113話 霊界ダンジョン探訪 3
セクトリウスの鐘の音が激しく打ち鳴らされた。
霊界の門が鈍く震え、地響きのようなうなり声が辺り一面に広がる。
それは現実と非現実の境界をゆがめ、見る者の心を抉るような異様な音色だった。
やがて、門の裂け目から何かが現れる。
暗闇を裂くようにして巨大な指がゆっくりと現れた。
その指は人間のものを模しているが、皮膚はただれ、漆黒の炎のようなものが滴り落ちている。
爪は剣のように鋭く、動くたびに甲高い音を響かせていた。
次第に、その邪悪な手が門を力尽くで引き裂くように押し広げていく。
門の向こうから漏れ出る不気味な光が辺りを照らし、そこに浮かび上がったのはさらに恐ろしい光景だった。巨大な邪霊――その姿は言葉で形容し難い。
無数の顔がねじれた体表に浮かんでいる。
顔はすべて苦悶に満ち、開いた口からは静かに泣く声や怒号、狂気の笑いが漏れ出していた。
体は流動する闇そのものであり、その中に無数の腕が埋まっているかのように見える。
一部は人間のような形、一部は獣のそれに似ており、他は悪夢そのものとしか表現できない異形だった。
大気そのものがねじれ、地面が軋む。
その威容はまさに、地上に降り立つことを許されざる存在の象徴だった。
☆☆☆
クリストバルは首からネックレスを外し、扉に向けて投げ放った。
――呪鎖の環。
その言葉とともに、ネックレスが空中で紫光を放ち始める。
虚空から無数の鎖が出現し、荒々しく門と巨大な邪霊の手を絡め取った。
鎖は生き物のように動き、大邪霊の巨腕を力強く締め上げる。
呪力が流れ込み、触れる部分から黒い煙が立ち上った。
手が激しく暴れるたびに、鎖がさらに食い込んでいく。
ギチギチギチ……と不気味な音が響く。
鎖が門を揺さぶり、大邪霊の抵抗がより激しさを増していく。
門の向こうでは、何か巨大な存在が現世へと這い出ようとしていた。
鎖が巨腕を締め付ける度に、門の隙間から膨大な邪気が漏れ出ていく。
クリストバルは鎖が強固に食い込んでいく様を確認すると、一歩後ろに下がり、冷静な瞳でその光景を見つめていた。
鎖の呪力はじわじわと大邪霊の力を蝕み、動きを鈍らせていく。
しかし、抵抗は止むどころか、ますます激しさを増している。
門全体が軋み、崩れ落ちるような音が響き渡った。
「さて……これで時間を稼げるかどうか」
クリストバルの眼差しには、鋭い計算の光が宿っていた。
☆☆☆
血塗れの戦衣が鈍い赤黒い光を放つ中、周囲に邪悪な低級霊が集まり、耳障りな囁き声が渦を巻いていた。
セクトリウスはその異様な光景に困惑の色を隠せない。
「呪術が発動しないから焦っているのか?」
クリストバルの低く冷たい声が響く。
「堕落した聖職者さまは、戦い方がキレイで笑えるな。アンタ、自分より上位の邪霊と戦ったことがないだろう?」
クリストバルは嘲るように笑いながら、右手を亜空間に突っ込む。
次の瞬間、彼の右腕には”地獄の手甲”が装着されていた。
手甲に封じられた魔獣が唸り声を上げ、重々しい獣臭が空気を染める。
「さて……喰らえ」
一言呟くや否や、クリストバルの拳が閃き、セクトリウスの顔面を捉えた。
ゴガンッ!
凄まじい衝撃音とともに、セクトリウスの仮面が歪み、その表面から異様な泣き声が響き出す。
「アァァァアアアアアアア!」
仮面は叫び、悲鳴を上げ、錯乱したかのように感情を吐露し始める。
その声には怒り、恐怖、混乱が入り混じり、ただの物体ではあり得ない生々しさを感じさせた。
当然だ。
邪霊と化したセクトリウスにとって、封印や浄化の危機は幾度となく経験してきただろう。
しかし、殴られる――それも肉体的な暴力を受けることは想定外だった。
「やっぱりケンカ慣れなんてしてねえか」
クリストバルは嘲笑を浮かべながら、次々と拳を叩き込む。
ドガッ! ゴッ! バギャッ!
手甲が生み出す一撃一撃は凄まじく、セクトリウスの仮面が亀裂を刻み、苦悶の悲鳴をあげる。
右手の形状が徐々に変化し、鋭い牙を持つ魔狼の顔が浮かび上がってきた。
ついには、魔狼がセクトリウスの顔面に咬みつき、そのまま離れなくなった。
セクトリウスは悲鳴を上げながら地面を転げ回る。
「ギャアアアアアアアアアアア!」
阿鼻叫喚が響き渡る中、クリストバルは肩を揺らして笑い出した。
「アハハハハハハハハハハ!」
腹を抱え、楽しそうに笑い続けるクリストバルの姿は、狂気そのものだった。
やがて笑いを収めると、冷たい眼差しで手甲を見下ろした。
「喰っていいぞ」
その一言に手甲が振動し、さらに深くセクトリウスに喰らいつく。
クリストバルは背後の惨劇を気にも留めず、霊界の門に向かって悠然と歩き出した。
☆☆☆
”皆殺しの籠手”がクリストバルの左手に装着され、指先には鋭い鉤爪が煌めく。
その異形の爪の上で、不気味な光を放つ呪剣を取り出した。
――不滅の刃。
魔人の魂を宿した剣は歓喜に満ちた叫び声を上げる。
――良い子だ! ヘストン! さあ、一緒に暴れようじゃないか! 永遠の狂乱をプレゼントしよう!
剣は持ち主を狂気に染め上げるべく叫び続けるが、クリストバルは意に介さない。
それどころか、呪われた籠手によって剣の洗脳の力を相殺している。
こんな狂気じみた方法で呪具を扱えるのは、クリストバルただ一人だろう。
クリストバルは、霊界の門に縋りつく巨大な指へと歩み寄る。
「さあ、遊ぼうか」
低く呟くと、不滅の刃が紫電を帯びて一閃する。
半霊のはずの大邪霊が激痛でのたうち回る。
紫電の刃は魂まで届き、返しの付いた刃は惨たらしい傷跡を残す。
大邪霊が指を引っ込めようとも、呪鎖の環で絡まった鎖はきつく締め付けている。
どれだけ暴れようとも、手は門から離れない。
霊が気絶することはない。当然、すでに死んでいるため、死ぬこともない。
恐怖の対象であるはずの邪霊が、もはや恐怖に怯えていた。
一本目の指が斬り落とされ、門の向こうから絶叫が響く。
「ハハハハハ! ケンカを売っておいて、泣いてやがる!」
クリストバルは、淡々と指を斬り落としていく。
やがて、すべての指を叩き落とすと、クリストバルは血塗れの戦衣を脱いで、手に取った。
その呪具はすでに邪悪な低級霊を際限なく吸い込んでおり、内側で渦を巻いている。
「パーティを楽しんでくれ!」
クリストバルは、血塗れの戦衣を霊界の門の中へと放り投げた。
門の奥から絶叫が上がる。
霊界から邪霊を現世に送り込むのは常だが、その逆、つまり現世から霊界に呪具を送り込むなど前代未聞である。
「軍人として、やられたらやり返すのが礼儀ってもんだろう?」
クリストバルは皮肉な笑みを浮かべる。
これぞ相互主義である。
血塗れの戦衣に詰め込まれた霊たちが霊界で暴れ回り始め、混沌が広がる様子が想像できる。
門の奥からは叫び声と共に、明らかに動揺した波動が伝わってきた。
次第に霊界の門が軋む音を立てながら閉じ始める。
その動きには恐怖と焦りが滲んでいた。
門の隙間から、すっかりキレイになった戦衣が戻ってきた。
溜め込んでいた邪霊を最大限まで凶暴化させて、残らず吐き出してきたのである。
「これで、しばらくは現世に悪さはせんだろう」
クリストバルは仁王立ちになって、門を見送る。
門が完全に閉ざされる瞬間、門の隙間から覗き込む邪霊たちは怯えきっていた。
霊界の門は降参を意味するように静かに消え去る。
現世に恐怖を持ち込むはずの霊界が、逆に自らの領域に混沌を持ち込まれる結果となったのだ。
クリストバル・ヘストンの完全勝利に疑いの余地はない。
☆☆☆
「もういいみたいだね」
梅鶴が呪いの鐘の音が止んだことを確認すると、彼女は軽く頷きながら中継を元に戻した。
「し、信じられない! あれ……霊界の門ですよね? 霊界側から閉じられるなんて!」
蜜羽は仰天してモニターを指差す。
「クリストバルが、相当怖かったんだろうな」
モニクは肩を竦めながらも、どこか呆れたように微笑んだ。
「普通、霊界の門を封じるときは現世が大きな犠牲を払うものなのですが……あの人、魔王か何かなんですか?」
蜜羽は珍しく動揺を隠せず、眉間にしわを寄せている。
「まあ、これで決まりだね。火魔法エリアダンジョン優勝者は……クリストバル・ヘストン! 皆さん、盛大な拍手を!」
モニクが高らかに宣言すると、会場は一瞬の静寂の後、歓声と拍手で満ちた。
役人や研究者たちもすっかり見入っていたようで、大いに盛り上がって手を叩いている。
「お付き合いいただいてありがとう。お嬢さん方」
そんな熱狂に手を振って、モニクは席を立ち、恭しく頭を下げた。
その動作には余裕と風格が漂っている。
「いえ、そんな……あの、どちらへ?」
梅鶴が驚きながら訊ねると、モニクは口元に笑みを浮かべたまま答えた。
「ちょっと、彼らの様子を見にね。あなた方はもう、お帰りいただいて結構だよ。誰か、お送りして!」
モニクは背後にいるスタッフに軽く指示を出す。
「では、ご機嫌よう」
そう言い残し、モニクは悠然とその場を後にした。
☆☆☆
オスカーが地魔法防御を解くと、ドーム型の結界がゆっくりと崩れ落ちていった。
その内側から姿を現したのは、潜入捜査班の三人だった。
全員、まるで魂を抜かれたように青ざめた顔をしており、イーヴォは完全にひっくり返っていた。
「じ、自分が戦ってるわけでもないのに……寿命が縮んだわ!」
ヘルカが涙目で叫ぶように訴える。
震える手で額の汗を拭き取りながら、彼女の言葉には切実な響きがあった。
一方で、パヌは腰を抜かしたまま動けず、ドームの中でへたり込んでいた。
何度も深呼吸を試みるが、胸の動悸が収まらない。
「さすがですね」
ひっくり返っていたイーヴォが、オスカーの肩を軽く叩いて笑顔を見せた。
「こんな恐ろしい戦闘を何度もご一緒されているなんて、本当にすごいです」
オスカーは短く息を吐き出したが、軽口で返す余裕はなかった。
「いや……ワシでも、このレベルはちょっと――」
膝を震わせながら、何とか立ち上がるものの、オスカーの足元は不安定だった。
カタカタと音を立てる両膝を隠すこともできず、それでも、なんとか平静を装うのが精一杯の抵抗であった。
☆☆☆
「やあ。お疲れさま」
柔らかな笑顔を湛えながら、モニクがゆっくりとクリストバルに近づいて来た。
その優雅な仕草は場の空気を一変させる。
「クリストバル師団長、大変な活躍だったね。君がこのエリアダンジョンの優勝者だ」
「いえ……お見苦しいものを――」
さっきまで狂乱した戦いを繰り広げていた男とは思えないほど落ち着いた声色で、クリストバルは答えた。
その態度には、既に戦闘の残滓を感じさせない熟練した冷静さがある。
「疲れただろう?」
モニクは懐から、赤い液体が満たされた小瓶を取り出した。
「これ、魔界のポーションだ。飲んでみて」
「いえ。私は――」
クリストバルは一瞬、言葉に詰まり躊躇した。
だが、モニクの柔らかくも押し付けがましい笑顔に抗いきれず、小瓶を手に取ると一気に飲み干した。
その瞬間、全身を覆っていた疲労感が霧散し、身体が驚くほど軽くなる。
「……これは?」
驚愕の表情を浮かべたクリストバルに、モニクは微笑を深めた。
「驚いただろう? 地上には存在しない魔石を使ったポーションだよ」
モニクの声は落ち着いていたが、その言葉には重要な秘密が秘められていた。
「特殊スキルを持って生まれた者が二十まで生きられる確率は、半分程度だ。その特性ゆえに、どんな回復アイテムも、魔法も、ほとんど受け付けない。大病や大怪我をすれば、それが命取りになる」
クリストバルは静かに頷いた。
「……その通りです。その恐怖ゆえに、道を踏み外す者も少なくない」
「――ところが、だ」
モニクの声が少しだけ力を増した。
「魔界では特殊スキルを持って生まれる者の割合が地上の三倍。それでも皆、健康に生きている」
クリストバルの眉がぴくりと動く。
「なんですって……?」
「水魔法や白魔法系統ではない回復手段。試してみてわかっただろ?」
「その魔石が我々を救うと――そういうことですか?」
「そうだ。もちろん、地上の人間との適合性を検証する必要はある。しかし、君の任務の重要性をわかっていただきたい」
クリストバルは深く息を吐いた。
「もしこれが認可されれば、どれだけの命が救われることか」
モニクは頷くと、クリストバルに一冊の地図と小袋を差し出した。
「魔界へ着いたらベルゼブル家の領地を目指してくれ。案内は現地の者がする。これは当座の資金だが、向こうからコンタクトを取る手筈になっている」
クリストバルは地図と小袋を受け取り、その場に直立し胸に手を当てて、毅然とした声で答えた。
「このクリストバル・ヘストン、この命に替えても任務を完遂させてみせる」
モニクの笑顔が満足げに広がる。
「ああ。期待しているよ」
☆☆☆
モニクは微笑みを浮かべつつ、クリストバルたち五人を労い、その後ろ姿を見送った。
彼らがエリアダンジョンの更に奥、高難度エリアへと向かうのを見届ける。
火魔法エリアダンジョンの高難度エリアは「火山訓練エリア」と呼称しているが、それは表向きの方便――真実を知る者は少ない。
モニクは軽く息をつきながら、静かに周囲に呼びかけた。
「さて……そろそろ出てきてもらおうか」
その声に応じるかのように、透明な檻のような結界の中から、妖艶な女が姿を現した。
黒髪が揺れ、深紅の瞳が不気味な輝きを放つ。
その存在感から漂う異様な気配に、ただの人間でないことは明白だった。
彼女は微笑みを浮かべつつ、一礼する。
「お初にお目にかかります。カサンドラ・ベルゼブルさま」
本名をいきなり呼ばれたモニクは、その言葉を受け流しつつ、油断なく女との間合いを詰める。
「よくクリストバルの目をすり抜けられたものだ。僕も危うく見逃すところだったよ」
女は小さく肩を竦め、冗談めいた口調で応じた。
「ご冗談を。魔界随一の武人であり、最強の騎士団“蠅の王”の総指揮官殿が、何を仰いますやら」
モニクの目が冷たく細められる。
「ほう……君も魔界人か? どこの者だね?」
女は微笑みを崩さず、軽く頭を下げた。
「閣下に名乗るほどの者ではございません。何卒、お見逃しを」
モニクはふと笑みを浮かべ、相手の余裕に少しばかりの興味を示した。
「別に尋問しているわけじゃない。ただ、あの凄惨な戦闘の後で、よくそんな涼しい顔をしていられるな、とね。不思議で仕方ない」
「恐怖で麻痺しているだけにございます。家に帰れば、きっとベッドに泣き崩れることでしょう」
モニクは嘲笑とも取れる笑みを浮かべたが、それ以上言葉を続けることはなかった。
次に目を女に戻した瞬間、彼女の姿が消えていた。
ほんの瞬きするほどの時間である。
――銀縄指令。
モニクが軽く指を鳴らすと、空気が微かに震えて、すぐに銀色の蠅が現れた。
まるで銀の光をまとった精霊のように、その蠅は素早く舞い上がり、主の指示を待っている。
「女を追え」
モニクの声が冷徹に響くと、銀の蠅は音もなく飛び立った。
ほんの一瞬で暗闇に溶け、残された魔力の痕跡を頼りに、女の足跡を追って跳ねるように飛んでいく。
その背を見送るモニクの目は、冷たくも鋭い光を宿していた。
「面倒なことにならなければいいんだがね……」
モニクは静かに呟き、その場を後にした。
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