90:見えない己
大林は“そこ”で、闘っていた。
ニュートリア・ベネッヘの基地の最上。目の前にいるのは窪井。
闘っているのは、自分の身体。
大林は“別ものの意思”で闘っているわけではなかった。自らの意思で闘っている。そう自覚していた。
ただ、自らの中にうねる強大な感情に呑まれているようだった。
“憎しみ”という感情に自分の身体を操られている感覚。痛みはなく、恐れもなく、あるのは“憎しみ”という感情のみ。
大林は聖剣を大きく振った。
窪井は身体を後ろへ反らせて回避したが、バランスを崩して床に尻を着いた。
両腕を負傷し、出血している身ゆえに、相当な疲労を覚えている。しかし大林には、その感覚すらもない。
振り下ろされた剣を窪井は横へ転がって逃れた。
剣の速度は常人が避けきれるものではない。窪井の動体視力が並はずれていようと、重量のある鎧を装着した身体で機敏に動けるはずもない。
――少し違う。と大林は思う。
自分の攻撃が先読みされているのではないか。
たしかに標的を追ってそれを破壊するために一直線な攻撃をしかけている。目の前にあるモノを、ただ破壊するために。
窪井はそれに気付いている。すきをうかがっているのだ。単調な攻撃に必ず生じるすきを。
――どうでもいいじゃないか。
標的の逃げ場は限られていて、体力も明らかに削れている。今はスピードも威力も、どれも大林が圧倒している。何より、彼にはそんな複雑なことを考える頭がない。
――ズドンッ!!!
大きな魔力を込めた一撃が床を大きくえぐった。
砂煙に飛び込み、剣を横に大振りする。
姿勢を低くしてかわした窪井は大林の真下から腹を蹴り上げ、その足を軸にして大林を飛ばし、背中から倒れた彼へ拳を叩きこむ。――しかし窪井の拳は床にぶち当たった。
大林はすでに窪井の頭上で剣を振り上げていた。しかし窪井はすかさず大林の腹に蹴りを入れ、攻撃を阻止し、間合いを取った。
だが大林は剣を振り上げたまま素早く接近し、刃と魔力を叩きこんだ。
――床で弾けた魔力だが、仕留めてはいなかった。
今の大林の攻撃はたしかに威力も速度も窪井が太刀打ちできるものではない。しかし窪井には、今の大林の攻撃を回避することはそれほど難しいことではなかった。
大林の闘い方だとは信じられなかった。
少しの間合いさえあれば、迫る大林をぎりぎりで目視し、少しの動きでかわすことができる。
これまで幾度となく拳を交えた窪井には、今の彼の闘い方は別人にしか見えなかった。本来ならば、こんなにもずさんな闘い方をするはずがない。
「……っ!」
窪井は歯を食いしばり顔を歪めた。
今の大林の姿が、なぜか悔しかった。
――窪井は刃を横にかわした直後、右の拳を大林の頬にめり込ませ、彼を床に叩きつけた。
大林は床に倒れながら、横目で窪井の拳を見ていた。
そのとき、ふと思い出した。――幼いころ田島に見守られながら窪井と拳を交えていたときのことを。
今闘っているのも、自分の意思に変わりはない。
しかし――
これは、自分の“闘志”ではない。
闘志とは、対峙した相手を倒すという揺るぎない意志のこと。相手が敵であっても敬意を持って闘うこと。
「…………」
『どうした? 心を染めろ、力が弱まるぞ』
すぐ身近に聞こえる少年の声。
「……オレに闘わせろ……」
大林は心の中でうなった。
『闘っているではないか。オレはお前に力を貸してやっているだけだ。お前はお前の意思で闘っている』
「違う……。これはオレじゃない……」
大林がまとう魔力が揺らいだ。
窪井はあらく息をしながら様子を見ていた。
今の一撃で腕は激しく出血し、もうほとんど感覚はない。視界もぼやけ、足もふらつく状態。もうあまり闘えないことを自覚していた。
――大林が腕を動かした。
下から上へ、振られる聖剣。その刃と魔力が胴の鎧に溝を残した。
窪井は何もできずに後ろへ退く。
――彼に向けられた大林の瞳は……、
――何も、変わらぬまま。
大林は自分の心が魔力に染まってしまったのを感じた。
『終わらせろ。それはお前の敵でしかない』
大林は心の中で雄叫びを上げていた。
それは苦しみか、喜びか、悔しさか……。
本人にすらわからない。
ただその口は言葉を発していた。
「鼓 ヲ 貪 レ 霧 ノ 角」
聖剣にまとわれた魔力は、大林のひと突きとともに、切っ先から強大な魔力の塊となり放たれた。
金属音は響かなかった。
剣の先はわずかに鎧と接触しただけ。
――しかし魔力は、
鎧の守りなど関係ないかのように窪井の胸を貫いていた。