1-4.愛の前には全てが些事である①
最悪だ。
とてつもなく最悪だ。
すこぶるオズワルドの虫の居所は悪かった。どいつもこいつもタイミングが悪いと、内心で悪態をつき続けていた。
己の詰めの甘さと怠慢さに気が付いていない狩人たちも。
商売のために仕方がないとはいえ、ホイホイと常連の名を出す店主も。
そして、自分の探求心最優先が過ぎて無神経すぎるこの女もそうだ。
「君はとてつもない力を連れているだろ?それも、とびきり強大なヤツだ」
今はただ、目の前の女を蹴り飛ばしたくてたまらない。
「どうだった。昨日のやつらは」
「見れば分かるでしょう?波長が合いませんでしたよ」
「波長っていうより、方向性の違い…かねえ。お前はクソ真面目だからな」
「クソは余計です」
素材の納品はないが、紹介してもらった手前、事の顛末の報告はしなければならない。オズワルドは翌日も〈ジャンク・ド・ジャンク〉に来ていた。
店主は今日も絶好調である。狭い店では十分すぎるほどの声量でひとしきり笑うと、そういえばと話を切り出した。
「今日もお前宛ての話があるんだが、聞くか?」
「勧誘ならお断りしますけど」
「いんや?……いや、まあ、お誘いではあるな」
「はあ」
「デートのお誘いだ」
「は………はあ!!??」
反射的に大きな声が出た。それを聞いて煩がるどころか、ジャンクは予想通りだとまた笑うばかりである。
「あなた、俺が既婚者って知ってますよね!?」
「ああ、カミさんはいるって知ってるさ。だが残念ながら俺は見た事がない。お前がマリッジリング付けてるのも知らんな」
「それは、」
「それに、生憎だがこれも商売なんでね。新規の客の言伝くらいなら聞いてやらにゃいかん」
「新規の為なら常連はカモだと?」
「そうは言っとらん。行くか行かないかはお前が決める事だ。逆に言えば、伝えるか伝えないかも俺が決める事だ。俺は依頼掲示板じゃないんでな」
あっけらかんとした言葉に、思わずオズワルドはため息をついた。この店主、こういう時だけいつもこうなのだ。
だが確かに、これも商売のうちなのである。依頼をしたい相手が引き受けるにしろ断るにしろ、依頼を伝えるだけでも「この店主は顔が利く店主なのだな」という印象を与える事ができる。それにより、素材の取り引き以外でも出入りするようになり、結果的に店に訪れる客の一人となる、というわけである。だからジャンクの対応は至って自然であるし、きっと自分が同じ立場でもそうするだろう。
「……分かりましたよ。それで、どこに行けばいいんです?」
「話が早くて助かる。あのー、あれだ、喫茶店。お前がサファイアフィシュマンの腕を仕入れたっていう爺さんの」
「彼の依頼を受けた時に利用した喫茶店ですか。たしか…」
「――〈星の紅茶殿〉さ」
不意に、店の出入り口から声がした。
振り返ると見覚えのない女が一人。肩にゆるくかかるくらいの橙の髪をなびかせ、柱にもたれかかった状態で立っている。中性的な顔立ちと華美さを取り払った立ち姿は、一見男とも取れる。しかし、目が合った“彼”が「君を呼んだ女とは私のことだよ」と口走ったので、“彼女”であると分かった。
「どうも楽しみで待てなくてね。迎えに来てしまったんだ」
その発言だけを取れば、颯爽と現れ少女をデートへと誘う好青年である。
だが哀しき哉。発したのは女であり、誘われようとしているのは男である自分なのだ。
- - - * - - - * - - -
「さて、ここは私が奢るよ。何がいい?君は紅茶派かな」
「紅茶屋に誘っておいてそれを聞きますか、あなた」
「当店、紅茶殿と銘打っておりますが、紅茶以外にも珈琲、ジュース、度数3%以下の酒類も扱っております」
「ではオータムナルダルジェリーで。安価で申し訳ないが、上質な香りに夢中になって私の話に集中してもらえないのも寂しいからね」
「帰りますよ」
クラシックなメイド服に身を包んだ店員が運んできた紅茶は、テーブルでほのかに香りを漂わせている。
店内の照明は明るすぎず暗すぎず、絶妙な明度を保っていた。壁面に施されたステップには星型のアンティークや、装飾鮮やかな紅茶缶が飾られている。携帯用の照明を持ち込んで本を読んでいる客や、小声で雑談を楽しむ客、テーブルに何種類もの紅茶を並べ利き紅茶にいそしんでいる客。皆自分たちの世界に入り込んでいるようだった。
喫茶〈星の紅茶殿〉。確かに以前依頼で訪れた店である。
さて、今回の依頼主の女は、自らを「ジュリアス・メイレイン」と名乗った。女――ジュリアスは、運ばれてきた注文の品に少女のように目を輝かせたと思えば、次の瞬間には少女を口説くような視線を向けてきた。
「マムバラッド随一の解体屋にお目にかかれて嬉しいよ。どうも私は、色々と運が悪いようでね。ずっと会いたいと思っていたんだけど」
「その口調からすると、あなたはハンターですか?」
「いいや。私はハンターではないよ。しがない研究者さ」
「なら素材の依頼ですか」
「それも『いいや』だ。私は君自身に用があってきたのさ」
含みのあるような言い草に、段々と苛立ちが募っていく。
活動できる昼間の貴重な時間を、見ず知らずの怪しい人物と茶に費やす余裕はないのだ。ましてや、相手は女である。間違いなく、“彼女”の嫉妬の対象になり得るであろう。昼間から昨晩のような騒動になれば、流石に誤魔化しが効かない。
オズワルドに出来ることは、“彼女”の沸点に達する前に一刻も早くこの女との会話を切り上げることだけだった。
「それなら一体何の用です?俺もあまり暇じゃない」
「なら単刀直入に聞こう。
――君、幻獣を連れているね?」
幻獣。
そう言を発したとき、僅かにオズワルドの眉間に皺が寄ったのを、目敏い自称研究者は見逃さなかった。
「……何ですか」
「おや、名前は知らないのかい。けれど君の背中から溢れている微弱な魔力、それは印だろう。幻獣を連れている、より語弊のない言い方をするのであれば『君は、幻獣と契約を交わした』はずだ」
ジュリアスの口から出た言葉を、今度は顔のパーツを一切動かすことなく聞き取っていた。
――幻獣。それは獣の名が付きしも、魔獣とは異なる存在。
彼女は、そう表した。
「我が師、トックマスはこれを『動物の類でもあり、また似て非なるもの』として、独自の定義付けをした。その存在はこの世界の生物に依存し、契約を以て存在が確立し、時折この世界の法則から逸脱する。そして、とても気まぐれであったり、とても執着的であったりするんだ。……とまあ、幻獣という名を知らなくても、我が師の名前くらいは知っているんだろう?」
「トックマス…」
トックマス博士は、オズワルドにとっても馴染み深い名である。
魔獣生態の権威、魔獣解体学の祖、ボンドレイ条約の父。これらは全てトックマスという一人の男に与えられた別名だ。異常なまでに魔獣研究に心血を注ぎ、時に己の片目を失おうとも、時に己の寿命を縮めようともその生態解明に人生を費やした偉人。解体屋だけでなく、魔獣に関わるありとあらゆる人間であればまず知っている常識レベルの魔獣博士である。
だが同時に大変な偏屈男として語られている。そんな彼に弟子がいたなどという話は聞いた事がない。
まして、幻獣などという訳の分からない獣の研究をしていたなど――。
「それは当然さ。あの本は全く売れなくて、絶版になった」
「あの本?」
「『トックマス博士の幻獣大図鑑』。我が師ながら非常にネーミングセンスがなくてね、『トックマス異界見聞録』というタイトルの方がまだ売れたかもしれない」
「それもどうかと思いますけど」
「まあ絶版になったとはいえ、研究が途絶えたわけではない。私達弟子が其々の方法で解明を続けている」
「弟子は複数人いるということですか」
「そうとも。ただまあ、実例が少なくてね。君も見た事がないだろう?他の幻獣達の姿を」
「他どころか見たことも聞いたこともありませんよ。俺は幻獣なんて知らないし、契約なんてものも交わしちゃいない」
頑として否定の立場を変えないオズワルドに、ジュリアスは目を瞬かせた。
研究者ならば自分の推論を否定されれば、普通は正であることを反論しそうなものである。しかし彼女はそうせずに、寧ろオズワルドの否定を新たな推論の可能性として組み込んできたのだ。
「成程…もしかして、身に覚えがないということかい?幻獣を顕現させるために、君に印を刻ませ契約させた…契約主は君だが、実質的な契約者はまた別だと」
顎に手を添え、熟考する。ぶつぶつと呟いているが、ちらちらと視線はこちらに向いている。
そして、閃いたという顔をしてこう言った。
「君、少し上を脱いでくれないかい」
「初対面に何ほざいてるんですかあなた!」
「その印を見せて欲しいと言っているんだよ。それを見れば分かるかもしれない。だって君に身に覚えがないと言うのなら、君は完全なる被害者じゃないか。私の要求は君の身の危険を払うことになるかもしれないんだよ」
「俺は今現在あなたに身の危険を感じてます」
君の為なのだと言うが、どうにも信用ならない。
ジュリアス・メイレインという女からは、己の探究欲しか感じないからだ。それを「君の為」だとか「世界の為」だとか、他者へ尽くしたいが為と言われてしまうと違和感でどうにかなってしまう。疑念という色で、目が染まってしまうのだ。それならばいっそ、己の欲求がためだと物申してくれた方が清々しくていい。
「本当に知らないのかい?君の背中には、びっしりと花弁で埋め尽くされた大輪の華が咲いているというのに」
突然の事だった。
彼女との間を取り持っていたテーブルが、紅茶を乗せたまま跳ね上がったのだ。
どちらかがテーブルの脚に足を引っ掛けて傾げたわけではない。テーブルの脚は、しっかりと床に固定されていたはずだ。それが固定していた土台ごとひっこ抜けた形で跳ね上がり、小規模の地響きのような音が店内に響き渡った。テーブルの上にあった紅茶はカップから踊り出し、うまく着地出来ずにカップ諸共テーブルの上で散り散りになった。
「これは、なんだい?」
突然の出来事に、流石の彼女も目を見開いて驚きを隠せない様子だった。ただ、ようやく振り絞った声は僅かな恐怖と、隠しきれない好奇で上擦っている。
ジュリアスは異様に目を輝かせてオズワルドを見た。だがオズワルドは目を合わせず、顔をしかめて足元を見るばかりである。そこに何かがいるように、――。
否、いるように、ではない。
いるのだ。天板が外れひび割れた床から、白い腕が生えて彼の足首を掴んでいる。
「……申し訳ありません」
その光景に見とれていると、徐に彼が口を開いた。
音を聞きつけた店員が処理をしようと台拭きと塵取りを持ってテーブルへと駆け付ける。その目の前で、彼はテーブルに幾ばくかの硬貨と札を置いた。二人分の紅茶代にしては多すぎる。きっと壊してしまったテーブルと床の修理代も含めているのだろう。
「お誘いいただいて申し訳ないんですが、帰らせていただきます」
席を立ち、引き留めるジュリアスの声に脇目も振らず店を後にする。
彼の足首を掴んでいた白い腕は、いつの間にか消えていた。