似て非なる双翼
夢を、見ていたような気がした。
夢と現の狭間に意識がある時、とても残念な気持ちになる。夢の世界にいつまでも居たかったと、そう願ってしまうから。
そして、夢を見ていたのだと自覚し始めた頃には、既に意識は覚醒している。幾度も繰り返した天井と向き合い、今日という日が来たことをただ嘆く。
しかし、いくらこの世の残酷さを嘆こうとも、身の回りの環境がガラッと変わることはない。社会の歯車となった者に出来ることは、社会の歯車になることだけなのだ。
「あーあ。皆死ねばいいのにな」
その願いもまた、哀しき戯言でしかない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「いやあ......それは通せないよ内藤君。我々の負担が大きすぎる」
「ですが! そうでもしなければ逆に我々の負担が......」
「二度は言わないよ。帰ってくれ」
「............ッ。分かり、ました」
ーーこの世は、腐っている。
というより、人間という生物自体が腐敗しきっている。
善人も悪人もどこもかしこに入り混じっており、時には善人が悪人によって被害を被ることがある。そういったニュースを何度も目にするが、腹が立って仕方がない。
そして何よりも、多くの人々が自分は善人だと信じて疑わないことが混沌を招いている。
それは、そんな思想を胸に抱える男ーー内藤 湊も例外ではないのだろう。
内藤はとある会社に勤務する二十三歳だ。新卒で運良く大手企業に入社したは良いものの、そこから全く人生が楽しくない。勤務先の会社には、何か嫌な空気が漂い続けているからだ。
あからさまに社員の中で仕事量の差があることに遂に嫌気が刺した内藤は、先程部長に方針転換を迫ったのだが適当にあしらわれて終わった次第だ。
「あのクソ部長......ムカつくわ、マジで」
「そんなイラついても良いことないでしょ。はい、コーヒー」
五階に位置する会社のベランダの柵に腕をかけ、一人ぶつぶつと愚痴をこぼしていると、ふと頬に冷たい人工的な感覚があった。
「......冬なんだから普通ホットコーヒーじゃね? ま、有難く受け取るけども」
「んな細かいこと気にしてるからいつまでも上司に嫌われるのよ内藤は。同期の私の評価まで下がるから勘弁して欲しいわ」
減らず口を叩き、おもむろに横を見ると、そこには退屈そうに肩をすくめる女性の姿があった。
彼女は数少ない内藤の同期だ。
名前は安藤 美咲。入社当初から何故か馬が合い、他の同期以上に仲が良い。
容姿は整っており、尚且つ仕事が同期の中では一番デキる。勿論内藤とは違って上司からの評判は良く、未来のエースなんて評価もされているようだ。
ただ、上司と同期以下とでは、彼女の接し方は全く異なる。
上司相手にはまさに優等生といった立ち振る舞いを崩さないが、自分より年下、又は同期には打って変わって強気に関係を迫るのだ。
「......俺は俺。美咲は美咲、だろ。評価下がることなんてねえって」
「あは、冗談冗談。それに気付けない辺り、割と今回は精神的に参ってる感じかな?」
「......そう、かもな」
「..................ふーん」
内藤は入社当初から上司へ噛み付くことが多かった。
それは、学生時代に行動力を何度も評価されていたからだ。行動すれば、何かを変えることが出来る。学生時代の数多の成功体験が、内藤を突き動かしていた。
ーー社会は、そんなに甘くなかった。
社員として誰かの下についた以上、内藤がただ一人奮闘した所で動かせない現実があった。
そして、美咲のような立ち振る舞いが、いわゆる『正解』であることを知ってしまった。自分を押し殺し、上司には良い顔をして、媚を売り続ける。その上で着実に仕事をこなし、何一つ騒ぎを起こさない。
辺りに漂う空気のように、無くてはならない人材であると同時に、上司には直接的な干渉をしない。
「......そんな人生、つまんねえよ」
「ーーーー」
内藤は、いつの間にか嗄れた声でそう溢していた。心の芯から出た言葉だ。常々美咲に対して抱いていた感情である。
「美咲はどう思ってんだ? 素のお前は今のお前なんだろ? 人生、楽しいのか?」
「ううん、クソつまんないよ」
「............は?」
予想外の返答だった。
死角から思い切り脳を揺らされたような感覚に陥り、内藤は美咲の発言を噛み砕くのに時間を要する。
「いやだから、クソつまんない。サイアク」
「......は、はは。マジか。意外な解答だな、それ」
「何それ。じゃあどういう解答待ち望んでたのさ」
「............ぁ?」
どういう解答を待ち望んでいたのか。
確かに、その通りだ。
一体、先の質問に何と答えられたら、内藤の心は満たされていたのだろうか。
「......ま、いいわ。こんな暗い話して午後の仕事に支障出ちゃたまったもんじゃないし。内藤も、さっさと気分切り替えな」
「そう、だな」
「あ、それと最後に」
内藤に背を向けて歩き出した美咲が、ふと立ち止まって振り返った。
「ーー内藤と、私。本質的には同じだと思うよ」
「な、それ、どういう......」
「文字通りよ。んじゃ、またね〜」
軽々と意味深な言葉を内藤に投げかけた美咲は、颯爽とベランダから姿を消した。
そんな彼女の後ろ姿を見送った内藤は、またしても視線を街中へと向ける。自然と漏れた溜め息は白く濁っていた。
視線こそ外へと向けられているが、内藤の脳裏を埋め尽くすのは美咲の言葉だった。
ーー本質的に、内藤と美咲が同じ。
「なんなんだよ、それ......」
美咲は優等生。内藤は嫌われ者。
どこも、似つかわしい所など存在しない。
存在しない、はずなのに。
「なんで、何となく解っちまうんだ......俺」
共通点は、見えてはいない。
何度も言うように、内藤と美咲は相反する二人のはずだ。
なのに、心の奥底では美咲を同類だと判断している自分がいる。
ーークソつまんないよ。
「ーーーーああ、そうか」
美咲へ投げかけた先の質問。
あの答えが、全てだ。
「俺は、お前と同類だと思いたくなかっただけなんだな」
二人の共通点は、世界に嫌気が刺していることだ。
内藤は世界が気に食わないから抵抗しようとするし、美咲は世界が腐っていることを理解しているからこそ、その腐敗を利用した最善策を取っているだけだ。在り方は全く異なるものの、思想は一致している。
「だとしたら......惨めになるのは俺だもんな」
同じ思想の持ち主が、異なった成果を手にしている。
側から見ても、自分からしても、誰が見ても敗者は内藤でしかないのだ。
だからこそ、認めるわけにはいかなかった。
内藤と美咲が同じだ、なんて。
「あー......クソ」
乱雑に髪を掻き毟る。苛立ちを手先へ全て集約し、心の靄を一気に取り払う。
「俺は今まで立ち向かうことが正攻法だって信じてやまなかったけどよ。ちげえんだな」
そう。今まで内藤を悩ませていた問題には、根本的な間違いがあった。
「そもそも『正攻法』なんてこの世には存在しねえ。成功者だけが勝者だ」
その事実に気付くと同時に、内藤の心中に芽生えた感情は、彼女に対する嫉みと愛情だった。
「......ずりいよ」
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安藤 美咲には、悩みがあった。
それは、『完璧な自分』の殻を破れないことである。
美咲の人格は小学校を卒業する頃には完成していた。
それまでの十二年間で彼女は世界の浅ましさに気が付いていたのだ。
もっと言えば、生後十二年目。小学六年生のある日に、美咲は世界に絶望した。
ーークラス内でいじめが起こった。
男子三人が、女子一人に様々な酷い仕打ちを繰り返していたのだ。
あの日の放課後、そのいじめを偶然目撃してしまった美咲は、担任へと報告した。私一人では勝てそうにないから、先生たちの力で助けてあげてほしい、と。
「仕方がないんだ」
ただそれだけを美咲に伝えた担任は、退出を命じた。
そして数日後、いじめられた被害者の児童は教室から姿を消した。
後から知ったことだが、いじめっ子の内の一人の親がとある大企業の社長であり、いじめの事実を隠蔽するために多額の賄賂を握らせていたという。
ーー理解した。
自分が感情に任せていくら訴えかけたところで、他人を変えることは限りなく不可能なのだと。
ならば、自分が変わることで多少なりとも他人が変わることを願うしかないのだと。
他人からよく思われれば、基本的には物事は上手くいく。角が立つ行為など、する必要がないのだと。自らは空気のような立ち振る舞いをするだけで良いのだと。そう考えた。
美咲のその思想は正しかったのか、中学以降の生活には常に『優等生』のレッテルが付き纏っていた。
悪い気分では、無かった。
優等生という肩書きは、称賛の意に等しい。優等という言葉は、普通より優れていることを示すのだから。
そうして優秀な自分を演じている内に、いつの間にか大手企業に入社していた。就活に苦労は無かった。
ーー入社後、安藤 美咲は生まれて初めて自分自身の在り方に迷った。理由は、とある人物が美咲に大きな衝撃を与えたからに他ならない。
「内藤 湊......」
彼の存在が、彼女の存在そのものを揺るがした。
内藤は、世界を忌み嫌っていた。
そんな中でも、彼は変革を起こそうと何度も蜂起していた。何度も、嫌われていた上司に楯突いていた。
核は、同じだ。
そう思った。そう思ったからこそ、認めたくはなかった。
ーーだとしたら、惨めになるのは私ではないか。
嫌いな世界に立ち向かうことを諦め、優等生を演じることで世界と向き合うことを誤魔化し続けてきた美咲。
そんな彼女と打って変わって、あの無鉄砲な青年は今もなお真正面から分厚い壁を叩き壊そうと奮闘している。
どちらが勇敢でカッコいいか、一目瞭然ではないか。
あの日の悔しさがフラッシュバックする。
いじめの事実を知っていたにも関わらず、被害者を救えなかったこと。もっと自分が強ければ、変えれた未来があったのではないかと、何度も泣いた。
もし、私が内藤だったのならばーー。
そう思った時、彼女の心中に芽生えた感情は、彼に対する嫉みと愛情だった。
「......ずるいなあ」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
入社してから、死にたいと思うことが多くなった。
それは、『アイツ』がいたからだ。
『アイツ』のせいで気付きたくない事実に気付かされ、『アイツ』のようになれない自分に何度も嫌気が刺した。
『アイツ』が羨ましくて、だから『アイツ』に恋をした。
でも、ダメだった。本質的には同じでも、我々は相反する存在なのだから。相反する存在にしか、なれないのだから。
だったら、この世界の存在意義とは、一体何なのだろうか。
自分の羨望の眼差しが。『アイツ』の羨望の眼差しが。互いに交差し合うだけのこの世界に、意味などあるのか。
ーー無い。
世界を嫌う者同士すら互いに手を取り合えない世界では、変革など不可能。結局のところ、人と人とは分かり合えない。
ただ、それが分かっただけでも、充分なのかもしれない。
「ーーお前が独りでここにいるなんて、珍しいじゃねえか」
「独りで夜景見ながら飲むコーヒーも味があるなあって」
「はは、同感だ。でも、ちげえだろ?」
「ーーさすが同類といったとこかしら」
「......じゃあ、いくか」
「ええ」
「ーーーー」
「ーーーー」
「......ああ、クソ」
「どうしたの?」
「最期の最期に、こんな幸せな気持ちになるなんて」
「......そうね」
「最期の最期に、この世界に意味を見出せたなんて」
「皮肉なものね」
「......なあ」
「うん、分かってる」
ーーーー愛してる。
どうか、どうか。
この夢から醒めた時、『アイツ』のようになれますよう。
かの有名な小説に若干結末が似てしまいましたが、僕が書きたいと思ったことを書いたらこうなっただけなのであしからず。