夢だけ見てる
朝日が昇りはじめてまだ間もない時刻、少し肌寒さを感じながら足の痛みを庇う様に小畔川の土手沿いサイクリングロードをゆっくりとした足取りで、丈春は歩を進めた。
時折吹く風が手足の痛みをほんの少し和らげてくれる。
病休に入り2か月が過ぎていた。
最近では手足の痛みの他に痒みもでて、いつも身体の変調に悩まされ続けている。
コロナ感染が拡大を続ける、昨年8月に一抹の不安を感じながら、近所の集団接種会場で、ワクチンを打ってから長期間に渡り副反応に悩まされていた。
最初は接種してから一週間後に左腕の痛みが症状として現われた。付け根辺りが引き裂かれるような痛みに襲われ、病院に行ったが少し筋肉が炎症をおこしているだけと医師からは診断された。
丈春の仕事は学校用務員であった。主な仕事は敷地内の植木の剪定など環境整備、簡易な修繕、廃棄物の解体処理であった。体を動かすことが仕事のほとんどで刈り払い機などを使用する除草作業などがほとんどできない状態になった。
学校という場所は桜の木が多く、落ち葉などもすぐに溜まる。
左腕を使うと痛むので片手で箒を使い、自然と寄り添うように掃き掃除をした。生命にしがみついた枯葉達もいつか大地に落ちていく。
慈悲を均等に振り分けるようにそれらの落ち葉を丁寧に集めていた。
必要以上に時間がかかり、悪循環で右腕も痛くなってくる。また無理な態勢で作業をしたせいで腰や背中も痛める事になった。
校庭内は体育祭が近くに開催されることもあり、雑草なども綺麗にしなければならなかったが、中々出来ずにいた。性格の悪い教務主任の中田は、廊下ですれ違いざまに心無いことを言い放つ。
「週末はひどく疲れていたが家の庭刈払機かけたよ。新しいチップソーまだ余っているから学校にもってこようか」などと、遠回しに業務がおろそかになっていることを他の先生や職員のいないところで非難する。
一度や二度くらいなら気にしないが日常的に
繰り返し言われていた。
それに加えて、丈春の学校には市の事務員と県費事務員の二人がいたが、あからさまに無視をされたり、書類を渡してくれないなどいつも酷い扱いをされていた。
丈春は繊細で責任感の強い性格なので体だけでなく心も酷く傷つき、心療内科にも通う羽目になった。
それでも年末位になり、すこしずつ体の方も回復していった。2月の終わり位になり来年度は異動も出来そうだった事もあり、心も体も季節が暖かくなるにつれ一時的に良くなっていった。
2月に入りコロナ感染者も日を追うごとに増加していた。職場や周囲の同調圧力もあり、自律神経のバランスを崩していただけかもしれないと丈春は自分を納得させ2度目のワクチン接種を決意した。
一度目はモデルナ製だったので、リスクヘッジを考え2回目はファイザー製に変えるなど慎重な選択を加えワクチン接種に挑んだ。
しかしこの2度目のワクチン接種、この選択が運命を変える事となった。
再び前回同様接種一週間後に副反応が出た。今回は腕の痛みはほとんどなかったが、両手に痛みが現われた。手の指、手の甲全体的に痛くしびれが酷かった。
それに加え左手の小指は変形していた。
慌てて病院に駆け込み、血液検査やレントゲンを撮ってもらう事となった。
当初リュウマチの可能性を示唆された。
丈春は2度目の副反応が出た事に加え、リュウマチという言葉を聞き検査結果がはっきりわかるまで恐怖と失意の中を彷徨う時間となった。一週間後重い足取りを奮い立たせ、病院を訪れた。六十代位の細長い瞳をした担当医の口がゆっくりと開く。
「落ち着いて聞いてください、やはり」
丈春は医師が話し終える前に質問する
「やっぱりリュウマチだったのですか」
「いいえ安心してください、リュウマチではなく、へバーデン結節です。あとレントゲン確認する限り炎症が見られますね。とくに右手中指と小指の炎症が目立ちます」
「そうだったんですか、ところで、へバーデン結節とはどのような症状なのですか」
「第一関節の軟骨がすり減り、指の角度が変わり曲がってしまう症状です。原因はホルモンバランスの異常や手を使いすぎると起こると言われていますが、はっきりした原因はわっかっていないのが現状です」
「何か治療法はあるのですか」
医師からそう告げられ、丈春は不安げな表情を浮かべながら医師へ質問する。
「テーピングで固定するくらいで後は安静にしてください」
「曲がった指はもどるのですか」
「基本的にもどりません。よっぽど変形した場合は手術もありますが、とりあえず今の状況なら様子をみましょう。痛み止めの薬をだしときます」
戻りませんと言われ丈春はショックを隠し切れないまま病院を後にした。
その後4月になり、職場の学校も異動となった。新しい環境では事務室や管理職との人間関係は良好となったが、体の方がついていかず、精神的にも悩み病休となった。
以前から通っていた心療内科で中度のうつ症状という診断が下され3か月間の病休となった。
丈春はその後、鬱々とした状態の中で一人静養の日々を重ねているうちに社会からはじき出された思いを抱くようになり、夏休みの始まる前に職場を退職した。
今までは数軒を動かす程度で片手間にしていた不動産投資を本業にする道を選ぶ事にしのだった。
退職前に銀行融資で一軒自宅付近の8部屋あるアパート物件購入した。
東武東上線の霞が関駅から徒歩十分の立地だった。自宅から近かった事と、駅周辺には大学もあり学生入居者の需要を見込めると思い購入を決断した。
間取りは1DKでロフトのあるタイプだった。
格安であったが部屋は2部屋しか埋まっておらず、室内は汚れていてリフォームとハウスクリーニングが必要だった。
丈春は空室が目立ち、リフォームが必要な物件をいつも敢えて選んだ。理由は明確で、割安なのと室内が確認できる事からだ。満室アパートやオーナーチェンジ物件はその手間暇分だけ手数料が価格に反映されてしまうので割高になる。
あと空室時の室内の様子をいくら写真で確認しても実際に自分が想像していた雰囲気と大分違う事も多々あり、そういった誤算を防ぐためでもある。
早く売るために写真ではどの仲介業者もよく見せようとする事を丈春は折込済みだった。
購入後、しばらくするとアパートの入居者の一人が家賃の滞納をするようになった。
最近では保証会社が間に入り、滞納があった場合でも保証会社が家賃を振り込んでくれるシステムが多いが、この物件の入居者は保証会社に加入しておらず大家が賃料の回収に挑まなくてはならなかった。
重い足取りで、滞納者の所へ足を運ぶこととなった。
丈春はアパートへ向かう途中、何故自分はいつもこんな苦労を重ねなければならないのかつくづく考える。
滞納者の扉の前に立ち、一度深呼吸をしてから呼び鈴を押す。呼び鈴は壊れているのか反応がない。呼び鈴も修繕しないといけないと考えつつ、ドアを3度ほどノックした。
しばらくすると、扉がゆっくり開き昼過ぎだというのに眠たげな表情で入居者が姿を現した。40代半ば位の割と整った顔立ちの女性であった。
「なに」と露骨に不機嫌さを隠さずぶっきらぼうに言い放った。
「こちらの物件の大家で、滞納されている家賃の事で本日はお伺いしました」
「突然こられても、払えないわよ」
「何度か電話連絡させていただきましたが、電話がつながらなかったもので」
「電話止められているのよ、そんな状態」
と逆切れ同然の返答だった。
丈春はそんな露骨な態度に怒りを抑えられず、入居者を直視した一瞬遠い昔の映像が頭に思い描かれた。
それは丈春が高校時代に夢中になり幾度となく繰り返し見た青春ドラマのヒロインの表情だった。
丈春は思わず尋ねていた。
「あなたはもしかして昔、七十年代の高校生の青春ドラマに出演されていた、川中みゆきさんではないですか」
その問いかけに少し動揺した表情を見せた後で違うわよ!と怒鳴られ、一方的に勢いよく扉を閉められた。
しばらく呆然と立ち尽くした後、何度かノックしたが完璧に無視された。
仕方なく丈春はその日はアパートを跡にした。
収穫なしで、来た時よりも更に重い足取りで夕暮れの細い路地を歩き家路を目指した。
もう一度、アパートの入所者と昔みたドラマのヒロインを頭の中で重ねた。
やっぱりそうだ。こんな風に夕焼けが眩しい道を同級生の主人公に別れを告げた後、一瞬はにかんだ笑顔を見せて、自転車に乗り颯爽と走り去っていくのだった。ドラマの最後は卒業式の終わった後の別れの場面であった。
「間違いない」丈春は夕暮れの帰り道、大きな声で一人つぶやいた。
心が過去の記憶と共に揺り戻されるような感覚があった。
丈春自身は偏差値も低い、ド田舎の高校に通っていた。部活とかやりたいこともなく、ただぼんやりと緩い風が通りすぎていくような青春時代だった。同級生と何度かデート位はしたが特にドラマティックな展開になったという思い出も何一つなかった。
退屈な日々の中で、七十年代の学生運動、他校の生徒と女子を奪い合う喧嘩や教師と生徒の恋愛、そんな風に色んな事に悩み傷ついて成長していく物語は刺激的だった。同じ高校生が活躍する青春ドラマの登場人物に丈春はいつしか自分を重ね合わせるように夢中になって繰り返し観ていた。
特にヒロインの川中みゆきは当時、丈春にとって信じられないくらい輝いて見えた。
丈春は考えた。四半世紀前も今も相変わらず自分には何もない。今はあの頃よりも体も心もすっかり年老いて、おまけにワクチン後遺症に悩まされ、手足も不自由で歩くのもやっとの状態だ。つまらなく、ついてない人生だとつくづく感じる。
パートナーにも恵まれず未だに独身だ。
船橋に住む家族とも疎遠になって心の拠り所がどこにもない。
考え出すといくつもの不満がまた新たな不満へと派生していく。
あの子は今も女優業をしているのだろうか。
何故こんな地方都市である川越のアパートに住んでいるのだろうか。家賃も払えないほど生活は困窮しているのだろうか。いろんな事が頭を駆け巡る。
あくる日もう一度、昼下がり滞納者のアパートの扉を叩いた。
しばらくすると扉が開かれた。川中みゆきと思われる入居者にリビングに案内された。
まだ明るい時間だったが、酒を飲んでいる様子で、顔がほんのり赤くなっていた。
彼女は引き出しから、長方形の赤い箱をとりだした。中には女性用の時計が入っていた。
「チュードルのオイスタープリンスデイト。純正のジュビリーブレスでギャンランティもついているから滞納分の家賃位にはなると思うわよ」といい彼女は丈春に滞納家賃の代わりに差し出した。
「チュードルって知らないけど、そんなに高価な時計なのでしょうか」
「チュードルは、ロレックスの兄弟ブランドよ。昔はロレックスの部品を使っていたのよ」
と彼女は時計のリューズ、ブレスのバックル部分などを見せて、ロレックスの王冠マークついているでしょと説明した。裏蓋にはロレックスの刻印も確かに入っていた。
チュードルはロレックスのディフュージョンブランドとして誕生したものだ。ロレックスを身近に知ってもらう為に、知名度の向上や販売拡大の為に作られたロレックスの廉価ブランドになる。そうはいっても高級時計には変わりなく、装飾なども豪華だったりする。文字盤にはバラがデザインされている。これはイギリスの名門チューダー家の家紋をアレンジしたものだ。時計に詳しくない丈春からみても高級感が漂う。ジュビリーブレスは中央の部分は18金無垢になっていて装飾品としてみてもとても煌びやかにみえた。
「だけど本物かどうかわからないじゃないか
最近は保証書なんかも偽装のものが多く出回ってると聞くよ」
「これは私が初めて映画賞を受賞した記念に映画関係者から贈られた時計なのよ」
「やっぱり君は川中みゆきなんだね」
彼女はそれには答えず、リビングへ丈春を座らせた。
リビングのテーブルには、大きな紙パックの赤ワインが無造作に置いてある。その紙パックのワインには蛇口がついていて、押すとワインが出る仕組みになっていた。
丈春がだまっていると、紙コップにワインを注ぎ差し出してきた。
「家賃の取り立てに来て、ワイン差しだされたのは、はじめてだよ」丈春は少し動揺しながら答えた。
「私もよ。家賃の催促に来た大家にワインだしたの」と入居者はほろ酔い気分でおどけた様子で答える。
丈春はこの状況に悪い気はしなかった。それは今までの退屈な日常とは少し違っていたからだ。家賃の催促に来て、昔夢中になってみていたドラマのヒロインに紙パックの安い酒とはいえ、赤ワインを不意に差し出される。
明らかに非日常的な体験だ。しかもこれは仮想世界とかメタバースの世界ではなく確実に現実の出来事だ。
赤ワインを何杯か二人で飲み交わした。
他愛のない雑談を続けて打ち解けてくると、彼女は人生の光と影がまるで変りばんこに響き合うような声で静かに語り始めた。
私は「遠い世界」を旅していたの。
鹿児島の田舎町に生まれて、少しだけ他の子よりも綺麗で、モデルの仕事とかするうちにいつの間にか大手の事務所にスカウトされていた。それから東京に出てきて芝居の仕事するようになり、あっという間に売れっ子女優の階段を駆け上っていった。
「おれは高校生の頃、君のドラマを何度も見てたよ」
「その頃、わたしは月二百万円位稼いでいた」
彼女は遠い昔を悔やむように語り続けた。
いつの間にか調子に乗っていたのね。仕事も選ぶようになり、どんどん傲慢になっていって、いつの間にか周囲から距離を置かれるようになった。仕事も少しずつ減って、友人から頼まれた、ほとんど理解できない契約書にサインしていた。それは連帯保証の契約書だった。多額の借金も背負われて、返済する為に最後は映画でヌードにもなったわ。心身ともにボロボロになって芸能界も引退したってわけよ。彼女は防波堤が壊れて溢れ出る洪水のように底なしの絶望や過去の事を吐き出していた。
若くして栄光をつかんだけれど、その場所に長く留まる事は許してはくれなかった・
気付いたらこんな年齢になってこん暮らしになってた。人生は自分が思っているより遥かに短いものね。あなたも青春時代が通り過ぎた頃、私の事も忘れていたんでしょう。
「君には輝かしい時代があっただけいいじゃないか。」
そんな経験出来る人は世の中でそれほど多くはいないと丈春は彼女に諭すように慰めた。俺の人生なんてほんとに最初から今まで、うだつが上がらないし、誰に注目されるわけでもなく、ずっと深い海の底を通過する潜水艇みたいだよ。きっとこれからもずっと潜水生活を続けていくんだよ。
「いいわよ。滞納している家賃替わりに思い出をつくってあげる」
彼女はドラマのワンシーンのように潤んだ目で、丈春の手をそっと握る。
若さに頼る瑞々しい魅力ではなかったが、歳月の味方につけた妖艶な美しさがあった。
膨大な時間は男女の関係に必ずしも必要なものではない。むしろ短く区切られた濃密な時間が愛を創り出すのではないかと丈春はいつも男女の世界を想像していた。
そのぬくもりのある彼女の手を、心の揺らめきを差し出すように握り返そうとしたが一瞬動きを止めた。
もしここで彼女と性の取引に応じれば一瞬の快楽は得られるだろう。冷え切った退屈な潜水生活に灯火がつき快楽の泉を沸騰させることができる。
ただ、あの高校時代に夢中になって観た、輝いていた川中みゆきは永遠に失われてしまう気がした。快楽を辿ると希望の行き止まりに突き当たる。思春期から大人になるほんの束の間の季節は彼女を通して感じる事ができた。
本当にあの季節が自分の中で幻のように跡形もなくきえてしまうと感じた。
丈春は彼女の手を擦り抜け、リビングに置いてある本棚に手を伸ばした。
「連合赤軍私史」という本を手に取った。
君は傲慢になっていったとさっき話していたけれど本当はきちんと自分の意志をもって仕事を選んできたんじゃないのか。この本は自分も高校を卒業してから読んだ。君はあの輝いていた70年代のドラマのあと、浅間山荘事件の映画に出演していただろう。実話をもとにした学生運動の活動家の話だ。
君の事は青春が通り過ぎた後もすぐに忘れたわけじゃない。君の作品は社会人になってからも観ていたんだ。この本棚に並んでいる書籍は、君の出演した映画に関わる本や資料じゃないか。単に台本を暗記して、セリフを覚えて、演じるだけじゃない。きちんとその物語の意図、登場人物、時代背景、作品に関わるあらゆる事を吸収して役を演じきっていたんだろう。君の事はスクリーンの中でしかしらなかったけれどそういう事が、映画を通して自分には伝わっていた。あの浅間山荘の作品を観てから、既に社会人なっていたけれど学生運動とか、マルクスや共産主義についても興味を持ち勉強するようになった。サリンジャーやボーヴォワールを読むようになり、次第にヘミングウェイやフィッツジエラルドなどのロストジェネレーションのアメリカ文学にも触れるようになった。そしてボブ・ディランとかジョンバエズ、ジョニー・ミッチェルの曲を彼女の作品をきっかけに聴くようになった。
それらの小説や音楽を聴くと社会の中で削り取られていった魂や人生の傷を修復し再生してくれるような気がした。
「随分と私の作品を追いかけてくれていたのね」彼女は嬉しさと寂しさが入り混じった表情でつぶやいた。
「そうさ、70年代の青春ドラマを観た時から君の作品の虜になっていた」
丈春は彼女と話しているうちに、徐々に当時の事、過去の事が蘇ってくる。あの70年代の青春ドラマに特別感情移入したのは、登場人物の名前が自分と関わりの強い人と一緒だったからでもあった。
「自分の中学時代の初恋の同級生の名前は、みどりっていうんだ」
「主人公が好意をもっていた女の子の名前ね」
「そうそう、そして自分の母親の名前は恵子っていうんだ」
「私が演じた役名だわ、本当によく観てくれてたのね」
彼女はびっくりした様子で答える。ドラマの中では主にあだ名で呼ばれていたからだ。
ドラマのワンシーンで、担任教師とのスキャンダルで校内新聞の記事になる場面で名前は出るだけだった。丈春は2度目に観た時に気付いた。担任の教師と逢瀬の場面で、彼女の凛とした、真っすぐで清潔な眼差しが丈春の心には人生の中で長い間響き続けていた。
「ドラマの中では仲間のリーダーが彼女に恋をする。それを作文の得意な主人公がリーダーの代わりとなり代筆で文通のやりとりを始める。」
「確かリーダーは最後、社会主義の祖国に帰るのよね」
「そう、彼女を守れる強い男になるだっていってね。おれの母親が好きだった「キューポラのある街」って映画の最後となんとなく重なるんだ」
「あの映画でも、理想の国に行くって言ってヒロインの友達が社会主義の国に帰って行くのよね」
「今観るとあの頃より、もっと深い意味をもって寂しい気持ちなる」
「社会情勢がずっと変化しているものね。ただ名作って不思議な生命力があると思う。何十年も昔の作品についてこんな風に語りあえたり、考える事があるんだから」
二人は物語の結末を想起するように、しみじめとした気分になっていた。
「君の作品を観てから、色んな事に興味をもって自分でも学生運動とかの小説を書くようになったんだ」
届かない引き出しにしまい忘れた荷物を引っ張りだすように彼女に自分の人生を語った。
他に十代の頃影響受けたのは野沢尚、浜田省吾だった。社会主義革命を起こしたくて、建設業関係の労働組合の専従書記になったが、革命なんか起せないと気付き挫折した。二十代で社会主義者でなければ情熱が足りない、でも三十や四十歳になっても同じ考えじゃ駄目だ。大人にならないと。そう自分自身に言いきかせ、社会と折り合いをつける為、労組の専従書記を辞めて学校用務員に転職した。学校用務員は丈春にとって決められた時間に職場に行き雑用を毎日ひたすらこなすだけの仕事になっていた。そんな風に次から次へと自分でも忘れていた事が沢山あふれて夢中で話していた。
話しているうちに昔の情熱がわきでてくるようだった。人生の中で何かが沸騰し始めていた。高校卒業してから四半世紀、失う事ばかりの人生だったけど、もう一度小説を書いてみたくなった。
「もう一度小説を書いて、新人賞に応募してみようと思う」
「頑張りなさいよ」
「賞をとって映画化されたら、出演してくれよ」
「映画化されればね、出演料は高いわよ」
「じゃあこのチュードルの時計はそれまで君に預けておく。出演料と滞納家賃を相殺したいからね」
それはアルコールの混じった、酔いが醒めたら跡形もなく消えてしまいそうな頼りない夢の約束事であった。
それからは恋人でも友達というわけでもなく何か不思議な絆で二人は惹かれ合い、外でも会う様になっていった。
細やかな労りと適度な冷たさで二人の距離の鮮度は保たれていた。
彼女は川越で有名な流鏑馬という神事に興味があり行ってみたいと言い出したので、丈春は彼女を連れて行く事になった。
霞が関駅から入間川へ向かって数分の所にある河越城跡史跡公園で行われていた。河越城跡といっても隣には上戸小学校があるだけで一面野原になっている。
流鏑馬は馬を馳せ、弓矢で3か所の的を射るという神事だ。
丈春は気乗りしていなかった。何故かといえば当日は教育委員会の職員も来るので、前の職場関係の人に会うのが嫌だったのだ。
帽子と伊達眼鏡をかけて気付かれないように変装して出掛けた。
眼鏡は福井県鯖江市で創業した老舗眼鏡店の金子眼鏡というこだわりの眼鏡だった。
丸形で黒色のセルロイド製で知的に見える気がして丈春は内心気に入っていた。
「戦時中の日本兵みたいよ」
彼女は丈春の眼鏡を見るなり開口一番で言い放つ。胸が軽く痛む程度の毒がまぶしてある物言いだった。
「そうか…」
丈春はさびしそうに答える。
木々たちは葉っぱを落とし、秋の店仕舞いを終えていた。彩雲を見上げると力のある冷たい風が襲い掛かり、少しずつ冬が近づいている事に気付いた。
会場はもの凄い人で賑わっていた。元々何もない野原なので見物するのには丁度いい広さであった。
流鏑馬の神事が始まると、一直線の道を颯爽と馬が駆け抜ける。途中三か所の的を次々と射抜いた。
あっという間の出来事だったが、無駄がなく観ていて惚れ惚れする情景であった。
「光陰矢の如しか」
「こんな風に人生を潔く駆け抜けたいわ」
彼女の人生が集約されているような言葉だと思った。
それからも川越の名所や歴史ある神社や寺、川沿いを毎週のようによく二人で歩いた。
彼女と最後に会ったのは川越祭りだった。
川越祭りは氷川神社が行う祭礼だ。
曳っかわせといって豪華絢爛な山車同士が出会うと囃子と踊りを競う。しばらくの間囃子を奏で踊りをお互い見せつけあう。
これが川越祭りの中で一番盛り上がる見せ場になっている。提灯の灯りが夜の闇に揺れ動きながら、妖艶な光彩が飛び交う。
男たち、女たちがそれぞれの役割の中で重なりあう息遣い、やがて観る者たちを陶酔させていく。
「物語の中で仲間の彼女をかけてリーダーが他校の番長と対決するのもこんな祭りの日だったな」
「友達は当日こなくて、リーダーがその後で仲間を呼び出して殴る」
「友達は黙って殴られ続けるけど、途中で彼女が飛んできて必死で止める」
「そうするともうリーダーは仲間を殴れなくなるんだよね」
「あの場面をみると、男と女の役割がはっきりしていた、いい時代だった気がする」
「今は社会の中でも男と女が当たり前のようにライバルになるそんな時代よね」
「君も芝居の世界でずっと戦ってきたのだろう」
「そうね、男とか女とかそんな事は全然関係なかった。只いい作品を作る為に、汗と涙の違いにも気付かない位に必死だった。決して妥協しなかった。納得いかないことがあれば、監督だろうがプロデューサーだろうが、この祭りの男と女たちのように関係なく叫んでいた」その日、彼女も祭りに参加しているような熱気を帯びた声で、昔を語った。
今年は川越市百周年という節目の年で盛大な祭りとなっていた。
一世紀という時代の中で、この街の人々にとって一体どれだけ沢山の物語があったのだろうかと思う。悲しみ、怒り、憎しみ、挫折、色んな思いが歳月と共に凝固し、そして祭りの歓喜の中で少しずつほどけていく姿を二人は時代の風の追うように眺めていた。
丈春は彼女との会話や時間の繋がりを思い起こすように小説を書いた。
それは若さと勢いのある感性が冴えわたるような文章ではなくなっていたけれど、自分の生きてきた足跡を丁寧に文字に消化しているようであった。
小説を完成させ投稿を終えて間もないある日。入間川を散歩している時、不動産管理会社から電話が鳴ったので歩を止めた。
「事件後すぐに発見されたので、事故物件にはならずに済みそうです」管理会社の担当は電話の向こう側で事務的な声で話した。
丈春が電話している横を、下校途中の女子高校生が自転車で通り過ぎる。
いつか彼女と一緒に観た、流鏑馬の颯爽と走りすぎる凛とした馬の脚を一瞬思い出した。
「彼女は遠い世界を旅していたんだ」
時間を巻き戻すようにそっとつぶやいた。
丈春は後遺症で痛む手足を庇う様に川沿いを又静かに歩き始める。
東上線の線路が遠く霞んで見えた。鉄橋の端には神様の愛情に甘えるように鳥が翼を休めている。
いつの間にか街には冬が訪れていた。
END