83:今と昔
人の影もない廊下。モフキスは壁にもたれてよろよろと足を動かしていた。
彼は体中に傷を負っていた。床に血を滴らせながら歩くモフキスの表情は驚愕にあふれている。
「何なんだあいつは……! あれがシラタチのSAAP……!? 信じられん、あんなバケモノが……」
モフキスは痛みで膝をついた。
「どうにか逃げてきたが……、くっ、この状態では満足に戦えはしない。……このオレ様がなんてザマだ……!」
息を吐きながら立ち上がると、再び歩き出す。
――まずはこの傷を治療しなくては……。
と、そのとき、廊下の奥から空気を揺さぶる気配を感じて、モフキスはぼろぼろのマントの中で剣の柄を掴んだ。
「(この気配は……)」
廊下の奥に現れたのは、大林。剣を背に負い、険しい表情で駆けてくる。
――そうか、この先には統領が……。
窪井との勝負を求めてここまで来たのだと、モフキスはすぐに気付いた。
「……ふん」
モフキスは剣を引き抜く。
戦うためではなく、この場から逃げるためだ。今の状態で大林と戦ったところで勝負を楽しむことはできない。
大林もモフキスを視界に捉えたようだ。しかし彼は剣を抜こうともせず、ただモフキスへ駆けてくる。
「ククク……、悪いな大林。今は貴様と闘っている余裕は――」
「邪魔だ」
――モフキスは指の一本も動かすことができなかった。
大林が彼の脇を抜け、後ろへと走り去っていく。――大林は剣を抜かなかった。
――いや、モフキスには剣を抜くのが見えなかっただけかもしれない。
剣を抜いたのか抜いていないのか、それはもうどうでもいい。――モフキスが手にしていた剣は黒い炭のようになり、崩れていく。それを目にした瞬間に彼は気付いた。
脇を走り抜けていったのは、重く激しい魔力だったということに。……その魔力に自分は一瞬たりとも抗えなかったことに。
指の一本も動かせば、彼は手にした剣とともに崩れ去ってしまうだろう。黒い炭と化したその身体は……。
背後で崩れて消えたモフキスに、大林は何の感情もなかった。
あれほど憎かったアレモフ・キースという男を一瞬で葬り去った後も、振り向こうとはせずに歩調も変えずに走り続ける。
――あれはキースではない。アレモフ・キースは前に自分の手で殺したではないか。
モフキスは大林の憎しみの対象ではない。何度でも殺してやりたい男の顔に違いはなかったが、今の大林にはただの“影”にすぎない。
いくら憎くても、古い昔の敵だ。死んだ敵が残した影も、今、完全に消えて無くなった。
――あとは……、
廊下を駆け、階段を跳び、扉を破壊して大林は少し広い空間に出た。その先の鉄扉の向こうに、窪井の気配を見つけた大林は、背中の聖剣を抜き――
聖剣の一振りで鉄の扉は鋭く発光し、大きな音とともに斜めに裂かれ、口を開いた。大林はそこから中へ飛び込むと、ようやく足を止めて剣を下ろす。
「よお大林、ずいぶんと乱暴な登場だな……」
窪井はいかにも落ち着いた様子で、黒いローブを身にまとい、部屋の壁際に腕を組んで立っていた。
二十メートル四方の広さに少し高い天井。一見逃げ場のないその部屋に、窪井はいた。それはすなわち、逃げることもせず大林の到着を待っていたということだ。部屋の片隅には、もともとこの部屋に設置してあったものらしい機械の残骸が山積みになっている。二人きりで闘うためのスペースを用意したかのように。
「やっと“けじめ”をつける気になったか、窪井」
大林は正面の窪井を紫色の瞳でじっと見つめる。
「けじめ? バカを言うな、オレとお前の闘いなら、決着はついただろう? “けじめのための闘い”だ」
窪井はそんな大林の瞳に少しも臆さず、見つめ返す。
「……あれはけじめのための“殺し合い”だったはずだ。オレは生きてるぜ、不思議なことにな。――つまり、まだあの勝負はついていない」
「死の淵すれすれで命をとどめたお前がよく言う。オレには大いに疑問だ。……なぜお前は立ち上がることができた? なぜ、何度もオレの前に現れる?」
「決まってるだろ。勝負をつけるためだ。どちらかが死ぬまで、オレは何度でもお前の前に現れてやる」
「…………」
窪井は大林を観察するように、自分が壊したはずの彼の腕や足を眺めた。
「大いに疑問だ……。なぜお前は“立ち上がった”?」
「同じことを何度も――」
「違う。なぜお前はそこまでして立ち上がる? 人であることを捨ててまで……」
「…………」
「――お前も、オレと同じか」
二人の視線が沈黙の中で音を立てるように弾き合う。
「窪井……、お前との勝負は、まだオレのほうが勝率は上だ」
「昔の話だ」
「違うな。今も、だ」
ズドンッ! と大林は聖剣を床に突き刺し、拳を鳴らした。彼の瞳からは魔力は消えている。
「来いよ。最後に人としての決着をつけよう」
窪井は少しあ然とした目を大林に向けていたが、そのあとには呆れたように、どことなく嬉しそうに口を歪めた。
「勝利条件を聞いておこう」
「先に倒れたほうの負けだ」
「ふ……、懐かしいね……」
二人は間合いを詰め、背を向け合った。
「そうだ。あの頃のルールだったよな。昔はたしか、互いに背を着けていたはずだが?」
「……友人として闘うことを前提にしたルールだ。今のオレ達は違う」
大林は無表情に正面を見つめて言った。
「そうだな……」
窪井も苦笑いの後は表情を殺す。それから互いに数を数え、
「サン」
の合図で同時に振り向いた。