139話 いと罪深き朝 紅月に踊れ鬼ども 5
嘆きの女巨人、ティターン・ラメントは、暗闇の奥から這い出るように現れた。
その姿は、視覚に焼き付いて離れないほどに禍々しい。
どす黒い霧を纏いながら、嘆きと共に響く声は、言葉にならない呻きの連続で、耳に届くたびに魂を削られるような感覚を覚える。
リリアンはその場に釘付けになり、恐怖で動けずにいた。
巨人の形状は、ただ醜悪に歪められた存在だった。
足元まで届くほど長く絡まった髪は、腐敗した泥のように湿り気を帯びて滴り落ち、顔全体を覆い隠している。
だがその隙間から、ギラリと光る裂けたような口だけが覗いていた。
人間の形をしているはずなのに、その口の不気味さは異質であり、見る者を根底から震え上がらせるものだった。
「……っ、う……」
リリアンは息が詰まるほどの悪臭と恐怖に襲われ、腹の奥から吐き気がこみ上げてくるのを止められなかった。
何とか顔をそむけようとしたが、脚はすくみ、背筋は凍りついたまま動けない。
胃の中が逆流する感覚に耐えきれず、リリアンはその場で実際に嘔吐してしまった。
嘔吐した後も、目の前の巨人が発する不浄な存在感は増すばかりだった。
絶え間なく続く嘆きの声は、リリアンの意識を暗い渦の中へと引きずり込む。
耳を塞ぎたくても動かない手がただ震えるばかりだった。
気づけば周囲には誰もいなかった。
仲間の気配も声もない。
ただ、広がるのは漆黒の闇だけ。
そして、その闇の中心に立つティターン・ラメントの後ろに、漆黒のドレスを纏ったレイ・トーレスが悠然と佇んでいた。
「……逃げ場なんてないわ」
レイの冷たい声が闇を裂き、リリアンの耳に刺さる。
嘆き続ける巨人の不気味さとレイの冷徹さが絡み合い、リリアンを完全に絶望の底へと叩き落とそうとしていた。
「四百年の刑期を終えたんだけど、魂が欠けていて消滅できずにいたのよ。良かったわ。なにせ大罪人だから普通に、転生させるわけにもいかないし」
レイの冷淡な声が、暗闇に鋭く響く。
「な……なにを言っているの……?」
リリアンは言葉を絞り出したが、その声は震えていた。
「なにって、聖女の地位を利用して、南国の王を海賊魔王に仕立て上げ、戦争理由をでっち上げたことを言っているのよ? わかる?」
レイの瞳が冷たくリリアンを射抜いた。
リリアンは目を見開き、唇を震わせた。
拒絶の言葉すら喉に詰まり、出てこない。
「四百年じゃ短すぎるけれど、地獄にも法があるし。ほら、これで一緒になれるわね」
レイが言葉を続けるたび、部屋の空気はますます重苦しいものとなり、リリアンの視界が歪むようだった。
「……やめて」
か細い声で懇願したところで、それがレイに届くはずもなかった。
嘆きの女巨人の髪を、レイが無造作に掻き上げた。
その動作は残酷なまでに悠然としていた。
髪の下から現れたのは、老いさらばえ、苦しみの痕跡を刻まれたリリアン自身の姿だった。
巨人の顔には、今のリリアンには到底見ることのできない、地獄の数世紀を生き延びた魂の重みが宿っている。
「……な……なんで……」
リリアンは恐怖と絶望に打ち震えたが、声を出すことさえままならない。
女巨人は、リリアンを見つめると、声にならない叫びを上げた。
その口から響く絶叫は、怨嗟と痛みが混ざり合った地獄そのものだった。
地獄で終わりのない責め苦を受け続けた魂が、いかにして自分を裏切り、復活したのか。
――それを理解した瞬間、巨人は絶叫を続けながらリリアンに向かって崩れ落ちるように迫った。
その瞬間、リリアンの身体から魂の欠片が無理やり引きずり出され、女巨人の身体と一つに融合していく。
断末魔のような叫びが、暗闇の中で響き渡った。
融合が完了した瞬間、巨人の身体は崩壊を始めた。
肉が溶け、骨が砕け、最終的には灰へと変わっていく。
もはや人間として生まれ変わることなどない。
リリアンの魂は、虫や小動物に転生しては潰され、喰われ、絶え間ない死を繰り返す運命を背負わされていた。
その様子を無表情で見届けたレイは、冷ややかに一言だけ告げた。
「刑期満了。おめでとう」
その声には、裁定者としての冷酷さだけが滲んでいた。
暗闇の中、崩れ去る巨人と共に、リリアンの存在も完全に消え去っていく。
古の魔女は、長い刑期を終えた。
☆☆☆
モニク・バローが闇の中からゆっくりと姿を現した。
長い脚をしなやかに動かしながら歩くその姿は、人間離れした威圧感を放っている。
「やあ。魔界の至宝を盗んだのは君かな?」
その声には、軽薄な響きがありながらも、裏に冷酷さが潜んでいるのが感じ取れた。
フロルの前に近づいてくるモニクの全貌が、闇の中から徐々に明らかになっていく。
背が高く、鋭い目つきと口元の薄笑いが、彼女の冷徹な性格を物語っていた。
「君のおかげで、現在の魔界政治は分断真っ最中だよ。ははは。地獄なんて生温いねえ」
モニクの口調は冗談めいていたが、その目には狂気に似た怒りが宿っている。
「我々の至宝をどこに隠したのかな? 慎重に答えたまえ。地獄の王に交渉して、百年単位で刑期を伸ばすだけの罪状を訴えることもできる」
「何者だ?」
フロルが険しい表情で問い返すと、モニクは小さく笑い、顔をわずかに傾けた。
「魔界王、ダンテ・ベルゼブル直系の子孫だよ。魔界人は他の王が魔王と名乗ることなど認めてはいない。真なる魔王は、魔界の王をおいて他には存在しないからだ」
その言葉を放つと同時に、モニクの頭部から漆黒の角がゆっくりと生え出し、目が赤く染まった。
形相は恐ろしく変貌し、彼女の怒りが増幅されていく。
「貴様に、一族の恨みがわかるか? この盗人めが」
モニクの声が低く響き渡る。
その迫力にフロルは一瞬言葉を失った。
その緊張の中、不意に奥の暗闇からレイが現れた。
「憤怒の弓は、もはや見つからぬ前提で、我が国、最大のレガリアとして崇められている」
モニクは涼しげな表情で言葉を続ける。
「そう考えれば、魔王の遺物の中でも別格と言えるわね。魔王の魂どころか、国家の王権そのものなんだから」
レイがモニクを見て声を掛けた。
「ああ。まさしくその通りだ。憤怒の弓を持つ者が、真なる魔王の称号を得る。ダンテ・ベルゼブルの遺言は絶対なんだよ」
モニクは答え、頭を振る。
「わ、忘れた! 忘れたね! いったい何百年前のことを言っているんだ!!」
フロルが声を荒げたが、その言葉は空虚に響いた。
レイは肩をすくめ、にやりと笑った。
「そう言うと思った♪ きっと、思い出すことになるわよ?」
レイが手を軽く振ると、その場の空気が凍りつくような冷たさに包まれた。
未練の幽霊騎士――イレヴン・ナイトが召喚されたのだ。
青白い甲冑に身を包んだその戦士が現れると、空間全体に腐敗した匂いが漂った。
戦士の甲冑には無数の傷と錆が刻まれ、不吉な存在感を放っている。
冷気が漂う中、その甲冑を纏う体から発せられる死の気配は、圧倒的なまでの威圧感を持っていた。
フロルは顔をしかめ、その場で足を引きずるように後ずさった。
「あ、あれは……やめろ!」
戦士は低く囁くように何かを呟き、ゆっくりとその兜を外した。
その中から現れたのは、青白い死人の顔だった。
フロルは喉が裂けるかと思うほど大きな声で絶叫した。
その顔は、紛れもなくフロル自身のものだった。
レイがフロルの足元に佇み、冷ややかな視線を向けながら呟いた。
「思い出しなさい。思い出さない限り、あなたは地獄の虜囚のまま。死が終わりだなんて、そんな甘い幻想は捨てることね」
フロルの震える声が響く。
「悪魔――この悪魔め……」
その言葉にモニクは鋭い笑みを浮かべた。
「どの口が言うんだ。もういい。直接、脳に訊くとしよう」
そう言うと、モニクは片手に嵌めていた革手袋を静かに外し、低い声で呪文を詠唱し始めた。
「魔法はからっきしじゃなかった?」
レイが冷ややかに問いかけると、モニクは軽く肩を竦めて答える。
「ああ、生活魔法さえおぼつかないね。ただ……ほんの少しだけ極大魔法が使えるくらいだ」
「むちゃくちゃね」
レイが呆れたように言うのをよそに、モニクの爪が植物のように螺旋状に伸びていく。
フロルが涙ながらに懇願する声が響く。
「や、やめ、止めて。止めて――」
モニクはその哀れな叫びを笑顔で無視すると、伸びた触手のような爪をフロルの耳へと滑り込ませた。
爪は鼓膜を突き破り、脳へと侵入していった。
その動きはまるで植物の根が土を侵食するように、じわじわと広がっていく。
最新鋭の魔工機人であるフロルの身体は、人間と同じように作られているため、鼓膜や脳の構造さえ忠実に再現されていた。
しかし、その再現性が裏目に出たのか、フロルは自身の脳が掻き回される感覚を生々しく体験することとなった。
脳の内部で「カリカリ」と音が響き、それが耳を通じて周囲にも漏れ聞こえる。
その不快な音と、フロルの苦悶の表情に、場の空気は一層重苦しいものとなった。
自白を促す黒魔法は数多く存在するが、モニクが用いた極大魔法に分類される精霊魔法は、そんなものとは一線を画していた。
これは人類最大の禁忌とされる魔法の一つであり、ただの記憶を呼び起こすだけでなく、心の奥深くに眠る真実を無理やり引きずり出す力を持っている。
「ふうん……なるほどね」
モニクは興味深そうに呟き、冷ややかな視線をレイに向けた。
「レイくん。魔界へ付き合う気は?」
モニクの問いに、レイは眉をひそめる。
「私に関係あること?」
モニクは目を細めて微笑む。
「君が所有している羨望の仮面にも関係することだ」
その言葉に、レイはハッとしたように目を見開き、モニクを睨んだ。
「――どうして、それを?」
モニクはその反応を楽しむかのように軽く笑った。
「史上最悪の宰相、ギルベルト・アスモデウス。この泥棒の記憶によれば――最果ての塔で彼の記録を見たことが……おっと、探してた記憶が出てきたゾ♪」
レイは苛立ちを抑えつつ訊ねる。
「でも、そんな……何百年も見付からないものなの? 冒険者だって数限りなく行く場所でしょう?」
モニクは肩をすくめて答える。
「魔界には冒険者自体がほとんどいないからね。この国の常識でものを考えてはいけないな」
「魔界人は夢やロマンを追い求める行き倒れ覚悟の冒険に興味がない。ダンジョンや遺跡を好んで探検するとか、僕らには到底理解できないね。意味不明だ」
レイはその言葉を聞いて小さく息をついた。
「文化からして違うのね……当然、一緒に行かせていただきます」
モニクは満足げに微笑み、静かに頷いた。
☆☆☆
突如、地面が激しく震え、暗闇の中から赤黒い顔をした巨人が姿を現した。
蓬髪は荒れ狂う稲妻のように乱れ、その隙間から覗く瞳は、ただの憎悪や怒りでは済まされない。
――人間の理性を超えた狂気と深い怨念が燃え上がっていた。
巨人が近づくにつれて、周囲の空気が歪み、その存在自体が空間に重圧を与えているような錯覚を覚える。
身体中に冷や汗が滲み、心臓の鼓動が耳元で響き渡る。
奈落の巨人 アビス・ジャイアント――懲役千年。
メルビンは巨人を目の当たりにし、凍りついたように立ち尽くしていた。
もはや抵抗する意味などないことは、メルビン自身がよく分かっていた。
そして、これから自分が何を見せられるのかも知っている。
それは希望ではなく、絶望の果てにある光景。
突如として響くレイの冷笑に、暗闇が緊張感に包まれる。
「近世魔王、バルリオ・マモンが考案した拷問禁呪」
レイの声は静かだが、その言葉は断頭台の刃のように冷たく鋭い。
「トラウマを植え付け、任意で再発させる精神系最大の外法。人間に対して行使すれば国際法違反にもなる古代禁術階層レベル二十四”煉獄”」
メルビンが呻き声を上げる。
「だ、だったら――」
彼は救いを求めるように周囲を見回す。
「どこにも人間はいないわね」
レイの唇が冷笑で歪む。
「魔工機人しかいない。良かったわ。国際法違反にならないで」
フロルが絞り出すように言葉を吐き出す。
「悪魔――」
「その言葉、何度聞いたことかしら」
レイの目が冷たく輝く。
「あなたの時代にはなかった魔法よ。随分、恨みを買っていたようね。その報いが来ること自体も、忘れるほどに」
彼女は三人の勇者を見下ろしながら含み笑いを浮かべた。
☆☆☆
この世にリリアンの魂はもはや存在しない。
リリアンだった魔工機人――その躯には、適当な地獄の虜囚が閉じ込められている。
彼女はすでに壊れていた。
薄れた人間性の残骸が、残酷な運命を物語る。
メルビンは、甲高い笑い声を響かせているリリアンをただ見つめる。
もはや正気を保つ術を失ったフロルは、脳を弄られた影響で何かをつぶやきながら、時折メルビンの頭を囓りながら低く囁いていた。
「――もうやめてくれ」
メルビンの声は虚しく闇に消える。
レイが優雅な動きで肩を竦めた。
「泣き言を言って良いのは普通の人間だけよ。勇者にそんなものは似合わないわ」
彼女は冷ややかに告げる。
「さあ。全部忘れて元気を出して。あらゆる人間を貶めて、戦争を起こしてまで手に入れた勇者の称号を、いつまでも大切にしてね!」
その時、奈落の巨人の素顔が闇の中から明らかになった。
薄暗い顔をした巨人――それは六百五十年後の勇者の顔だった。
三人の地獄に繋がれた本来の姿が浮き彫りになる。
メルビンは記憶を失い、フロルは正気を失い、リリアンは魂すら奪われた。
だが彼らはいずれも、他国に戦争を仕掛けた大罪人であり、その報いを受けるべき存在だった。
メルビンの生前の罪は、ほんの一時、黒街令嬢レイによって保留されることとなった。
やがてメルビンは、すべてを忘れた状態で目を覚ます――それは驚くほど快適な目覚めだった。
お読みいただきありがとうございました。
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カクヨムでも書いております。宜しくどうぞ。




