマーが小さく笑う。
「ああ……なんだよ。そんな頃もあったなあ……」
ははは、とマサも笑い声を重ねる。
その笑い声には、過ぎ去りし時への懐かしさと、今なお続く絆の温かさが混じっていた。
エルマーは薄く目を閉じた。
疲労が深まったのか、次の言葉は途切れ途切れになり、部屋に静寂が戻った。
☆☆☆
「どうせ連れてくるなら、ヴァル六号の方が良かっただろうがな」
ビクトルはちらりとゴル七号を見やりながら呟いた。
「……あれはフェンリルに壊されて修理中だ」
言いながら肩を竦めた様子には、どこか諦めがにじむ。
「ああ、ゾーエがモデルのやつな」
名前を聞いた瞬間、エルマーの表情が微妙に変わった。
照れくささと、どこか懐かしげな感情が交錯したような顔だ。
「マサ。知っとるか?」
ビクトルがニヤリと笑う。
「こいつ、ずうっと、ゾーエに惚れてたんだぞ?」
その言葉を聞いた瞬間、エルマーは跳ね起きんばかりに反応した。
「おい! 余計なことを!」
エルマーの声が裏返り、力の入らない体を必死に動かして手を振る。
顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
「へえ、そうだったんですか」
マサは口元を引き締めて笑いをこらえようとしたが、目尻に浮かんだ笑みは隠しきれなかった。
「親分、意外とロマンチストだったんですねえ」
「馬鹿言え。そんな話はもういいんだ!」
エルマーはぷいっと横を向き、わざとらしく咳払いをしている。
その仕草にビクトルがさらに笑いを堪えきれず、肩を震わせた。
病床の空気が、一瞬だけ温かな笑い声に包まれた。
エルマーの顔に浮かぶ小さな照れ笑いは、懐かしい日々を思い起こさせ、皆の心にひとときの安らぎを与えていた。
☆☆☆
エルマーは枕元で渋い顔を浮かべながら、低く吐き捨てるように言った。
「アレはダメだな。観たがよ。いずれ必ず政治利用されるだろう」
その声には失望と警戒が滲んでおり、病床に伏せる身とは思えぬほどの迫力があった。
彼が言う“アレ”とは、訓練エリアの放送以来、注目を集める電影技術のことである。
「……同感だ」
あぐらを掻いたビクトルが、膝の上で手を組みながら答えた。
頭を軽く叩く癖は考え事をするときのものだ。
「だが、今のご時世には必要なものだとも思う。訓練を見世物にしてでも、エリアダンジョンの存在は知らしめる必要があったと確信しとる」
ビクトルの声には苦渋が滲み、重い決断を下した者特有の疲労感があった。
エルマーは目を細め、鋭く訊ねた。
「やはり、政変は起こるか?」
その問いには、単なる懸念以上の確信が含まれている。
「政変どころか――まあ、なんだ……」
ビクトルは言葉を探すように一息つくと、天井を見上げた。
「いざとなれば、エリアダンジョンが民衆の避難場所になるはずだ」
エルマーは鼻で笑ったように短く息を吐く。
「へッ! 敵が来れば、魔物や魔獣を放つといったところか。一流の騎士どもでやっと倒せるくらいのレベルだったな。新兵なんぞはアレを観て震え上がっただろうぜ――マサ」
その声に呼ばれ、マサが控えめに返事をする。
「へい」
「俺が死んだら、こいつの指示に従え」
エルマーがビクトルを顎で示しながら続ける。
その口調は軽いが、内容は重い。
「なあに。こいつも直に逝くから、そうそう面倒はねえや」
ビクトルは呆れたように眉をひそめる。
「おい。なにを言い出す?」
しかしエルマーは気にせず続けた。
「跡目は――クリストバル・ヘストンがいい。あの野郎、生まれがどうとか、つまんねえことばっかり気にしやがって」
エルマーは苦笑混じりに言うと、ビクトルに目を向ける。
「ビクトル。口説け」
「ヤダよ」
ビクトルは即座に拒否し、手を軽く振った。
その反応が予想通りだったのか、エルマーはくつくつと笑う。
「竜騎士団第二師団長か……兼任はできねえかな?」
エルマーが腕を組みながら考える。
だが、ビクトルは鼻を鳴らすように言った。
「無理言うな。他にいないのか? ここのマサや、オスカーなんとかがいただろう?」
「なにい?」
エルマーはわざとらしく驚いた顔を作り、声を張り上げる。
「おう。マサ」
「へい」
「オメエ、俺の跡目継げるのか? おう?」
マサは少し慌てたように首を振った。
「いえ。とんでもねえことでございます」
エルマーはわざとらしく大げさに頷く。
「それ見ろ。クリストバルだ」
「脅してんじゃねえか」
ビクトルが苦笑する。
エルマーも、それをからかうような笑みを返す。
病床という現実を忘れさせるかのように、三人は穏やかな笑い声を交わした。
その短いひとときは、長年の絆を思い起こさせる温かな空気に包まれていた。
☆☆☆
なにがきっかけで、こうなったのか、誰にもわからない。
病床を見舞いに来たビクトルに、ふとした会話の流れでエルマーが「引きこもった息子を許してやれ」と言ったのが、すべての発端だった。
ビクトルは枕を拳で叩きながら怒鳴りつけた。
「余計な世話だ! くたばり損ない!」
エルマーも負けじと声を張り上げる。
「テメエ! わざわざ見舞いに来といて、そんな言い草があるか!」
二人の声が寝室に響き渡り、隣室で控えていた医師と看護師が顔を曇らせる。
ビクトルは布団から半ば起き上がり、怒りを露わに叫んだ。
「あの馬鹿息子、魔工機人に“萌え”を導入しろとか言い出すんだぞ? 真面目にやれと言ってなにが悪い?」
エルマーはあぐらを掻き直し、頬を引きつらせながら反論する。
「良いじゃねえか! “燃え”は要るだろうが!」
ビクトルはさらに声を張り上げ、血管が浮き出るほど顔を赤くして吠える。
「そんなもん、要るか! なにが‘萌え萌えキュン’だ! 死ね!!」
エルマーは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに声を張り返す。
「‘燃え燃えギュン’?? 良いじゃねえか! 燃えてこそ男だろう!!」
エルマーは堪らず、部屋の隅で控えていたマサに向かって怒鳴った。
「おう! マサ! テメエ! なんとか言え!」
突然話を振られたマサは縮こまり、顔を真っ赤にして口を開いたが、何も言えずに頭を下げるしかなかった。
医師と看護師が興奮したエルマーを宥めようと駆け寄るが、彼らは老人の意外な力強さに弾き飛ばされる。
「決闘だア!」
エルマーが拳を振り上げ、決定的な一言を叩きつけた。
ビクトルは座布団を蹴り倒しながら立ち上がり、天井を見上げて大笑いする。
「上等じゃあ! いつもの河原で来月だ! 邪魔したな! 帰る!」
「か、河原でケンカって――! それじゃあ本当にガキのケンカじゃないですか!」
「おう。そうだ! ガキのケンカだ! 文句があるか!」
「ありますよ!」
マサが反論したことなど、ビクトルの耳には届いていない。
言うが早いか、ドカドカと足音を立ててビクトルは襖を開け放ち、そのまま廊下を歩き去っていった。
部屋に残されたエルマーは荒い息をつきながらも、すぐにマサを呼びつける。
「おう! マサ! ウチの山で熊、獲って来い! 病気なんぞ肉食えば治るんだ!!」
涙ぐみながら、マサは慌てて頭を下げる。
「お、親分……わかりました。獲って参りやす」
畳の上に正座したまま、涙がポタポタと落ちるマサを横目に、エルマーはまた布団に倒れ込む。
その顔には、怒りとも笑いともつかない奇妙な表情が浮かんでいた。
☆☆☆
玄関まで見送りに出たマサは、ふと立ち止まった。
目の前のビクトルが、大粒の涙をこぼしていたのだ。
その肩が微かに震えるのを見て、マサは息を呑む。
「こんな見送り方ですまないな」
マサはすぐに背筋を正し、小さく首を振る。
「いえ。親分が肉を食いたいと仰ったんです。半年ぶりのことで」
その声は誇らしさを滲ませていたが、どこか震えていた。
ビクトルは泣き顔を手の甲でぬぐい、目を細めて空を見上げる。
「そうか……次はゾーエを見舞いに来させる。その方が良かろう」
マサは口元を引き締め、静かに頷いた。
「ええ。しかし、オジキもまたお越しください。私らみたいな稼業の人間には、本気でケンカできる友達は親友ですから」
ビクトルは短く鼻を鳴らし、片手を軽く上げて答えた。
「ふん。またな」
そう言うと、小きな体を翻して玄関を後にする。
雨雲が低く垂れ込める空の下、遠ざかるその背中がどこか頼りなげに見えたのは、マサの気のせいだったのかもしれない。
ビクトルが去った後、マサはしばらく立ち尽くしていた。
雨の匂いが漂う風が頬を撫でる中、ふと振り返ると、エルマーのいる部屋の方から微かな咳払いが聞こえてきた。
雷鳴が遠くで鳴り響く中、ビクトルは馬車に乗り込むと、振り返ることなく帰路についた。
並ぶ者なしと謳われた大侠客、エルマー・ベッシュが亡くなるのは、その四日後のことである。
お読みいただきありがとうございました。
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カクヨムでも書いております。宜しくどうぞ。




