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聖剣悪女  作者: 河田 真臣
第六章 憤怒の弓
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141話 いと罪深き朝 紅月に踊れ鬼ども 7

 ――トラグス!  彼を映してはいけません!  隠しなさい!


 通信魔具越しにレイの声が響いた。

 その声は、かつて聞いたことのないほど切迫している。


「え?  映ってはいけない……どこがですか?  全部?  一部?」

 トラグスは困惑し、ちらりと裸の中年男を振り返った。


 ――いいから、なんとかしなさい!!


「隠れろ逃げろの次は、隠せですか。忙しいことですねえ!」

 愚痴をこぼしつつも、トラグスはマントを大きく広げた。

 黒布が闇夜に溶け込み、瞬く間に中年男の姿を覆い隠していく。


 マントに包まれた男から微かに放電音が漏れた。

 周囲にわずかな静電気が広がり、トラグスの髪の毛が僅かに逆立つ。


「おおっと、放電ですか……まあ心配ご無用です」

 トラグスは自信満々に笑う。


「このマントには魔法防御付与が施されていましてね。当然、雷魔法対策の絶縁結界も織り込み済みです」

 その言葉にどれほどの信頼性があるのかは定かではないが、トラグスは胸を張り、依然として得意気だった。


 ――そのまま下へ落としなさい! スタッフが回収します!

 珍しくレイの焦った声が通信魔具から漏れる。


「はいはい。なんなんでしょうね。まったく――」

 トラグスはマントの端をきゅっと結ぶと、言われた通り屋根の上から男を階下へ蹴落とした。


 そして、再び闇の中へと駆け出して行くのだった。


 ☆☆☆


「先生。今、何か映ってはいけないものが映ったとスタッフが騒いでいるのですが――」

 アナが眉をひそめ、慌ててレイに報告する。


「ええ、どうやら部外者が這入り込んだようですね。少々困りますが……顔以外は映ってしまいました。まあ、お気になさらないように」

 レイは至って冷静だ。

 どこ吹く風という態度で、手元の資料をめくり続ける。


「顔以外はいいんですか?」

 アナの戸惑いに満ちた声に、レイは怪訝そうに首を傾げた。


「え? 何か問題でも?」


 その何気ない反応に、アナとラルフは顔を見合わせる。

 スタッフが騒ぎ立てている様子と、目の前の落ち着き払った三人のギャップがどうにも埋まらない。


 研究者たちのグロ耐性は常人のそれを遙かに凌駕する。


 まして、解説席に座るこの三人――レイ、ラルフ、アナは優秀な研究者であり、それが本業である。

 日常的に魔物の解剖や実験を行っているのだ。

 局部が映ったからといって騒ぐ意味が、彼らにはまるで理解できない。


 特にレイは、猟師の娘である。

 幼少期から獲物の解体は日常の一部であり、部位がどうのと意識したことすらなかった。


「……局部が全国放送された、と。それが問題だと言うわけですね?」

 ラルフが腕を組み、ようやく話を飲み込んだかのように頷く。

 しかし、その表情に危機感はない。


「いや、だから……だったらなんですか?」

 スタッフの問いかけに、アナも首を捻る。


「全然わかりません。あの……局部が映るのと、魔物の臓器を解析するの、どこが違うんでしょうか?」


 スタッフが慌てふためいているのを尻目に、三人は真面目に議論を始めた。

 世間一般の感覚と彼らの価値観は、完全に乖離しているのだ。


「……いいんじゃないですか?  なんの問題もないでしょう」

 レイは結論付けるようにさらりと言い放つ。

 しかし、通信魔具から聞こえてくる騒がしい声が、その言葉を遮った。


 ――問題ありまああす!


 トラグスの絶叫が通信魔具を通して響き渡る。

 しかし、三人はその叫びを無視することに暗黙の了解で決めたようだった。


 本当に問題なのは、映った部位ではない。

 映ったのがダニエル・マッコーガンであること――裏社会から執拗に狙われる天才魔工機人研究者の存在そのものだ。


 父ビクトルとは方向性の違いで研究室を去ったダニエルだが、その才能は未だ健在であり、彼の誘拐は世界の権力図を塗り替えかねない。

 レイはそれを承知しているだけに、スタッフの騒ぎがますます不毛に思えて仕方がないのだ。


「……で、局部の話はもういいんじゃないですか?」

 レイは飽きたように話を締めようとするが、スタッフはまだ釈然としない様子で、どうにも議論は終わりそうにない。


 一方で、通信魔具の向こうのトラグスは、相変わらず絶叫し続けていた――。


 ☆☆☆


「ぐぬううッ! あの人たちの倫理観はどうなっているのですか!」

 トラグスは通信魔具を通じて叫びながら、解説者たちの無理解に憤りを隠せない。

 怒りのあまり、普段の余裕ある態度が崩れ去っている。


 だが、その瞬間、耳を劈くような風切り音がトラグスの耳に届いた。


 その直感に突き動かされるように、トラグスは咄嗟に体を捻り、ギリギリのタイミングで回避する。

 背後で何かが廃墟の壁に直撃して崩れ落ち、鈍い音が響いた。


「ちッ!」


 百メートルほど向こうの廃墟の屋根の上、剛剣“霧島”を構えた右近が舌打ちをした。

 トラグスから、右近の姿は、霧の中で揺らめく黒い影のように見えた。


「どうだ?  タカさん!」

 屋根の下から、竹熊が声を掛ける。

 その声には焦燥が滲んでいた。


「外した! 貴奴に、攻撃する意思があれば隙だらけなんだが……逃げの一手に徹して埒が明かん!」

 右近は剛剣を肩に担ぎ直しながら、遠ざかるトラグスを目で追った。


 廃墟の影を縫うようにして逃げるヴァンパイアの姿は、まるで夜の闇そのものだった。

 その移動の速さに苛立ちを覚えながらも、右近は冷静さを保とうと深く息を吐く。


「……ああ!  クソ!  逃げられた!」

 右近が拳で屋根を叩きつけるようにして悔しさを露わにする。

 その一方で、竹熊は口元を歪めながら応じた。


「次だ次。奴が逃げに徹するなら、それを逆手に取ればいい。じっくり追い詰めるんだ、タカさん!」


 右近は竹熊の言葉に頷きつつ、目を細めて再び遠くを見据えた。

 トラグスを逃した悔しさを胸に秘めながらも、剣士の瞳には諦めの色は一切なかった。


 夜の帳がさらに濃くなり、追跡劇の緊張感がますます高まっていく。


 ☆☆☆


 ――長門流忍術 鎖鎌 刻鱏(こくえい)


 祐馬は鋭い目で獲物を狙い定めると、鎖鎌を勢いよく投げ放った。

 鎖が空を切る音が鋭く響き、まるで生き物のようにうねりながらトラグスの足元を狙う。


「行け!  左膳!」


 祐馬の声が飛ぶや否や、鎖の先に結ばれた分銅がトラグスの足首を絡め取った。

 その瞬間、鎖が音を立ててピンと張り、トラグスの動きを封じ込める。


「ご無礼致します!」

 左膳が祐馬の張った鎖を伝い、驚異的な身の軽さで空中のトラグスへと駆け上がっていく。

 その動きはまるで疾風の如く速く、そして正確だった。


「なんですって?!」

 トラグスは仰天し、翼を広げて激しく暴れるが、鎖はその動きに合わせてさらに絡まり、自由を奪っていく。


「忍術までやっていたか……左膳め、やりおるわ」

 屋根の上から様子を見守っていた右近は、我が子の成長に思わず息を呑んだ。


 竹熊の隣で天鳳道場師範の宮原が、静かに口を開いた。

「あの子は他の子より背丈も力もありますがな。それが逆に動きの重さになっていたので、些か俊敏さを磨きたいと相談を受けていたのですよ」

 右近はその言葉に目を細め、再び左膳の動きに目をやった。


「賢い子は違うのう。己の欠点をわかっておるわ」

 竹熊が口元を緩めながら感心するように言った。


 祐馬の張った鎖は、トラグスを完全に拘束する寸前まで絡みつき、左膳が追撃の一撃を加えるべく勢いをつけて跳躍した。


 ☆☆☆


 忍術といっても、それはほとんど曲芸と変わらない。

 トラグスが鎖の張りを緩めようと距離を詰めても、祐馬はその意図を読んで即座に対応する。


 鎖は空中でピンと張ったまま、まるで見えない手に支えられているようだった。

 達人の技であるが、長くは保てまい。


 祐馬の動きは止まることなく、摺り足で鎖を巧みに渡る。


 ――風魔流 忍法 柳塵抄(りゅうじんしょう)


 左膳は鎖の上で一瞬体勢を低くし、次の瞬間、下段斬りを放つ。

 その刃が空を切った刹那、小さな旋風が巻き起こり、切先から放たれる魔法の風がトラグスを捕らえる。


 風の刃は脚から胴体、頭部に至るまでを刈り取るように切り刻んだ。


「ぐッ! ぐああああッ!!」


 トラグスが苦痛の声を上げ、鎖がガクンと外れる音が夜空に響く。

 見ると、トラグスの足首が完全に消失していた。


 左膳は空中でくるりと宙返りし、地面に軽やかに着地する。

 その動きはまるで一連の舞を披露しているかのような優雅さだった。


 祐馬は静かに歩み寄り、祐馬が「見事」と頭を撫でた。

「仕留めましたか?」


 左膳が顔を上げて訊くと、祐馬は鎖を回収しながら微かに首を傾げた。

「おそらく。逃げ場はない――はずなんだがなあ」


 祐馬は遠くを見つめ、眉を寄せた。

 さすがの祐馬も、遁走するヴァンパイアを追い詰めた経験はない。


 確信を持つことが困難である。

 逃げ場を失ったトラグスが何を仕掛けてくるか、誰にも見通す術がなかったのだ。


 ☆☆☆


「くくくッ! 私は不死身にして、不屈のヴァンパイア。負けることなどないのでええす!」


 蝙蝠に姿を変えたトラグスは、必死に翼を上下させながら、暗闇を縫うように逃げていた。

 小さな体はどこか滑稽だったが、猛者たちを相手に逃げおおせたのだから結果は上々である。

 満身創痍ながらも、トラグスは薄ら笑みを浮かべていた。


 だが――


「みっけ!」


 突如、上空から響く声。

 アレンカが空中からピアスだらけの顔を突き出し、鋭い邪眼の視線を放った。


「し、しまった! ア――ア……ア……」


 邪眼の効果がトラグスを捉えた瞬間、カキンと羽が石化する音がして、蝙蝠は制御不能のまま地面へと落下していく。


「よし。でかしたぞ、アレンカ」


 落下地点で待ち構えていたのはカイとゴル七号だった。

 カイは石化したトラグスを確認し、冷静な表情を浮かべる。


「さて。他の参加者たちに気付かれないうちに拠点を確保し、多重結界を張るぞ」

「了解した」

 ゴル七号の機械的な声が返る。


 カイはすぐさま次の指示を飛ばした。

「アレンカ、そこの廃墟で見張ってくれ。夜明けまで頼むぞ」

「あいあい。任せて。夜明けまで、あと三十分もないしね。気合い入れていくよ」


 アレンカは軽く翼を広げると、廃墟の周囲を見回しながら配置に就いた。

 カイも深く頷き、視線を落とした。


 最後まで気を抜くな――。


 過去の苦い経験が頭をよぎる。

 通常エリアで、寸前の勝利を横にいたゴル七号にかっ攫われたあの瞬間。

 油断は禁物だと幾度も教えられてきたが、実際に直面するまで覚悟の甘さが認識できていなかった。


 ビクトル・マッコーガンからの厳しい指摘は財産である。

 勝者とは、敵が勝利を確信して気を緩めた瞬間に、その隙を見逃さず最後の一撃を決める存在なのだ。


 カイは静かに廃墟へと潜入すると、慎重に石化したトラグスを魔布に包んで魔力を遮断した。

 それから懐へと仕舞い込み、ゴル七号と頷き合う。


 夜明けまでの時間が迫る中、廃墟の空気には緊張感が満ちていた。

 勝利の鍵を握るのは、この最後の三十分に全てがかかっている。

 お読みいただきありがとうございました。

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 カクヨムでも書いております。宜しくどうぞ。

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