100話 海獣リゾートへようこそ! 10
甲板に降り立つと、濃い霧の中に漂う潮と木材の腐敗臭が鼻を突いた。
足元の床板は湿っており、船の至るところから不気味な軋みが聞こえる。
周囲には淡い緑色に光る海賊ゾンビたちが、こちらをじっと見つめていた。
ベルナルドは腰から、ルイスが父の書斎から持ち出してきた短剣を抜く。
その刃先は透明で、まるで水晶で作られているようだった。
ベルナルドが、海賊ゾンビたちに短剣を振ると、風魔法の刃が短剣から飛び出した。
まるで見えない刃が空を斬り裂いたような感覚。
ゾンビたちの列に突き刺さり、五体が同時に斬り裂かれて崩れ落ちた。
「うわ! 凄いぞ! これ!」
ベルナルドが興奮した声を上げる。
「けど、僕は魔法使いってわけでもないからな。魔力が尽きるのはまずい。ここぞという時にだけ使おう」
ベルナルドは短剣を握り直しながら呟き、一息つく。
膝を軽く曲げ、その場でトントンと跳ねる。
「本来の戦い方でいく――」
その声に続いて、静かに呪文のような言葉を紡ぐ。
――部分強化 脹ら脛二倍、広背筋二倍。
瞬間、ベルナルドの体が緊張し、筋肉が鋼のように引き締まる。
次の瞬間、風を切るようなスピードで海賊ゾンビの群れに飛び込んで行く。
それはあまりに速く、ベルナルドが蹴った甲板が裂け、破裂音が後ろから響いた。
「速え!!」
ルイスが驚きの声を上げる。
海賊ゾンビたちが気付く暇もなく、ベルナルドは鋭い一閃を繰り出す。
その身軽さと力強さに、ゾンビたちはあっけなく吹き飛ばされた。
甲板には次々と崩れ落ちるゾンビの残骸が転がる。
「僕が本気で戦う姿を見るのは初めてか」
ベルナルドが振り返り、少しだけ笑みを浮かべた。
背後には、無数のゾンビたちがまだ蠢いている。
「うええ?! 兄貴、強ええ! マジか?!」
ルイスが目を丸くして叫ぶ。
「これでも近衛騎士団の五番隊、隊長だぞ」
ベルナルドは胸を張るように短剣を振り直し、ゾンビの群れを睨む。
「親の七光りだって言われないように、日々の鍛錬は欠かしたことはないんだ。大切なのは地道な努力で――聞いてるのか?」
その視線の先で、ルイスはゾンビの倒れた体をゴソゴソと弄り回していた。
衣服の内側や装飾を探りながら、宝石や魔具の類を見つけようとしている。
「ああ。聞いてる。聞いてる」
ルイスは返事をしながらも手を止めることはない。
「でも、兄貴、親父みたいに全身強化魔法しないんだな」
ベルナルドは一瞬目を細め、深く息を吐いた。
「……あのなあ。あれは父上だからできるんだ」
短剣を鞘に収めながら、ルイスに向き直る。
「自重の数倍の負荷が全身にかかるんだぞ? 筋繊維がどれだけ耐えられるか、骨が折れないか、その上で魔力の消耗も尋常じゃない」
ルイスは兄の真剣な眼差しに、ゴクリと喉を鳴らした。
「全身強化なんて、鍛えた剣士でも耐えられる人間はほとんどいない。あの人は超人だよ。お前もこれから本格的に鍛えるつもりなら、一足飛びに強くなるなんて考えるなよ。無茶すれば、大ケガするだけだからな」
「お! 船倉の鍵見っけ!!」
ルイスは海賊ゾンビのベルトから鍵の束を抜き取った。
その時、シルビアがベルナルドの横から顔を覗かせた。
「ねえ、お兄ちゃん。あの海賊たちが持ってた剣の方が、その短剣より良いんじゃない? その短剣、魔剣でしょ? 使い続けたら、すぐに魔力切れになるわよ」
ベルナルドはシルビアの指差す先を見た。
海賊ゾンビの倒れた体のそばには、大ぶりな片手剣が転がっている。
その刃は光を吸い込むように鈍く輝いていた。
「どれ――」
ベルナルドは剣を拾い上げると、感触を確かめるように軽く振ってみた。
「ああ、確かにいい感じだな。片手剣の中では重みもあるし、斬るにはこれくらいのバランスがいい」
「でも兄貴、呪いの剣とかだったらどうすんだよ?」
ルイスが心配そうに訊ねる。
「そうだったらその時、考えるさ」
ベルナルドは肩を竦めた。
「んじゃ、俺は船の宝物庫でも探してくるぜ!」
ルイスがゾンビの山を乗り越えながら走り出したのを見て、ベルナルドとシルビアは顔を見合わせ、ため息をついた。
「まったく、あいつは」
「でも宝物を見つけてくれたら助かるかもよ?」
シルビアが肩をすくめる。
ベルナルドは片手剣を握り直し、甲板の奥に目を向けた。
「さて、次はどう来るかだな」
☆☆☆
ベルナルドとシルビアが海賊船長を睨みつけ、甲板の中央で緊張が張り詰めていた。
海賊船長は薄ら笑いを浮かべながら剣を片手に肩に担ぎ、全く動じる気配を見せない。
そのとき、不意に背後から軽やかな声が響いた。
「あら? 偶然だこと。」
振り返ると、紫苑・カリーナが悠々と歩いてくる姿が目に入る。
紫苑は相変わらず余裕たっぷりの微笑みを浮かべていた。
「なに嘘ついてんの?」
シルビアが即座に声を荒げた。
「あんたたち、どうせ海底神殿の奥まで行ったけど、何もなくて引き返して来ただけでしょ?」
紫苑は口元を覆って軽く笑った。
「まあ、結果としてここで再会できたのだから、それでいいじゃない?」
「また共闘とか言うつもりじゃないでしょうね?」
シルビアの鋭い言葉に、紫苑は首を傾げた。
「では、今回は競争にしましょう」
紫苑が答えると、シルビアは頷いた。
「早い者勝ちってことでいいわね?」
紫苑は少し嬉しそうに目を細めて頷いた。
「ええ。では、勝者がすべてを手にする――ということで」
シルビアもすぐに身構え、ベルナルドが海賊ゾンビから奪った剣を握り直す。
「共闘でも競争でも好きにしろ。どのみち、俺たちはここを突破するだけだ」
ベルナルドの言葉に紫苑はくすりと笑い、視線を海賊船長に向けた。
「それなら見せてもらうわ。あなたたちの本気を」
甲板の上で緊張が一気に高まった。
海賊ゾンビたちが唸り声を上げ、船長が剣を掲げて不気味な笑みを浮かべる。
戦いはもう避けられない。
☆☆☆
船倉に飛び込んだ瞬間、ルイスは冷たい湿気と腐臭の混ざり合った空気に顔をしかめた。
暗がりの中、薄ぼんやりとした緑色の光が浮かび上がり、無数の海賊ゾンビがぎっしりと並んでいるのが見える。
低いうなり声とともに、一斉にルイスへ視線を向けてきた。
「こいつは……戻るべきか?」
後ろを振り返りかけたルイスだったが、首元のネックレスがふと熱を帯び、知性のある声が頭に響いた。
――戻る? ナンセンスですね。白魔法は攻防にバランスが良いと教えたでしょ。極めれば、攻撃しながら防御や回復までできますよ。
「え? マジで? それって万能魔法ってことじゃね?」
ルイスは驚きと興奮を隠せない。
――使い手次第ですよ。普通は攻守どちらかに特化するものですが、あなたは成長過程ですからね。両方こなす訓練をしておきなさい。古式剣術と組み合わせれば、長期戦になっても怖くありません。
「へへっ、楽しすぎるぞ、先生。魔眼もあるし、俺、無敵になっちゃうかもよ??」
――そういうのは無敵になってから言いなさい。今は古式剣術に慣れることが課題です。
「了解! 先生、引き続きよろしくお願いしまーす!」
ルイスは小型の盾を左腕に固定し、右手には父の書斎から持ち出した短剣を構える。
脇を締め、半身で敵を迎え撃つように身を沈めた。
魔力切れにならないように、薄い基礎魔法を短剣に循環させていく。
古式剣術の基本的な構えが完成した。
集中すると、魔眼が最適のルートを教えてくれるようである。
「この順番で斬って行けってことか」
ルイスは目の前の海賊ゾンビの群れに向かって踏み出した。
盾で構えながら、魔法の感覚を研ぎ澄ませる。
――ここがあなたの腕の見せ所ですよ。焦らず、まずは一体ずつ対処しなさい。
「おう!」
ゾンビたちが一斉に唸り声を上げ、ゆっくりと歩を進めてくる。
ルイスはその動きを追いながら、冷静に間合いを測っていた。
先頭の海賊ゾンビが唸りながら、剣を振り上げて向かって来た。
盾で海賊ゾンビの剣を振り払い、短剣で脇と首を凪ぐ。
魔眼が煌めき、ルイスは一歩踏み出し、獅子の如く吠えた。
☆☆☆
どうしても気になることがある。
黄色いチーロを倒した際の、この女の、あの魔法。
火魔法防御において必要となる”魔力感知”能力は、一朝一夕で取得可能なものではない。
不断の努力でしか身につかない。
シルビアは魔力感知には自信を持っていたし、首都大学受験の際にも満点に近かった。
その感知能力が、この女の尋常ではない魔力を判別できなかった。
あり得ない。
五大基礎魔法でも、白でも、黒でもない。
人間の使う魔法とは思えなかった。
人智の及ばぬ、禁術階層……いや、もっと深淵の――
「シルビア!」
ベルナルドの声に反応して、シルビアは海賊船長の破壊光線を避けた。
海賊船長が、水魔法を口から吐き出したのか。
海賊船長の顔が光った瞬間にシルビアの背後で爆発が起きた。
当たればタダでは済まない。
「なに、ボンヤリしてるんだ!」
「ご、ごめんなさい」
この女のことを、ベルナルドに言うべきか?
兄のことだから、直接、問い詰めるかもしれない。
ルイスの言っていた通り、この女の取り巻きを見れば堅気ではないことは明らかである。
それでも、ベルナルドは気にもとめずに問い詰めるに決まっている。
正しいと思うことに躊躇などしない。
騎士とは、そういう生き物なのだ。
ダメだ。
どうしよう。
問い詰めて、いざとなれば、女は正体不明の魔法で襲いかかってくるだろう。
わかっているのはひとつだけ。
この女の魔法が、とてつもなく危険だということのみ。
あの時、感じたことを誰かに報告すべきであろうか。
この女は魔物かもしれない、と。
☆☆☆
――聞こえますか? シルビア・カザーロンさん。
急に通信魔具から声がした。
「え? セリナ大――」
――お静かに。応答はくれぐれも小声で。
「は、はい。すいません」
――さきほど、間近で見ていて、目の前の女性がなにをしたかシルビアさんはわかりましたか?
「あ! それ! いいえ。なんの魔法か私にはわかりませんでした」
シルビアは安心感で涙が出そうになった。
違和感を感じた人が、他にもいたという安堵は言葉では言い表せない。
――おそらく、彼女が使ったのは真層魔法。魔法学科の学生なら知っていますね?
そう訊いて、シルビアはすぐに絶望した。
人間ではないと感じたのは間違いではなかった。
「ま、待って下さい。それって……魔王の――」
――急いで調べた限りだと、その女性は裏ギルドの関係者です。それも幹部クラスの。
裏ギルド。
噂では聞いたことがある。
その組織を通じて募集する“裏クエスト”は、昨今、世間で大問題になっている。
緩やかな結びつきで離合集散を繰り返す犯罪集団。
その、取り纏めを担っている非合法ギルドの総称が”裏ギルド”であった。
――どうか、落ち着いてください。今から私が知る限りの最高戦力を招集します。彼が来るまでの監視をお願いしたいと思いまして。
「最高戦力? 雷魔法の――」
――いいえ。あの方だと全員が黒焦げです。我が国のもう一人の勇者を招集しました。
「もう一人って……」
――現在、最も優れた魔王の遺物の所有者にして、サムライという戦士です。どうか名前は言わないで。
――大丈夫。私たちは必ず国家の脅威を排除します。ご兄弟の性格を観察した限り、秘密裏に勝負を引き延ばせるのは、あなたしかいません。私の判断は間違っていますか?
「いいえ。間違ってはいません。あの二人に連絡は不要です」
シルビアはきっぱりと言い切った。
――それに、あなたの上級魔法を見る限り、禁術階層の勉強もしていますね?
「そ、それは……」
――攻めているわけではありません。私だって学生時代は、隠れて禁術階層の勉強は隠れてしていました。どの時代でも探究心は殺せません。大丈夫ですよ。私とあなたの秘密にしましょ。
「先生――私……」
――水魔法大権威の名において、シルビア・カザーロンの禁術魔法を開放します。あなたには退く権利もありますが、どうしますか?
「先生。私は将軍の娘です。そんな選択肢は放棄します」
シルビアの瞳から恐れの色がなくなっていく。
――では、シルビア・カザーロンに命じます。その力の全てを持って、裏ギルド幹部の捕縛に尽力しなさい。
「謹んでお受け致します」
シルビアは背筋を伸ばして、女を見た。
そこには兄に甘え、弟とじゃれ合う小娘の姿はなくなっている。
一人の戦士が立っていた。
お読みいただきありがとうございました。
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