103話 勇者招集 3
「ひでえな」
ルイスが低く呟いた声にはわずかな動揺が滲む。
「酷くない!」
シルビアが怒りを込めて言い返す。
「こっちは襲われそうになったんだから! それにしても、なんでいないのよ、あんた! 姉がピンチの時に!」
「ごめんごめん、悪かったって! こっちはこっちで面白――いや、大変だったんだよ!」
ルイスが弁解する間にも、異様な光景が視界の片隅で進行していた。
「おい。いいのかよ、アレ」
ルイスの指さす先、狂乱した四人の男たちが紫苑に群がり、装備を引き剥がしている。
動きは獣そのもので、正気を失った目つきのまま、彼らは紫苑の肌にさえ齧り付こうとしていた。
「いいのよ。それで後は大権威さまに――」
シルビアが言いかけたその瞬間、重々しい声が割り込んだ。
「なにが『イイ』のかしら?」
声の主に意識を向ける間もなく、視界の隅で変化が起こった。
四人の男たちが一斉に地面に崩れ落ちる。
最初はただ疲労で倒れたのかと思われたが、異常に気づくまでに時間はかからなかった。
男たちは倒れているのではない。死んでいた。
その姿は惨憺たるものだった。
頭部が吹き飛ばされている者、手足が引き千切られた者、内臓を撒き散らして倒れている者――
一瞬で何が起きたのかも理解できない惨状だった。
「みんな! 退いて! 距離を取って!!」
シルビアが鋭く叫ぶ。その声には焦燥が混じっている。
クラーケンホエールが触手を伸ばして、紫苑に襲いかかってきた。
セリナが操っているのだろう。
禁術階層レベル二十三の召喚大海獣である。
簡単にどうにかできる相手では――耳が痛い。
空気が圧縮されて、渦を巻く。
轟音がしたかと思うと、なにか巨大なものが頭の上を通り過ぎていった。
☆☆☆
クラーケンホエールが巨大な体を崩し、ゆっくりと海へ沈んでいく。
その光景に、甲板の誰もが声を失っていた。
音もなく、戦いも感じさせない圧倒的な破壊。
「そうそう、その顔が見たかったの」
紫苑の高笑いが静寂を切り裂く。
「勝利を確信してから、巻き返される気分はどう?」
彼女の声には、冷酷な歓喜が滲んでいた。
シルビアは崩れ落ちていくクラーケンホエールを凝視した。
胸の部分――心臓のあたりにぽっかりと空いた穴が見える。
「……空間魔法」
シルビアが小さく呟いたその瞬間、紫苑が反応した。
「見た目通り賢いのね、あなた。その通りよ」
紫苑の唇が不敵に歪む。
「これこそ、五大基礎魔法でもなければ、白黒の両極魔法でもない」
声を張り上げる彼女の顔には、誇らしげな表情が浮かぶ。
「それを越えた究極の魔法。真層階層の絶対者が行使する勝利の方程式。極大魔法のひとつ、空間魔法よ!」
彼女の笑い声が響き渡る中、その異常性に誰もが息を呑んだ。
「東の大国を三つ沈めた傾国の魔王。その遺物である愛欲の針……」
紫苑の足元から魔力の渦が立ち上り、その力が甲板全体を支配する。
「魔王の遺物はすべてをひっくり返す。あなたたちの敵う相手じゃなかったということね」
シルビアは紫苑の発するあまりの邪気に当てられ膝をついた。
優秀なシルビアの頭脳は、エリアボスが倒された瞬間、すでに答えを出していた。
この女に殺されるのだ――と。
☆☆☆
紫苑はシルビアにゆっくりと歩み寄る。
暁烏の忍者、ディエゴ、イサベル、アドリアナが彼女の前に立ち塞がった。
しかし、クラーケンホエールを一撃で崩壊させた魔法を目の当たりにした後では、彼らの行動も虚しいものに思えた。
――何人が駆けつけようと、あの魔法の前では防御にすらならない。
崩れ落ちるクラーケンホエールを背にした紫苑は、すでに圧倒的な存在感で場を支配していた。
空間を自由自在に削り取ってしまう魔法など、防ぎようがない。
一瞬で魔法も肉体も亜空間に吸い込まれているのか、なにかと入れ替えられているのか。
それとも存在そのものを消し去られているのか。
いずれにせよ、防ぐ術は何もない。
戦うどころか、勝ち筋すら見いだせない現実に、シルビアは騎士の娘としての誇りを守る死に方について考え始めていた。
一か八か、自爆でもしてやるのはどうか。
彼女は荒くなる呼吸を落ち着かせ、静かに意識を研ぎ澄ませた。
「必死過ぎて笑えるわ!」
紫苑の甲高い笑い声が甲板に響く。
彼女は指でシルビアを指差し、嘲笑い続ける。
「何、その顔! 滑稽過ぎてお腹が痛い!」
シルビアは返す言葉もなく、もはや死に方だけを見据えていた。
「それはダメだ」
ベルナルドの声が低く、力強く響く。
彼は紫苑の前に立ちはだかり、シルビアをその背に隠すように構えた。
「お前が死ぬのは許さない。ルイスを連れて逃げろ」
崩れゆく船の甲板の上で、紫苑の圧倒的な邪気を一身に受けて立っているのは、ベルナルドただ一人だった。
その背中は、絶望に飲み込まれかけていたシルビアの目には、不思議なほどに大きく、揺るぎないものに見えた。
☆☆☆
「邪魔」
紫苑はゴミでも見るような目つきでディエゴたちを睨むと、無造作に足を振り上げ、彼らを蹴り飛ばした。
身体が宙を舞い、甲板に叩きつけられた忍者三人は呻き声すら上げられず、その場に沈んだ。
水猿エイジャも力尽き、静かに消えていく。
甲板の上に立つ者は、もはやベルナルドただ一人だった。
紫苑を中心に渦巻く凄まじい魔力の圧力が、空気そのものを歪ませている。
ベルナルドの膝はかすかに震え、彼の足元に汗が滴る。
それでも、震える足を押さえつけるように力を込め、剣を構えた。
その瞳には恐怖が浮かんでいたが、ベルナルドの視線は決して逸れなかった。
「あらあら、どうしたの? 足が震えちゃって」
紫苑が挑発的に声を掛ける。
その声音は嘲りに満ち、隙すら感じさせない。
ベルナルドは薄く笑い、冷たい視線を返した。
「ちょっと匂うぜ、アンタ」
その一言が、紫苑の中で何かを切れさせる。
紫苑の掌が閃き、次の瞬間にはベルナルドの頬を激しく打ち抜いていた。
ただの平手打ちではない。
――風圧が甲板を裂き、ベルナルドの身体は紙きれのように横へ吹き飛ぶ。
激痛に耐えながら、彼は立ち上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。
頬から血が滴り、胸元から空気が漏れるようなかすれた息が漏れる。
「ひ、卑怯者! 自分の力で戦いなさいよ!」
シルビアが叫んだ。その声は震えていたが、せめてもの反撃だった。
紫苑はその言葉に振り返り、冷笑を浮かべた。
「やはり英雄の血脈というのは侮れないわねえ。この魔力空間で憎まれ口がきけるんだから――でも、それもこれで終わり」
彼女の掌に、再び空間魔法が凝縮されていく。
周囲の空間が歪み、魔力の波動が甲板を震わせた。
――その一撃が、シルビアに向けて解き放たれる。
反射的に目を閉じ、顔を背けたシルビアが見たのは、左腕を失いながらも前に立ちふさがるベルナルドだった。
「逃げろ……」
ベルナルドの左腕が、紫苑の放った空間魔法によって無惨に消し飛ばされた。
切り落とされたのではない。
空間そのものが抉り取られたかのように、彼の腕は完全に跡形もなく消失していた。
「お兄ちゃん!」
シルビアが叫び声を上げる。
その瞳には恐怖と絶望が浮かんでいた。
彼女の前でベルナルドがぐらつきながらも立ち続ける姿は、痛々しくも崇高だった。
紫苑は冷酷な微笑を浮かべ、再び掌を掲げた。
その掌に空間魔法が凝縮されていく。
空気が震え、甲板の上に見えない圧力が満ちていく。
「これで終わりよ」
紫苑の声には揺るぎない勝利の確信が込められていた。
――轟音。
耳をつんざく衝撃音が甲板全体を揺らし、破壊的な力が解き放たれる。
だが、その混乱の中で、シルビアが目を見開いて見たのは――
ベルナルドだった。
たった一本の腕とボロボロの身体、それでも彼は倒れることなく立ち続けていた。
その姿は、嵐の中で折れることのない古木のように、不屈の意志を宿していた。
ベルナルドの声は掠れ、彼の身体はもはや限界を超えていた。
だが、それでも彼は盾のようにシルビアを庇い続ける。
「格好いいわねえ」
紫苑が再び掌を掲げ、空間魔法を凝縮していく。
☆☆☆
死角から小さな影が疾走し、紫苑の脇腹を刺した――かに見えた。
「なんだ、こりゃ?」
短剣の刃は紫苑に届く直前で止まっていた。
見えない空間が歪み、刃先を捕らえている。
「来ると思っていたわ」
紫苑が冷ややかに微笑み、口元から何かを吹きつける。
「避けて!!」
咄嗟に盾を構えようとしたルイスを、シルビアの叫びが制した。
体を捻ってルイスは跳び退く。
次の瞬間、甲板に黒く歪んだ円形の穴が開き、その中が無へと消失していくのを見た。
ルイスは穴の縁を見下ろしながら、ごくりと唾を飲む。
「どうする、これ……」
兄の瀕死の姿が視界の端に映り、胸の焦燥が押し寄せる。
助けに行きたい衝動を、理性で必死に抑え込んでいた。
紫苑の策略が見えた――兄を瀕死にすることで、焦った者を誘い出して亜空間へ消し去る算段だ。
「完全に悪魔の思考だな……」
ルイスは心の中で唾棄するように呟いた。
「もう止めて!」
シルビアが、瀕死のベルナルドを抱きしめたまま、紫苑に懇願する。
「相手はまだ子供じゃない!」
忍者の誰かが叫ぶ。
「知るか!」
紫苑の怒声が場を支配した。
「これは“躾”よ!」
彼女の拳が握り締められ、魔力を帯びたそれが高々と振り上げられる。
殺意が渦巻く一撃がルイスに迫る。
それでもルイスは目を閉じなかった。
まっすぐ紫苑を見据えたまま、全身を緊張させていた。
「一撃だ……どうせ死ぬなら――刺し違えてやる!」
決意がその瞳に宿る。
魔眼が鋭く光り、ルイスは紫苑の一撃の軌道を捉え、全神経を集中させた。
次の瞬間、運命が交錯した。
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