80:氷の瞳
穴を落ちていくグラソンとセレーネ。
気を失った彼女をグラソンは左腕でしっかりと抱きしめ、見えない底へ目を向ける。
穴はとても深く、このままでは二人とも命はない。
しかしグラソンはここで死ぬつもりなどなかった。
「(頼むぞ、力を貸してくれ!)」
右手の平を首飾りの水晶に押さえつけた。
――手の平から光があふれる。
瞬間、グラソンは自らの魔力が膨張し、あふれ出るのを感じた。
光はグラソンを包み、彼の背で翼を成した。
着地したグラソンの背から、氷の翼が砕け散った。
彼は両腕にセレーネを抱えて、ひざを曲げた状態で動かずに、しばらくしてからセレーネを足元に下ろした。
氷の翼に助けられたが、グラソンの魔力は数秒間で大きく削られていた。
「……くそっ」
グラソンは立ち上がるのをあきらめ、その場所を見回す。
冷たい鉄板の床。冷えた空気。そこは洞窟の入口らしく、鉄の床と土の地面の境から、真っ暗な横穴が伸びている。
「(光の石の採掘トンネルか?)」
近くには基地の内部へもどるドア。そのドアを照らす電球の明かりに、セレーネの顔も照らされる。
「くっ……」
傷の痛みが、セレーネを目覚めさせた。
「セレーネ!」
「…………」
グラソンの呼び声でセレーネは目を開いた。
彼の左腕に支えられて、静かに息を吐く。
「……グラソン……」
小さな声で彼の名を呼び、彼の頬へ手を伸ばすが、傷の痛みにうめいて力なく腕を下げた。
モフキスの剣に貫かれた彼女の横腹からは、大量の血が滴り落ちている。グラソンは傷口に手を当てて、じっとセレーネの瞳を見つめる。
――なぐさめる言葉も出なかった。
傷口を冷やし、出血を抑えてはいるが、命の炎は少しずつ、瞳の中で弱まっていく。
「……セレーネ」
セレーネは傷口に当てられたグラソンの手に、自分の手を重ねた。
そうすると少しだけ、瞳に温かさが揺れてきた。
「……私は……、両親に愛されて育てられた……。私の父は、フーレンツで武道を教える、道場主だったの。私は兄とともに、父のもとで強く育った……」
「…………」
グラソンは黙って、彼女のと息を肌に感じている。彼女がしゃべるたびに傷口が出血を起こすが、グラソンは彼女の口をふさごうとはしない。
わかっている。もうセレーネに生きる力が残っていないということを。
「……でも二年前、両親と兄は死んだ。……父の道場は、焼き討ちに遭い、全焼。稽古の最中で、何人も火の中で焼け死んだわ……。私は必死に火の中から逃げ出した」
セレーネは口を閉じる。彼女の瞳から、涙があふれ出た。
「外に出た私が、夕焼けの下で見たのは……、数人の少年達に斬り殺される兄と門下生達。私は逃げて、木の陰に身を潜めて燃え落ちていく道場を目にしていた……。恐くて動けなかった……。殺される理由なんか知らないのに……」
呼吸が乱れた。
グラソンは彼女を抱き寄せ、セレーネは何度か小刻みに息を吐き、呼吸を整える。
出血をやわらげることしかできない。彼女の命はもう何分ももたないだろう。
セレーネは目を閉じて涙を消した。
「…………」
目を開いた彼女の瞳には、恐れの色はなかった。
「動けない私を、少年の一人が見つけた。剣を振り上げる少年を見て、もう死ぬんだと思った。……けどそのとき、“あの方”が私を助けてくれた。数秒で少年達を蹴散らすほど、強い方だったわ」
その言葉をグラソンはつらい思いで聞いていた。
「お前の中のデンテールは、命の恩人か……。しかし――」
デンテールが人を助ける。気まぐれか、何かの目的のためか、どちらかだろう。しかしそんなことを今のセレーネに言うのは、気が引けた。
「でも、私はあなたにも助けられたわ、グラソン。……あの方は、私を実験のためのネズミとしか思っていなかったこと、気づいてたけど、私はあの方のためならと思ってた。今は、あなたのおかげで助かったと、思ってる……」
セレーネの明るい笑顔。彼女のそんな表情がグラソンには言葉よりも最高のお礼だ。
「……私の過去、あなたには知ってほしかった」
「…………」
「そう、忘れてたけど、マントの中を……。あなたが探していたもう一つのもの……」
セレーネはグラソンの頬へ手を伸ばし、彼の顔を自分に近づける。
「今の私は、女に見える?」
「……ああ」
グラソンはうなずく。これまでの彼女よりは、ではなく、本当に彼女が美しく見えたから。
遅くなっていく彼女の脈を感じながら、心は熱に燻られる。
自分の心……。グラソンはその意味を理解できず、呼吸の止まったセレーネの体を抱きしめたまま言葉も出なかった。
それでも一つだけふと思った。
「案内人……」
ずっと黙っていた案内人へグラソンは小声で話しかける。
[……はい]
「オレの心は……、氷ではなかった」
[…………]
グラソンの手に重ねられたセレーネの手が、音もなく滑り落ちた。
怒りとは違う、悲しみの痛み。
なぜこんなにも悲しいのか理解できない。それが苦しくてしかたがなかった。
しかし、その感情を押し込めておくことしか彼にはできない。
それには少しの時間だけ。すぐに心は落ち着き、片手でセレーネのマントを探って、それを見つけた。
手のひらに乗る小さなカプセル。それをズボンのポケットに入れ、小さな声でセレーネに礼を言った。
[……なぜ言ってくれなかったんですか?]
「…………」
[いえ、まだ何も言ってくれていません。あなたの目的は何なのですか?]
「…………」
グラソンはゆっくりセレーネを離し、立ちあがった。
[グラソンさん! わたしも宗萱さんも、あなたを……!]
「オレを、信じていなかった?」
[信じていました! だからこそ、今まであなたとともに戦ってきたのです!]
その言葉も耳に入れないかのように、グラソンは歩き出す。
[なぜ言えないのですか!? 仲間にも言えないのですか!?]
「…………」
[どうして……、宗萱さんにも……!?」
グラソンは足を止めた。
「……お前達を仲間だとは思いたくない」
冷えた空気に、とても冷たい言葉が馴染んだ。
[グラソン……]
どんな言葉も、出てこない。
発声機関が停止したかのように。
本心で言ったとは思えない。思いたくなかった。
グラソンは無心で前を見つめているようだ。
「…………」
空間が振動している。
基地内の戦いをグラソンは魔力で感受し、それから覇気も。
どこかの戦いで、覇気と魔力が強まった。